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撲滅・検討の如何を考察、問題を提起
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エレ糞は、来年にて生誕50周年を迎えるという。
何とも盛り上がりに大いに欠ける50周年になりそうな気配で、節目でもあるはずの年だというのに、悲しい限りである。

月刊エレクトーン(以下、月エレ)では、平成20年2月号より、古参の所謂大御所を所かまわずかき集め、創世記の思い出を語らせている。
全く進歩の無い祝い方であるが、中には川村江一・江川マスミ(芥川 眞澄、芥川也寸志の第3夫人)といった、今は余りお目にかかれない面子も登場する。


第一弾が、道志郎と齋藤瑛美で、こちらは、二人による対談形式となった。
基本的に、筆者はこの2名に対し、余り存在意義を感じない(というよりも、そもそも余り好きではない)。名前に好感がもてない。瑛美と書いて「ひでみ」と読ませんとするなど、感覚が悪いにも程がある。
アレンジにしても、日野正雄師や田代雅士師のほうがまだ面白みを感ずる。
「そこに居るだけでありがたい存在」という声がある。篠沢秀夫教授にはそれを感ずるが、この2名には筆者は特にそうしたありがたみを感じない。
やはり「面白いアレンジ」と考えるところの上記2名の方にまだそうしたありがたみを感ずる。


道志郎はエレ糞の世界に於いて最長老とせられる。別にそれほど驚愕すべきことでもない。
昭和2年生まれ、やうやく80歳に達したという若さである。
嘗ての、江戸落語の長老たる6代目三遊亭圓生、8代目林家正蔵(後の彦六)、往時の俳優界の名優、志村喬や宮口精二らと比較するに、親子ほどの年の差がある。
筆者の挙げる2名となると、更に若手となる。


内容は、「エレクトーンの歴史」(平成6年8月、尚美学園刊)とほぼ同一で、何の斬新さも無い。
中には為になる箇所もないわけではないが、やはり昔からの持論そのままであり、何の進歩も無く、全く意義の無いコンテンツになってしまっている。

「今のエレクトーンは、機能に頼りすぎ」
「機能が多すぎてやることがわからない」
「オルガントーンをもっと大切に扱え」
などなど。



そんな中、激しく憎らしい発言を見つけた。それが茲に紹介する、齋藤瑛美翁の戯言である。曰く、

「今のエレクトーンは、色々な音色が予め用意せられているからか、エレクトーンの子は行儀が悪い!
『蓋も閉めないのか?!』と学生を叱っている。
『弾かせて頂きます』という楽器に対する謙虚さがないと。造音の手間をかけないせいですかね」
と。

更に、当該翁、かく発言し続ける。曰く、

「今のエレクトーンはメカに助けられている気がする。
もっと筋肉を動かし、汗をかいて音楽やらないと、エレクトーンは生き残っていけない気がする」
と。



よくぞ平気な面を提げて、寧ろ大御所気取りで好き勝手に貶してくれるものである。時代錯誤も大概にせよと物申したい。
「エレクトーンの子は行儀が悪い!」のところ、わざわざ感嘆符を用いていることに、筆者は更なる憤りの念を覚える。

「弾かせて頂きます」なんて、どこの馬鹿がそんな愚行をとろうか。どうして一々「弾かせて頂きます」と思わねばならないのか。
一々お辞儀をせねばならないのか。
全く余りの馬鹿馬鹿しさに反吐が出放題だ。こんな機械にお辞儀をしていたら、周りから「現実との区別がついていない!」と安田病院逝きではあるまいか。大御所気取りが、何と言う勘違いの感覚を教え込む。

そんなに馬鹿らしく思うならば、一々こんなブログに物申すなよと思われようが、余りの時代錯誤も甚だしい言動に腹立たしさを覚えると共に、一抹の虚しさを感じたため、こちら「嫌い」のカテゴリにて大いに物申させていただくと言うわけである。
実際、この発言を真に受けて手持ちのエレ糞にお辞儀をするようになったという馬鹿・ユーザーが存在するのだ。
そうした態度をとっていることをブログにて一々自慢する始末。あなくわばらくわばら。



何が腹立たしいかと言うと、エレクトーンの子が行儀が悪いとしているところ。
その原因として、「色々な音色が予め用意せられている」ことを挙げている。これがまずおかしい

色々な音色が予め用意せられていることが、どうして行儀が悪いことの原因につながるのだろうか。

行儀を悪くさせているのは、間違った娯楽性を行わせているヤマハであり、アイドル気取りのプレイヤーであろう。
コンサートにおいて、関係者全員が「星の王子様」の振り付けを行っていれば、行儀は悪くなろう。

困り者なのが、近年、ふって沸いて出てきた「うにとろプロジェクト」。
富岡ヤスヤが率いている、所謂ティーンズを所かまわずかき集めた丸で方針・信条の感ぜられない集団だ。
このうにとろとやらの面子の評判は頗る悪いと聞く。
「プロのプレイヤーに認められた」という奢り高ぶりがあるからか、態度は果てしなく高慢で、ユーラシア大陸よりも大きく、裏方のスタッフに対する接し方は誰にも止められないほどに劣悪だと言う。

演奏能力?あるわけがない。このうにとろは、「下手糞だけれども一所懸命やっている」ことを売りにしている。
富岡ヤスヤによると、うにとろの重要なるポイントは、「一所懸命さ」にあるという。能力よりもまず一所懸命さにあるとし、この一所懸命さがエレ糞の世界の活力の向上につながるのではと考えているようである。

この「一所懸命さ」というのは非常に曲者。こんなものでプロが気取れるならばプロのプレイヤーは氾濫してそれこそヤマハの世界はどこの音楽家たちからも相手にせられなくなろう。一所懸命さを駆使してやってゆけるのはグレード6級まで。6級と言うと、がんばれば誰でもとれる、それこそ2週間の取得も夢ではない、丸で価値の無いものだ。

情熱なんて、聞こえはよいが、演技次第でどうにでもなる。情熱を、貢献如何の基準にしてしまうと、そのうち、見境がつかなくなり、取り返しのつかない事態に陥ろう。


うにとろの勘違い十代集団は、「私たちは下手糞ながらも誰よりも情熱を絶やしていない!エレ糞の世界の発展のため、誰よりも誠意を尽くしている!」と考え、ついつい裏方のスタッフに対して横柄になってしまうのであろう。
これでは、いつまでも音楽界から「音楽だ!楽器だ!」として認められることはなかろうし、発展するとしても一時的なものにしかならない。

エレ糞の場合、世間に認められていないことが災いし、「我々は下手糞ながらも世間にエレクトーンの素晴らしさを広めんと必死なんだ!」という傲慢なる使命感が宿ってしまう。


うにとろの香具師たちは全くの度素人。JOC出身と言うこともないし、コンクール受賞経歴すらない。
下手糞なのが第一条件という風潮がある。風潮と言うよりは、規則と言うべきやも知れない。
うにとろで礼儀作法等が教え込まれればよいのであろうが、残念ながら、そこで得るものはというと、下手糞でも情熱ありげな態度をとれば、簡単に舞台に出られるんだ、ヤマハの世界はそれほどまでに甘っちょろいんだという非常に悪い意味での「遊び心」が得られることになる。

そうした面子が、貴様の教鞭の取る所の徳島文理大に流れ込んで居るのではなかろうか。
いきなり「行儀が悪い!」などと、全国がそうであるかのような発言をせられて不愉快至極だ。
全国に刊行せられることになる誌面上にてそのような発言しているところから、全国がそうであると思い込まれておいでであろう。
アフォかというのだ。



瑛美翁、「エレクトーンの子は行儀が悪い!」と、如何にもエレクトーン使用者の行儀がなっていないような発言をしている。
エレクトーンの使用者に偉そうに物申す前に、貴様の身近にあるエレクトーン関係者の行儀とやらを直さねばなるまいか


ヤマハ音楽教室の講師陣は、非常に口喧しく、仕事がしにくいと技術屋は口をそろえて言う。
先述の岩内佐織師は、華奢なる体型にも関わらず、荷物運びや機材準備の手伝いには事欠かないという。
中途半端な位置づけの講師陣が最も厄介とのこと。


うにとろは礼儀作法がまったくといってよいほどに整っていないと記した。
JOC出身者にもそのような傾向はありやしまいか。
ここの面子は、子供時代からプロの位置にある。
基本的に、子役出身者と言うのは、プライドがWTC並みに高いと言われる(吉田清、平成13年の著書)。
子供時代から、裏方の面倒が丁重に入ろう。子供だからと、裏方は人一倍甘くなろう。
子供時代に丁重なるスタッフの面倒が当たり前のごとく入る。子供時代に植えつけられたイメージと言うのは非常に心の奥底に浸透している点を前述したことと思う。
大人になり、裏方のスタッフの対応が少しでもぞんざいになるとそれだけでご立腹状態になろう。
芸の世界に於いては、芸暦順に上下関係が決まることになる。子供時代からプロとして活躍してきた香具師たちは、芸歴が古いばかりに、年齢で言えば父親ほどの齢に当たるものに対してもため口で、非常に尊大なる態度をとってしまいがち。
外の世界からすれば、当該尊大なる態度をとっているプレイヤーの感覚にこの上ない疑問を覚えることになろう。
ヤマハの世界に於いては、当該プレイヤーは古い芸歴であるばかりに、正しい態度となってしまう。

もちろん、人は十人十色である。上述の岩内師もJOCだ。例外はあるにせよ、J専出身にて、そのままの形でヤマハに居残り、いい気になって芸歴の古さを武器に尊大なる態度をとっていい気分になっている風潮はなかろうか。1級取得者となると、以下略だ。


デモ上がりの勘違い森脇顔のような系統も然り。成金状態で、人気も高い、ヤマハから「プレイヤーと認められた」という誇りもある。富岡ヤスヤ・鷹野雅史とは一味違うという奢りもある。人気も尋常でないくらいに高い。態度は当然悪くなる。寧ろ、これほどの人気者になると、態度の悪いことがある種のステータスとなってしまう。
どんなに態度が悪くても、憧れのプレイヤーのためならと、遠方から多くの者がレッスンに詰め掛け、コンサートや公開講座を追いかける。

音楽家、芸術家というべきか、かかる人々は類い稀なる才能、感覚を持ち合わせているばかりに普通の接し方ができない。クラッシックの音楽家達の生涯を紐解くに、大抵そのような内容になっている。態度が悪いのは我慢し、そこから究極のセンス、人気者の才能を学び取らねばならないと必死になろう。



態度の悪い香具師たちは、使用者に限らず、否、むしろ、プロの現場にて活躍する香具師たちにこそ警告すべきものではあるまいか。

我々一般の使用者というのは、どうしても上を参考にしてしまいがち。当然であろう。トップのことを信用するものであり、一々批判能力など有していられない。生計を賭けた勉強という形で演っているのではなく、娯楽気分であり、そこまで真剣に善悪を判断していられない。

大人ならば多少の批判能力は持ち合わせられても、幼少年となると批判能力などとても持ち合わせていられず、トップの言動をほぼそのままの形で信用してしまう。結果的に、態度の悪い一面を「格好良い」と勘違いし、そのまま徳島文理大に流れ込んでいると言う構図はなかろうか。

瑛美翁のレッスンを受けに大学に通う者は、プロ志望の者も多く存在しよう。森脇顔の態度の悪さを「格好良い態度」と勘違いしたままに入学してきたのであれば、行儀が悪くて当然と言えよう。



裏方のスタッフと言うのは、コンサートを行うにあたり、不可欠の存在だ。もっと謙虚に扱わねばならない。それが芸歴が古いからだの、ヤマハに「プレイヤーと認められた」からだの、人気が絶大だからだの、スタッフに対して尊大なる態度を以て接する理由はどこにも無い。
外の世界では、音楽家達は非常に裏方のスタッフを大事にしている。見えないところで非常に謙虚に接している一面がある。


思えばバカさんも頗る行儀が悪く、よくよく考察してゆくに、人間的魅力のかけらもない。人前では、人生論(殊に母親への愛)や神道なんてものをさも人一倍理解しているように語り、庶民派を気取る。然る中、母親の喪中の手紙の裏に結婚報告をする有様。関係者はそれで「おめでとう」「お幸せに」と浮かれる有様。
こちらが疑問を呈すると「あなたは感覚が狭い」「冗談がわかっていない」と愚弄三昧。

こんなことで、どうやってエレ糞に関わる香具師たちの行儀を正せと言うのか。



一般の使用者に物申す前に、プロ達の、殊に勘違いのプロ達の行儀を何とかせよというのだ。
もちろん、誌面上にて格好つけて物申すのではなく、人の目の行き届かないところで勝手に物申しておけと言うのだ。
そうしてから、お上(カミ)の行儀作法が完璧に整い、その上で我々使用者に物申したいことがあれば大いに物申せと言うのだ。それならばまだ茲まで瑛美翁に憎悪感を抱くことは無い。

勘違いが酷すぎるのだ。プロ達になると、途端に物申せないのか。物申すと貴様の立場はなくなるのか。貴様の権力はその程度の矮小なるもの


富岡ヤスヤにしても、エレクトーンを使って拳銃の音を出すだの、タイマー代わりにするだの、「100万円もするのだからそれくらいのことをしなきゃ」と言ってエレ糞を玩具扱いする有様。そうした態度がそもそも「行儀が悪い!」とは言えまいか。トップの、プロのかかる勘違いの言動を力尽くででも撤廃しないことには、瑛美翁のいうところの「行儀」には永久に改善の兆しが見られまい。

「100万円もするのだから云々」と言うのならば、そうした余計な機能を無くし、10万円に下げてみせるのが本来のあり方ではなかろうか

使用者と言うのは、タイマー代わりに用いんとして100万円などはたかない。タイマーにはちゃんとしたタイマーを用いる。用品店に赴くと、無料でタイマーを差し出してくれるところもある。
エレ糞には音楽を求めて購入するのだ。


瑛美翁は、「蓋も閉めないのか」と学生を叱ると言う。
蓋を閉めないのは、次のレッスンの子が控えているから閉めないのだ。今のエレ糞には蓋なんてないだろ。

捨て痔亜というのは、非常に曲者の一面がある。当初、可搬性を売りにしていた。歴代のエレ糞モデルの中で最も壊れやすくできているのだ。無闇に蓋を動かすと、エレ糞の寿命は端役尽きてしまうことになり、蓋の機能は瞬く間に消失してしまう。

当該学生は、行儀が悪いから蓋を閉めないのではない。捨て痔亜がどうしようもなく脆い設計のため、無闇に手が出せないのだ。
そのことをもっと考え、学生に物申す前にヤマハ音楽振興会に物申すべきであろう。何を考えているのだ、この翁は。


最も腹立たしく思う箇所は、題名にも挙げた箇所だ。
「弾かせて頂きますという謙虚さがないと」と当該翁はのたまい、その謙虚さに欠ける理由として、「造音の苦労を知らないこと」としている。


要するに、エレ糞に関わる香具師たちには謙虚さがないということか。
エレ糞の使用者には楽器に対する謙虚さが無い、エレ糞に対する思いやりがないということか。
造音の苦労を知らないのがいけないのか。

何と言う時代錯誤の感覚であろうか。未だにこんな感覚を引きずっている瑛美翁に筆者は大いなる憤りを感ずる。

エレ糞に対する謙虚さ、思いやりを失わせしめた者はどこのどいつだ。

ヤマハ関係者、ヤマハ音楽振興会ではなかろうが。



エレ糞は、一台買うのに最低100万円を要する。
初心者モデルだと、安価で買えるのであるが、取扱店はしきりに上位モデルを勧めてくる。
少しでもグレードを進級させると、上位モデルでないと絶対に学習できないシステムになっている。

楽譜を出版する側も、楽曲の作編曲を担当する者も、上位機種でないと明らかに弾きこなせない楽曲を差し出してくる。
その典型例がバカさん。
これなんか、EL900のホリゾンタルタッチを駆使しないことには絶対に弾きこなせないような曲ばかり提供してきた。
ホリゾンタルの教則本を出し、大いにエレ糞の世界を沸かせた。

使用者側は、やはり上位機種の優位性を感じ取り、必然的にエレ糞の購入に最低100万円を費やすことになる。


エレ糞は、モデルチェンジが凄まじく早い。
FS/FX(以下「FX等」と称す)の時代になった昭和58年以降はそれは酷かった。

FX等の場合は、旧来のE型、D型で何とかごまかせる楽曲が多かったが、昭和62年、HS/HX(「以下「HS等」と称す)では、リズムパターンプログラム(RPP)が導入せられ、愈々購入しないことにはどうにもならなくなった。

その後、平成3年にはEL二桁モデルが登場。90は、125万円もの大金を費やさねばならなかった。
そのEL二桁シリーズは誠にタチの悪いモデルであり、HS等との互換性がまったく図られないものとなった。
その不便さは、今もなお尾を引いている状態である。
初期の頃は、EL二桁に関する楽曲に、余り良いものがなく、HS等を支持するものが多かった。
平成5年になると、そろそろ作編曲者がEL二桁に慣れてきたこともあり、HS等に陰りが見え始めた。HS等の放つ音色は、EL二桁と比較していかにも陳腐であった。

互換性が無く、折角HS等にはたいた大金も台無し。
丸々買い替えを行わねばならない事態となった。

その悪態は、平成10年にまた起こる。2月であったか、「起こらない」としてきたはずのモデルチェンジが行われた。
営業スタッフは、「起こらない」「起こりえない」と散々断言してきたモデルチェンジがだ。
EL3桁の登場である。EL二桁との互換性を重視したと言うが、基本的にバランスが異なり、EL二桁にて培ってきた好きな音色は台無しに。

互換性というと、一見ありがたく思うが、互換性を大事にしてきただけに、絶対に使わないプリセット音色が凄まじく増え、どれがどれだかさっぱりわからない状態になった。元は変わっていないのに、音色を増やしてしまい、一つ一つの音色は劣化してしまった。
正確に言うと、新たなる音色はそれなりに良くできているが、二桁から引き継いだ音は明らかに劣化している。新たなる音色を良い音色に聞かせるために、二桁から引き継いだ音色をわざと劣化させているのである。酷い話だ。
それならば互換性のありがたみが無い。


ホリゾンタルタッチと言う新たなる概念が導入せられ、ヤマハは「新たなる奏法を目指して」と大々的に張り切っていたが、それができるのは900以降の上位モデルだけだ。必然的に900を買わねばならない状況に陥る。

EL三桁は、モデルチェンジは起こりえず、マイナーチェンジの時代になると営業スタッフは大々的に宣言していた。

その6年後、平成16年、STEGEA(以下、「捨て痔亜」と称す)が登場。
「これからはマイナーチェンジの時代に」「買い替えの負担はかけさせません」と大々的に宣伝するヤマハ。
逆に言えば、「是まではフルモデルチェンジの時代」「買い替えの負担はかけさせます」。

HS等の時代に大問題になった互換性のなさ、買い替えの負担を使用者に強いることとなった。

EL三桁では、互換性というものが今一つぱっとしないモデルチェンジをさせた。
次の捨て痔亜では、フルモデルチェンジだ。当然音色は良くなっているものと期待するが、全く変わっていない。
この捨て痔亜の欠陥については後述したい。

茲では、瑛美翁ののたまうところの謙虚さの欠缺の原因について、筆者の考察するところ、思い当たる箇所を述べてみたく思う。

なぜ、エレ糞に対する謙虚さがなくなってしまうのか。
それは、モデルチェンジが凄まじく早く、愛着が沸く前に買い替えをせねばならないからである。

100万円もの大金をはたいて買ったエレ糞だ。本来ならば、どの楽器使用者よりも愛着が沸き、謙虚さは起こりうるはずなのだ。
それが、どうして謙虚さがどの楽器よりも欠如しているのか、もっと瑛美翁はその原因となるところを考察すべきであり、その謙虚さの欠缺と言う結果だけをみつめてあれこれ一般の使用者に無理難題を強いるべきではない


小熊達弥師は、自筆の研究論文「EL演奏表現に関する現状と諸考察」(平成6年発表)の中で、エレ糞の譜面の問題として、「原因としての音楽要素の把握」の欠缺を挙げている。
筆者に言わせると、原因としてのエレ糞使用者の謙虚さの欠缺の把握すら為し得ていないように思える。瑛美翁の発言を考察するに、結果としての謙虚さの欠缺をひたすら批難しているように思えるというわけだ。



100万円もするモデルを買ったは良いものの、4年、長くて6年・7年で買い換えねばならないものに対し、どうして愛着がもてようか。どうして謙虚さがもてようか。

たった数年しか使わないエレ糞に対して100万円もの大金をはたくのだ。エレ糞使用者からすれば、「自分は僅か数年の為に100万円もの大金をはたいているんだ!」と傲慢な姿勢にならざるを得ないのは当然であろう。どうして非難せられねばならないのだ。

一度エレ糞使用者がごとく、真面目にモデルチェンジに付き合えと物申したい。こんな異常なる商品のライフサイクルに付き合っていたのでは、謙虚さなんてとても有し得まい。僅か数年でおさらばするエレ糞に対し、わざわざ「弾かせて頂きます」なんて誰も思わない。
「どうせ数年でおさらばだ」とあきらめの姿勢、弛んだ心を以てエレ糞に臨んでいるのが実際のところと言えよう。

エレ糞の場合、グレード試験を受けるのに指定機種というものがある。大抵、というより、絶対にと言ってよいほどに上位機種が充てられる。
できる限り最新のモデルを使用させたがる試験構成になっている。旧来の機種を使い続けては居られない状況に陥ってしまうのだ。

EL以降になってから、譜面に付属する形でFDデータがある。EL3桁になってから、EL二桁のレジストデータは随分と劣化しているように聞こえるようになった。それだけEL3桁と言うのは素晴らしいモデルだからか。
否、EL3桁が素晴らしいのではなく、EL二桁のレジストを劣化せしめるのである。そうすることで、EL3桁の音色が他のどのモデルよりも如何に秀でているか、そのように魅せるのである。酷い話だ。
例を挙げると、バカさんのデータは、EL二桁にあった、アルバム「ストリングス・バラード」「オーロラに乗って」のデータはバランスが絶妙で単純ながらも良くできていたのに、「パーソナル 松田昌」のEL二桁のデータは、音色の出力がバカ大きく、バランスが酷いこと酷いこと。これではEL二桁を安心してはとても使えず、謙虚さなんて沸き得ない。

EL70というモデルがあった。ここの配布データは悲惨そのもの。
明らかに手抜きばかりのデータが提供せられていた。

EL90を買わせるためにこんなふざけたデータを配布しているとしか思えない出来であった。


エレ糞使用者は、他のどの楽器使用者よりも愛着があるはず。100万円と言う大金をエレ糞にはたくのだ。大事に使いたいという思いは誰よりもあるはず。エレ糞愛好者のブログを閲覧してみよ。エレ糞が買えた、上位モデルが買えたという喜びがどれだけ溢れ、大切に使いたいという思いがどれだけあることか。そうした愛着、謙虚さをつぶしているのはヤマハ音楽振興会だ。今正に貴様が取材を受けているところの馬鹿集団だ。
茲が無闇にモデルチェンジを行うものであるから愛着なんて消失するのだ。
次第に、エレ糞使用者は、「自分は僅か数年のために100万円もの大金をはたいているのだ」という怒りの姿勢になってしまい、瑛美翁の忌み嫌うところの所謂傲慢な姿勢のエレ糞使用者ができあがるのだ。
僅か数年しか寿命の無い高額なるエレ糞に対し、「弾かせて頂きます」という姿勢を有する、有さしめる方がどうかしている。


「弾かせて頂きます」という謙虚さが無いのは、貴様達プレイヤーではないのか。
外の世界に認めてもらえないので泣く泣くエレ糞に頼りっきり。本当はエレ糞が大嫌い。
どうしてエレ糞プレイヤーと言われる人々がヤマハ内部でしか評価せられないのか考えてみよ。良い音楽を提供しているならば、たとえ機械の上にて音楽を披露していても万人に認められて然るべし。エレ糞関係者は、(外の世界の)音楽家達はエレ糞の素晴らしさを理解せず、所詮は機械だからとして偏見を抱きすぎと真剣に思い込んでいる有様。
プロに謙虚さをもたせずして、どうして一般の使用者に謙虚さが抱けようか。


エレ糞使用者は、元来は謙虚至極。プレイヤーたちに対する接し方を考えてみよ。
バカさんの取り巻き達の、執拗なるまでのバカさんに対する謙虚さには反吐が出る。
冷静に考えれば直ぐにパチモノとわかる浅はかなる打算を虚偽と見抜けず、「マサさんに見習って」「マサさんの訓えに遵って」と張り切り、自らの夢をあちらこちらの人々に語りかけ、公開プロフィールに堂々と当該夢を宣言する有様。冗談ではなく、真剣にだ。その心酔っぷりには唖然とするほか無い。
少しでも不平や批判を口にすると、途端に袋たたきにせられる。

森脇顔の取り巻き達の謙虚さはもはや常軌を逸している。真剣に「格好良い」と崇め奉り、本来臨時記号が複数ある楽曲を嫌う者が、森脇顔のそれに関しては一所懸命に立ち向かっている。これのどこに傲慢さが垣間見られようか。


「造音の手間をかけないからですかね」
まったく、どこぞの脳味噌をひねり出せばこのような頓珍漢なる回答が出るのか理解に苦しむ。
造音の手間なんて全く関係が無い。モデルチェンジの異常なる早さ、互換性の無さが全て悪いのだ。
「~ですかね」と、ここだけ丁寧語を用いているのも実に嫌味たっぷりだ。


瑛美翁は、造音の手間をかけないこと、沢山の音色が用意せられていることをエレ糞使用者の謙虚さの欠缺、行儀の悪さの原因に考えているようである。大いなる勘違い嗚呼勘違いである。


沢山の音色が用意せられているならば、エレ糞使用者は、本来謙虚さがにじみ出ていないとおかしい。沢山の音色があることをエレ糞使用者は楽しみの一つとしているはずだからだ。エレ糞の魅力を語るに当たり、音色の多さは、必ずといってよいほどに出てくる。

その沢山の音色の在り方が問題なのだ。

使えない音色ばかり用意しているだろ。>ヤマハ音楽振興会


よく、デモンストレーションにおいて、かかる発言を耳にしたことはあるまいか。曰く、
「エレクトーンは、奥が深い! ヴォイスエディット次第で、これほどまでに良い音色が出せる!」と。

実際、その場でエディットをやってみせ、良い音色を出してみせる。
出席者は、「奥が深い」とそのデモンストレーションに酔いしれてみせる。


茲でお立会い。ヴォイスエディット次第で、これほどまでに良い音色が出せると言うのであれば、初めからその音色をプリセット音色として設定すれば事足りやしまいか。どうして、その「良い音色」を出すのに、一々ヴォイスエディットというものを経ねばならないのだ。素直にプリセット音色をそのまま用いることでよい音色を提供せよと言うのだ。バカかこのデモンストレーションは。

瑛美翁の訓えに遵い、ヴォイスエディットを奨励しているのか。
本当にそうだとしたら、齋藤瑛美は死刑決定である。忌忌しき事態であり、絶対に許すまじきことである。ヤマハの愚行を肯定し、使用者の在り方をヤマハと共に否定しているのだ。100万円も平気ではたかせておきながら、堂々と否定するとは、何と言語道断たることか。


造音の手間云々を瑛美翁はのたまうのであるが、瑛美翁よ、貴様は、己の欲するエレクトーン、理想のエレクトーンとしていかなる形のエレクトーンを挙げていたのだ。

「EL10が欲しい」などとぬかしていたよな(「エレクトーンの歴史」尚美学園、平成6年8月、30頁を参照してみよバカ)。

音色は3つでよい。硬い音、柔らかい音、ボタンを押したら切れる音で事足りやしまいかと。何も考えないで音楽にのめりこめるようなエレ糞ができないものかとのたまうのだ。茲では、瑛美翁は寧ろ造音の手間を問題にしていた

この月エレの対談に於いては、己の理想としてきた造音の手間の欠缺を問題にしているのだ。何と言う自己矛盾であろうか。
結局、造音の手間は必要なんじゃねえか。ざけんじゃねえよ。
年老いてしまって持論がよく思い出せないというならば、弟子の日野正雄もくたばったことだし潔く回線切って首吊って死ね。



ヴォイスエディットの疑問に話を戻す。
兎に角、一々エディットをしないことにはどうしようもなく使えない音色が200個くらい積まれているのだ。使えない音色に対し、愛着を抱く者など誰も居ない。まして100万円もの大金をはたいているのだ。

捨て痔亜では、プリセット音色の充実を図ることを売りにしていたが、この辺りは、EL時代と何等変わっていないと言われる。何のためのモデルチェンジだったのやら。


ヴォイスエディットにて問題が解決するならばまだよい。
次のような台詞を聞いたことはあるまいか。曰く、
「音色はプリセットにとどまらない。『ヴォイスディスク』で新たなる音色を!」と。富岡ヤスヤが良くやっていよう。
そう、別売の「ヴォイスディスク」の宣伝文句だ。これを別売にすることで、エレ糞の音色に更なる世界観が広げられると錯覚せしめんと試みる。


当然、当該別売のディスクには魅力的な音色が積まれている。別売による発売だ。当然であろう。
他にも、電話のベルだの、ピストルの音だの、プリセット音色のエディットを以てしては到底出し切れない面白おかしいSEがあまたに積まれている。
ヤスヤは、デモンストレーションの折、それらのSEを駆使したままごとを演っていたであろう。


茲で、次のような疑問が沸きやしまいか。
そんなに魅力的なヴォイスディスクを別売の形にて供給するのならば、「初めからそのディスクに積まれている音色をプリセット音色にて提供してくれれば良いのに」とは思わないであろうか。

ヴォイスディスクを魅力的に聞かせる為、プリセットの音色は劣化してしまってはいなかろうか。
捨て痔亜のプリセット音色は、EL時代と何も変わっておらず、音色が増えた分、何が何だかわけがわからない状態になってしまっている。
これでは、謙虚さなんて凡そ沸かない。沸くわけが無い。
行儀が悪くなってしまうのも無理はあるまい。
大金をはたいて、使えないプリセット音色を200以上も用意せられるのであるから。

指導者も、何故か「人にちゃんとした演奏を聴かせるにはヴォイスエディットを積極的にせねば駄目だ」とのたまう有様。
プリセット音色を、プリセットの状態のままに使っては駄目だと言うのだ。
そんなにプリセットがコンクールにて受けないというならば、プリセットはなくし、全てUSERヴォイスにし、全ての音色を0からつくる構成にしてしまえばよいのだ。


EL90発売時にも、そのような傾向があった。別売ディスクとして、「コンテンポラリー・ヴォイス」「オーケストラルヴォイス」というのがあったろう。
付属のレジストデータを分析してみるに、殆どこの別売のディスクにてレジストが作成せられているのだ。
特に酷ったのがFUNKY FOX。
「USER」の音色は、殆ど「コンテンポラリー・ヴォイス」からのお流れだ。
「Scandal」にでてくるSEは、「32:SE3」という音色だ。それが主力的に用いられていあがる。

そんなに別売のディスクが需要あるならば、一層のこと、別売ディスクの音色をプリセット音色にし、後のつかえない音色200個こそ別売の形で供給すべきであろう。

何故、市販の付属レジストデータにプロテクトがかかっているのか。
「著作権の侵害」とヤマハは回答しようが、大いなる虚偽発言。

別売のボイスディスクを使いこなしている関係で、プロテクトがかかっていないと、その音色ばかり使われて別売ディスクの需要がなくなると考えているからだ


レジストデータは、酷くなってくると、外部のPC音源を用いている場合がある。
「FUNKY FOX」や、そのユニットのピンのアルバムを紐解くに、明らかにエレ糞データの音色でないUSER音色があるのだ。
その証拠に、このユニットは、どうもプリセット音色からのヴォイスエディットが下手糞な印象がある。
別売ディスクや、外部のPC音源からの音色を調達しているからプリセット音色に正面切って向き合えないのだ。


外部のPC音源を用いる方法を採るのはプレイヤー達にとどまらない。
海外の違法サイトから全くオリジナルのヴォイスディスクを調達してレジストデータを作成するケースもある。

こんな事件もあったようである。
どこぞの地区のコンクールにおいて、外部のPC音源を用いる方法を採って全くオリジナルの音色を発表した出場者が居たと言う。
審査員だったかが、「エレ糞の音でない!」と突っ込み、それが大問題となり、大層なる揉め事に発展したと言う。

こんな事態になるのも、プリセット音色が余りに不便で使えないからであろう。



ヤマハもヤマハだ。
誌面にわざわざ引っ張り出し、もっともらしい発言の真意を如何に解釈しているのであろうか。
瑛美翁の呈する問題点は、全てヤマハ音楽振興会が作り出しているように思えてならない。
誌面上にて発言させることではなく、企業内部にて発言させることではあるまいか。

ヤマハは、安心してエレ糞を嗜めない環境をつくりだしておきながら、瑛美翁にもっともらしい教育論を垂れさせ、使用者により一層の負担を押し付けようとは絶対に許せないことである。


ヤマハは、これまでにもこのような創世記の面子を集めさせては尤もらしい教育論を垂れさせていた。ヤマハは何を思ってわざわざそのような教育論を垂れさせたのだ。
使用者に一方的に礼儀作法を押し付けるのではなく、使用者が心から瑛美翁ののたまうところの謙虚さが抱ける、安心してエレ糞に嗜める環境づくりに勤しまんとする空気は無かったのだろうか。


なんだかんだ言ってヤマハは結局お金儲けにしか頭に無いように思えてならない。
それで尤もらしい教育論を、創世記の面子に垂れさせるものであるからタチが悪い。


瑛美翁や、道翁も、いいかげんヤマハの取材を受けるなと物申したい。
貴様達の格言、提言は、大切にせられているようで、一つも受け入れられては居ないではあるまいか。

いつも同じような格言、提言を繰り返し提言しているだけ。虚しく当たり一面に叫び声が響いているだけの状態ではあるまいか。


「メカに頼りすぎ」「汗を流し、筋肉を動かして」なんて、一体何年言っているのやら、EL二桁時代から言い続けているわけで、17年間は言い続けていることになる。17年もの間、何等問題は解決していないのだ。これだけ外部からうるさく言われているのに、ヤマハは何等解決の兆しを見出さなかった。

メカに頼りすぎているのは、ヤマハであり、レジストデータを供給している側。
何が「エレパソ」だ。これなんか、メカ依存の産物ではあるまいか。
初心者向けの、「アラモード」も然り。
XGなんて、調子に乗って用いているのは、プレイヤー(というか正式にはパフォーマー、スペシャリストと称せられる人々)の側ではあるまいか。プロの方が、一般者にメカに頼りすぎの風潮を与えたのではあるまいか。


瑛美翁に物申しておく。「汗を流し云々」とのたまうが、その割には、あの「Dance with Me」(昭和53年)の糞アレンジ8曲は何だ。
単に左手は八分刻みのみ。オペラ「魔王」のピアノ伴奏のつもりか。
あれじゃあ幾ら筋肉を動かしても汗なんて流せないし、後で得られるものは虚しさのみ。
こんなの点じゃ
点じゃ。



創世記の面子を呼び、使用者に所謂礼儀作法の徹底を強調しても、根本が変わらないことには、ヤマハの体質が変わらないことにはどうしようもないわけで、相変わらずのエレ糞の惨状を鑑みるとき、筆者は、瑛美翁・道翁の存在意義に果てしない疑問を感じ、「そこに居るだけで」という理由から何の有り難味も感じないわけである。そこに居られることで残る思いは、「だからなに?」という果てしない虚しさのみ。


何だか、この辺りは、「創世記から携わっている」という理由だけでちやほやせられているように思えてくるのである。
「野村克也夫人だから」という理由で注目を浴びた野村サッチー、「スカルノ大統領第3夫人」ということで大御所気取りのデヴィ夫人のようなものではあるまいか。
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