撲滅・検討の如何を考察、問題を提起
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~「作曲家の一面」とは??~ バカさんは、自身のオリジナル曲を発表するのに妙に面白い真似をしたがる。 パーソナルアルバム2・3・5・6では、あるテーマをもとに、オリジナル曲を幾つか集めたアルバムを、CDという形にて販売せしめ、その1年後にエレ糞曲集を発売していた。 パーソナルアルバム2は、正確にはLPであるが、茲ではCDと看做していただきたい。 CDは、楽譜(パーソナルアルバム2・3・5・6)のマッチング曲集という構成にはなっていない。全く違う構成のアレンジ・音色になっている。これにつき、「作曲家の一面を見てもらいたい」としている。 曲集は、エレクトーンプレイヤーとしての一面を見せ、CDアルバムは作曲家としての一面を見せるという狙いがあるらしい。 何だか多面性が期待できる狙いであり、言い回しであるが、これが アレンジ・音色・録音全然駄目!! ていうか、 誰も買うな!!! 「エィガ一刀両断」ならば「ライラの冒険」と共に0点確実。 普通にパーソナルアルバムの、そのバカさんののたまうところの「エレクトーンプレイヤーの一面をみてもらいたい」とする曲集のアレンジ・音色の方が明らかに秀でているように思えて仕方ない。筆者だけなのだろうか。普通に考えてこのCDは丸で聴き所の無い、バス酔いならぬCD酔いがしてしまう世紀の駄作に思えて仕方ないのであるが。よくぞこんな工夫の丸で見られないCDを平気で発売していられるものである。気持ち悪すぎだ。 これで本当に「作曲家の一面を」と確信しているのならば、バカさんのそのプロ意識を疑う。 特にCD「彼方へ」なんか、「お前やる気あんのか?!」と何度折り曲げようと思ったことか。 例えば「ノエル」、マサ・ストリングスなんて大々的に自慢していたストリングスサウンドであるが、薄っぺら過ぎて迫力も糞もない。温かみ?あれしきで感ずるわけが無い。 ピアノサウンドが兎に角平凡で、個性も糞もない。 エレクトーン・アレンジの方はこれ如何。 うーむ、、、9.6点(CDの方は整理ポスト決定)。 「パーソナルアルバム4ストリングスバラード」にて魅せつけた温かみあるストリングスサウンドを更に発展せしめたかのような心地よいストリングスの元に、母を思わせるオーボエ・ソロの絡み合いが心地よくて思わずスルメが如き存在と化している指折りのお気に入り作品である。一つ一つのパートにも存在意義が見出され、3パートしか使えないというエレ糞の制約をふんだんに利用した名アレンジと素直に納得行く構成なのだ。エレクトーン音楽というものに加担に挑戦するその姿勢が垣間見られる。間に挿入せられる「ジングルベル」のメロディも洒落が利いている。 CDはというと、やる気の無いピアノ・ソロがだらだらとメロディを弾かされている感じで温かみなどどこにもなく、あるのは「虚しさ」それだけ。 「一応本場のストリンスグを聞かせてやろうか」というわざとらしい魂胆のもとに、薄っぺらいストリングスがテキトーに入り込んで何が何だかわからないままにおしまい。 エレ糞アレンジで、どうしても再現音楽になりがちなエレ糞を用い、あれほどまでに素直に人の心を動かせる名アレンジを提供できる者が、どうして「作曲家としての一面を」という尤もらしい理由の元、これほどまでに特徴の無い雑音しか表せないのか途方に暮れる他ない 。 「彼方へ」、母親のレクイエムとのたまっておきながら、当該母親が没の前に作曲していたと言う矛盾が失笑できる曲である。「カメラはやめてください」と警告しておきながら、その風景を思い切り映している熊井映画「深い河」のカメラのようなものだ。一応「当初は『オーロラよさようなら』という意味合いにするつもりだった」と言う言い訳は為されているが。それはさておき、これなど、冬景色とオーロラの景色がオルガンサウンドに凝縮せられている感じで、本当に彼方への祈りをしたくなる構成。リバーブを「Church」に設定しているのが巧いと感じた。南極の寒い空気がここからにじみ出ているのである。敬虔なるパイプオルガンのあと、うねりがいっぱいのストリンスグサウンドという構成は絶妙と言う他ない。 これが、CDだと、やる気の無い、特徴など微塵も感ぜられないピアノサウンドがだらだら弾かされ、糞の迫力も感じさせないストリングスが適当に配置せられ、「出血大サービス」ということで、ミネハハの「あーあー」というボーカルサウンドが挿入せられる。このミネハハがこの上なくうざったい。 何だか母の死をバカにしているような安っぽさがありやしまいか。敬虔なる祈りどころか、パナホームのCMを見せ付けられているような感じで、感動も糞もない。これが「母へのレクイエム」だなんて笑止千万。エレ糞バージョンに於いて感ぜられた寒さを感じさせる空気などどこにもない。 ミネハハは、ひょっとして、母親の死に様に対し、「あ~あ」と呆れ果てているとでも言いたげ。 いかりや長介「だめだこりゃ」ってか。 元祖西遊記スーパーモンキー大冒険のゲームオーバー「ああ、しんじゃった」ってか。 絶対にバカさんの仕事の足は引っ張りたくないとでも言うかのように母は逝ったんだろ(47頁を見よ、47頁を!!)。それに感動している暇があるならこの糞アレンジを何とかしろってんだよ?! 他にも突っ込みどころ、怒りどころはあまたにあるのだが、筆者の思いをまとめるに、 何故素直にエレ糞プレイヤーの一面を主張しないのかということである。 作曲家の一面を見てもらいたいとして、エレ糞プレイヤーとの差別化を意識しすぎているのか、音色が楽譜のものと違っている。夫々の一面につき、音色が素晴らしいものであれば、こちらはここまで怒りに達しない。素晴らしくない、もっと正確に物申すと、作曲家の一面としての音色が、プレイヤーの一面としての音色に余りに劣ってばかりいることに激しい怒りを覚え、その姿勢に途方も無い疑問を抱かずにはいられない。 筆者の好きな人物、江頭2:50にも「1クールのレギュラーよりも一回の伝説」という姿勢に対して批判がある。「pppするぞ」というレギュラーをもっているではないかという。 筆者は何の怒りも感じないし、エガちゃんに新たなる伝説を期待するばかりである。まず、テレビのレギュラーではないし(同じレギュラーでもテレビとインターネットではまったく勝手が違うと筆者は確信する)、「伝説は単発出演のことか」と批判する者に物申したい。エガちゃんのその姿勢は、「1クールのレギュラー欲しさに堅実に仕事をこなすよりも、身が潰れても良いからとにかく何か伝説を残したい」という意味合いがこめられているわけであり、単発出演をモットーとしているのではない。批判する者、特に然るべく考えるファンには、その感覚の狭さに怒りを覚える。 実際、エガちゃんは、新たなる伝説を目指して様々なる試みを「pppするぞ」にて提供している。 バカさんの場合、余りにエレ糞プレイヤーの一面と作曲家の一面とで出来栄えが違いすぎ、その勘違いの姿勢に怒りを覚えるのだ。ヤマハ関係者の間では、あれほどまでにエレ糞を褒め称え、「エレクトーン音楽を極めたい」と公言しておきながら、何が作曲家の姿勢だとなってしまう。 作曲家としての一面を主張するにしても、あれほどみずぼらしい音色に変えるならば、楽譜どおりの音の方がよほど気が利いている。無理して音色を変えることで劣らせてしまうとは一体どういう神経だと言うのか。 「作曲家の一面」とのたまっておきながら、「お母さんから聞いたさんご礁のお話」の音色など、初心者モデルのエレ糞みたいな音ではあるまいか。あそこは普通は生身の琉球三味線に胡弓を用いるであろう。あの琉球スケールのメロディは胡弓を意識したもののはずだ。それが、何故かエレ糞臭い安っぽいバイオリンの音色を延々と聞かされるわけである。不快この上ない。 普通にエレ糞アレンジのままの形でCDアルバムを発表せよと物申したい。 何故、それをせんとしないのか。 バカさんは、雑誌の対談などで、かかる発言をしていた。曰く、 「エレ糞の人は、エレ糞音楽しか聴かない。もっと他の楽器の音楽に耳を傾けるべきである」と。 エレ糞関係者のそうした傾向を踏まえ、作曲家の一面とやらを提示したCDアルバムを発売してあげていると言うのか。そのような傲慢とも取れる思いやりに反吐が出、拒絶反応を起こしてしまう。 おそらくバカさんに直接この姿勢に対して疑問を投げかけると、上記のような意味合いの返答をすることであろう。 蓋を開けてみると、凡そ作曲家とは思えないふしだらなアレンジ・音色・録音が続いて実にうんざりしてしまう。数あるエレ糞関係のCDの中で最も劣悪。 どうしてエレ糞アレンジを素直に主張しないのか。 エレ糞の音は、CDにて発表するには余りに劣悪で聞いていられないからである。 バカさんは、エレ糞という機械の限界をかかる形で露呈しているのだ。作曲家の一面云々、別の顔を見せたいという主張は、自分を偉く見せるための演出に過ぎない。 「自分はエレ糞バカではない。エレ糞以外の音楽にも精通している。それを主張せねば」という焦りも感ぜられる。エレ糞音楽しか知らないならばそれでよいではないか。実際、エレ糞音楽、エレ糞にしかできない音楽を極めたいのであろう。素直に極めればよいではあるまいか。 ピアノ音楽しか知らない、できないピアニストは愚かか。ジャズピアノに精通しているピアニストはこれ如何。バイオリニストの場合はこれ如何。 何故エレ糞プレイヤーとしての一面にとどまることを拒むのだ。 エレ糞プレイヤーは、音楽界において負け犬の印だからである。非常に偏見をもたれるからである。そうした市民権のなさを、「作曲家の一面」を無理して有さんとする姿勢から読み取れるわけである。 プロデューサーの質の悪さを指摘する声があるが、実のところ、大野雄二プロデュース「サイレントダイアローグ」も最悪の出来に思えてならない。これはエレ糞だから許せるポンコツフュージョン曲集であり、CDにて1つのフュージョンとして聴くには余りに不甲斐無すぎやしまいか。 選曲が大いに気に入らない。「うみねこ」といった、CDのみに収録せられている曲目など、本来掲載したかった曲が掲載できなくて、やっつけでつくったとしか思えない不愉快なる曲である。インパクトも糞もない。 何故「NYパッションストリート」が入っていないのか。これには、ウェザーリポート「バートランド」にくりそつで、本家から訴えられないように、外の世界から2番煎じと見られないようにCDには掲載しなかったと解釈せられている。この「バートランド」を耳にして、筆者はがっくりきた。茲まで汚い打算家とは思いもよらなかった。面白いのは、エレ糞アレンジの「バートランド」は、「NYパッション~」により酷似したアレンジになっていることである。 音色も最悪。「パルピニヨン」のパイプオルガンの音色など、ものすごく安っぽくて少しも敬虔さが伝わってこず、ピアノも薄っぺらい。 筆者の感想を述べると、 「サイレントダイアローグ」→音色、選曲が最悪。インパクトが薄すぎ。 「蜃気楼」→録音が最悪、こもりすぎ。 「道」→音色が気持ち悪すぎ。 「オーロラに乗って」→何もかも最悪。 「蜃気楼」は何とか2点。もう少し録音状態を良くすればもっと広く好まれようにという無念さはある。 申し訳ないが「打」は最低の曲。エレ糞らしさを追求しているかなんだか知らないが、これはデモ演奏のための曲であろう。CDにして聴いてみると、マリンバがただ暴れているだけで、何を伝えたいかさっぱりわからない。録音状態が悪く、ますますその感は強まる。 バカさんは、無類のエレ糞好きと錯覚しているヤマハ関係者は多かろう。とんでもない誤解であり、むしろバカさんは無類のエレ糞嫌いなのである。エレ糞が好きならば、大人しくエレ糞に固執していろというのだ。それがどうして都合の悪いことなのだ。エレ糞に固執することはそんなにいけないことか。都合悪しきことか。1つのものを極める事は素晴らしくないことなのか。貴様の目的はエレ糞音楽を極めることではなかったのか。 バカさんはトップ・プレイヤーの位置にある。トップだ。バカさんのとる行動は尋常よりも多大なる影響を及ぼすことになる。トップがこれほどまでにエレ糞から抜け出す機会をうかがっているのだ。 トップのそうした焦りとも言える姿勢から、「本当ならばエレ糞の世界から抜け出したいが、エレ糞以外の音楽では自立できないから仕方なくエレ糞を続けている」という、エレ糞プレイヤー達の哀しき現実の事情も併せて読み取れてしまう。ヤマハ関係者は、そんなエレ糞の世界に対し、何百万、何億もの金銭を投資するわけである。無駄遣いも甚だしい。どうりでエレ糞が楽器として認知せられないわけだ。 作曲家云々の姿勢には次のような疑問も生ず。「作曲家の一面を見せたい」というのであれば、どうしてヤマハ特約店にしか自身のCDを出まわせない。エレ糞に頼らない音楽を目指すというのであれば、ヤマハの助けを借りる必要はなく、寧ろ借りるべきではなかろう。もっと多くの者に作曲家としての一面を見せるべきではないのか。作曲家だとか違った一面だとか、雑誌のインタビューにて偉そうにのたまっておきながら、結局ヤマハの助けがなければ自立できない、何とも矮小なる存在と言うわけだ。世間になど、モノホンの音楽界になど見向きもせられないわけだ。 そんな分際で、 「目指せ!日本のベートーベン」?! アフォかというのだ。 バカさん曰く、 「エレ糞は企業依存の楽器。これからは企業から自立せねばならない」と。 大いなる勘違いであり、人間が企業依存しているのである。自ら手足をもって行動できないエレ糞自身は、企業依存の人間により動かされるわけで、結果的に企業依存の楽器になっているように見えるわけであり、使用する人間が悪いのだ。 茲で、ヤマハ関係者からは次の突込みが押し寄せよう。 「マサさん(←嗚呼、めんどくせぇ)の音楽は番組のBGMにて良く用いられている」 「広く世間に認知せられている!」 などなど。 なるほど、バカさんのオリジナルは、CDアレンジの形で、殊にテレビ東京がBGMに用いている感がある。関係者にとっては、「マサさん」の楽曲が世間に広く知られる善き機会と解釈しよう。 一見、ヤマハ関係者の突っ込みは正当に思えるのだが、バカさんは致命的間違いを犯している。 あの~~~~~~~、 BGMほどウルサイ音楽はなかったんじゃありませんでしたっけ??(拙作の140頁を参照せよ馬鹿) 貴様洋服屋の「シャリシャリBGM」が嫌いだから洋服屋に行きたくないんだろ(同142頁)。 他人のBGMならば不愉快に感じるが、己の曲がBGMに用いられているのならばそれで良いのか。満足が行くのか。洋服屋が好きになれるのか。 今の我々日本人にとって邦楽はもはや自分達の音楽ではない。一部の愛好家の人々以外にとっては、年に1回お正月に聞く、お目出度いBGMでしかなくなってしまっている。 自分でCDをかけるのではなく、テレビや商店が客のお正月気分を盛り上げるためにBGMとして流す。こんな国は世界広しといえ、この小さな島国だけ、それをいたく嘆いているではあるまいか(同218頁)。 今、己の曲は、テレビ番組のバラエティ気分を盛り上げるためにBGMとして流すのだ。自分でCDを購入し、自分でかけるのではなく、テレビ番組にてBGMとして流されているのだ。 貴様の音楽は、その程度の使い捨て音楽に過ぎないのだ。それが世間の認識。 邦楽がBGMとして流すのは許せないが、自らの音楽はどんどんBGMとして使ってほしいというのか。 それで謙遜しているつもりなのか。全くこれほどまでに打算に満ちた人間を筆者は知らない。 関係者や自身が発するであろう突っ込みは、自らの音楽論をも崩壊せしめるわけである。 そもそも邦楽をBGMとして流すことのどこに悪意が感ぜられると言うのか。 正月に流すのは、正月気分を演出するためであり、それはそれで気の利いた使い方であろう。己のくっだらない二面性という計算の方がよほど低俗で悪意に満ちている。 こんな低俗な勘違いがエレ糞界のトップを走ってきたわけである。 どうりで世間がエレ糞を見下すわけである。 エレ糞の駄目さ加減をこのように露呈せられたのではたまったものではない。ヤマハ関係者は気づかずとも、世間や、ヤマハ外の音楽家は全て気づいているものであり、筆者の怒りは外の世界に於いては当然の事項と考えられていることであろう。そんな当然のことが非常識になり、時には「虐待」「諸悪の根源」として逆に虐げられてしまう世界、それが「ヤマハ」というものである。 エレ糞の地位が低下したのは断じて値段云々ではない。若しも質が高ければそれなりに人はついてくるものである。 エレ糞は、「高値」である。質と値段が合致していないのである。 「高値」というのは、そうした不満であり、数字の大きさではない。 プレイヤーといった、エレ糞のいわばトップをひた走る者達は、バカさんの愚かしい打算をみればわかるとおり、エレ糞から離れたくて必死なのである。必死じゃないと言うならば、エレ糞音楽と言うものにもっと正面から向き合えというのだ。ヤマハの助けを借りず、積極的にエレ糞ライブを開くべきであろう。それをしない、正面から向き合わないと言うことは、エレ糞が嫌いであると態度を以て示しているようなものである。 抜け出したくても抜け出せない負け犬が寄り添っている奇妙な世界を外の世界の人間は如何に捉えるか。見下して当然である。 これが、ヤマハは「まだわかってもらえていない!」「エレ糞の素晴らしさをもっと知らしめねば」と燃えるものであるからまったく始末が悪い。身近にエレ糞の限界を露呈している者が居るというのに、それに気づけないとは。そればかりか、気づいた者を徹底して虐げるものであるからいつまでも改善の兆しが見られない。アニメに例えれば、神魔・千里をいつまでも友人と思い続けている吸血姫・美夕のようなものだ。千里が松田昌、関係者が美夕、友情のイコンが(月エレにある)森松慶子の拙文、大げさなる宣伝文といったところか。 その喩えがわかりにくいというならば、映画「深い河」のインドに於ける1シーンを挙げよう。 カメラマンの三條が筆者、「やめてください!」と止めに入るインドのガイド役がこのバカさん、ガイドの注意を無視し、写真撮影に勤しむ三條に対して怒り、立ち向かう(インド人の)遺族たちがヤマハ関係者、その場面を思い切り撮影している(映画の撮影)カメラがかの不細工な似非・マネージャー「●●●●●」な。 ヤマハ関係者のその頭脳は外からみれば甚だ以上で失笑ものである。そのような浅はかな頭脳を持ち合わせているのも納得がゆかないわけではない。何しろエレ糞のモデルチェンジは凄まじく早い。数年毎に百万単位が平気で動く。みんな「機種がよくなった」と思い込んで購入しているのである。単純に騙されやすい馬鹿集団というわけだ。 そのような馬鹿集団において、徹底した打算を以てトップに君臨してきた愚者、それが松田昌・・・筆者はそのように捉えている。ヤマハの愚かしい、異常なる環境に甘えてきて、音楽家の道を失ったホームラン級のバカといったところか。 「ヤマハというのは、これしきの浅はかなる打算をもってこれだけ人に好かれるのですよ。ヤマハ関係者というのは、これほどまでに単純でボクの打算を見抜けないのですよ。ものすごく甘っちょろい世界ですよ。音大・芸大を出て作曲家として大成できなかった皆さん、少しの打算で人を騙せるヤマハ音楽振興会はお買い得ならぬ働き得ですよぉ~」と外部に宣伝しているようなものだ。 音色についてであるが、バカさんのモットーは、「エレクトーンで泥んこ遊び」。未知の音色との鮮烈なる出逢いを通じ、曲作りに励む、とのことである。その割には音色作りに関してもう一つインパクトが伝わってこない。LP「BigArtistSeries」では、「5セレ2」の曲目を収録しているが、他のファンがこしらえたレジストの方が聴き応えがあるという皮肉な事態になっている。 バカさんは、論文「エレクトーンで泥んこ遊び」(平成6年発表)において、かくのごとく苦言を呈される。曰く、 ~(ボクの作曲の姿勢から鑑みるに、)今のエレクトーンを習う人の殆どが、付録のレジストレーション・データを使って、他人がアレンジした楽譜をそのまま弾いて満足しているのが不思議で仕方ないし、一部の作曲家の方が音色の細部を奏者に任せてしまっているのも不思議で仕方ない~ と。 (註:括弧書きの部分は筆者が要約) 一見、深い考察の入った文章に思えるが、筆者にはいかなる疑問を伝えたいのかさっぱりわからない。小学校の卒業アルバムレベルだ。 音色を通じて曲作りに励んだというならば、付録のレジストデータをそのままの形で演奏するのが適切とはなりやしまいか。レジストを変更するのは、音色と曲想が一致していないと考えるからである。作曲者にしてみれば、本来、無闇にレジストを変更せられるのは腹立たしいはずである。そのように考えるからレジストデータを楽譜に付属させるのであろう。 音楽は弾く者によってなにがしかの違いは出よう。EL以降では、タッチトーンもしっかりしており、レジスト変更以外にも色々個性を出す手段はあるはず。何もレジストデータそのままの形で弾くことは非難せられるべきことではあるまい。 これは一部の関係者からも批判せられているが、「松田昌Best」や「エレクトーン・スタイル」のような形のアルバムは、本来おかしいとなる。自らが呈していた、「音色の細部を奏者に任せてしまっている」「一部の作曲家」状態に陥っているからだ。 その「エレクトーン・スタイル」であるが、「普遍的な仕事」かなんだか知らないが、譜面をひもとけば、所謂スピネット・タイプのエレ糞では一生演奏できないということになる。D800などを有する者には死刑宣告を下されたようなものだ。巻末にはCDがある。本人に言わせると、「最後に聴くもの」となるのだろうが、どうもしっくりこない企画である。レジストデータ付き譜面と変わらない印象がある。このタイプの譜面は、5冊くらいしか出ていなかったのではあるまいか。出版初期こそ張り切っていたものの、いつの間にかEL時代と変わらない、レジストに頼りっきりのスタイルに舞い戻っている。 今は、レジストデータは別売になっており、必ずついてまわるデータではなくなっている。全ての譜面を「エレクトーン・スタイル」形式にしてしまえばよいのだ。 掲載曲が、今まで散々アレンジせられてきた定石のものばかりなのもどうかしている。「エレクトーン・スタイル」でしかできない曲目の掲載に勤しむべきである。 バカさんの許せない点といえば、これも挙げられよう。 夢は本当に人に告げれば叶うのか?? EL900登場時、しきりに口にしていた教訓である。 どうも、自分の夢を叶えたいとき、その夢を、人に向かって告げればよいというのだ。そうすれば、おのずと道は開けてくる。有言実行の精神というわけだ。 言われた側は早速自分の夢をあちらこちらの人に告げていた。真剣にバカさんの教訓を遵守していた。熱き松田昌フリークである。当該フリークは、かれこれ20年来に亘ってファン活動を行っている。バカさんのHPの掲示板に合わせてわざわざ自身のHPの掲示板を変えたほどである。その心意気に反吐が出るほか無い。20年来もファン活動をしていれば絶対にバカさんの瑕疵に気づくはずなのだが。 周りも煽る、煽る。教育者気取りの主婦が曰く、 「君も何か夢があったらすすんで人に告げないと」と。 バカさんは、如何なる夢を周りに告げていたのか。 これぞエレクトーン、という演奏法を開発したい。 もっと多くの人に愛される曲を作りたい! オペラやミュージカルの作曲をしたい! エレクトーンとオーケストラのためにも作曲したい! 60歳までにはジャズ・ピアニストとしてデビューしたい! 死ぬまでに、キース・ジャレットのようなすべて即興のコンサートを1回はしたい! (以上、同252頁) これらの夢は、如何なる形をもってかなえられたか。 一つ目、全然その音沙汰が無い。 バカさん奏法といえば、クラスター奏法が挙げられる。よくわからないし、習得する気などさらさらないのであるが、不評のために用いられなくなったとのこと。そもそも、左足を鍵盤に乗せてそれがどうしたと物申したい。我々聴衆は、良い音を聴きたいのであり、そんな曲芸などには微塵の期待も無い。 是について一言、いい加減、「昔々クラスター奏法をやって大顰蹙を買いました云々」というエピソード話を披露するのはやめよ。拙作を紐解けばわかることであるし、恐らく貴様の取り巻きなど何十年とくっついている己の瑕疵のわからない浅はかなる盲信者であろうから一々公開する意義など無い。30年来に亘りこの根多をしてはいまいか。ヤマハ関係者にしても、いい加減飽きるべきである。このような、きわめて知能指数の低い取り巻きに囲まれて勘違いぶりが形成せられていったのであろう。 もう1つ、「くねくね奏法」があったが、結局2曲のみ(「打」「マリンバ合奏団」)。それで「エレクトーン奏法」とはいいがたいし、普及の音沙汰など微塵も無い。 バカさんにとっては、「ホリゾンタルタッチ」が、エレ糞奏法というのか。これは、開発者による奏法で、バカさんの開発せし奏法ではない。これは、エレ糞独自の奏法とはいいがたく、単にビブラートやピッチの変化を生に近づける、模倣の一環でしかなく、エレ糞音楽としては頗る独自性に欠ける。 オペラ、ミュージカルだなんてのたまっておきながら、実際にやったのは道端に溢れ転がっているような程度のピアニカ楽曲ではあるまいか。それも、結局ヤマハ関係者にしか認知せられていない。まるでヤマハを抜けた意味が無い。 60歳までには云々とのたまっているが、実際になったのは大学教授ではあるまいか。 演奏とは全く正反対のこと。 筆者は、大学教授への就任は否定しない。向谷師だって大学にて教鞭をとられているし、土居、もとい、松居慶子師も、どこぞの大学の客員教授に就任したようである。他、沖浩一・齋藤英美・日野正雄・岡田敬二などなど、大学にて教鞭をとられるケースはあまたにある。 疑問なのが、「どうして名古屋なの?」ということ。まず、あれほど大阪を褒め称えておきながら、名古屋にあっさり引っ越すのは納得行かない。まして、そのような姿勢で大阪の味方をせられてはたまったものではない。今度は「名古屋のいいところ」などをつらつらと挙げてゆくのであろうか。大阪はこれからどんどん貶められてゆくのであろうか。 名古屋音大教授に就任の話が出て間もなくして、住所が「名古屋(愛知県?)」となっていた。ぶったまげた。 かかるバカさんの姿勢を鑑みるに、「わたしは音楽家として大成できていません」と宣言しているようなものではあるまいか。教鞭をとらせてくれる大学など、兵庫県ならばあまたにあろうに。何と格好の悪いトップ・プレイヤーであろうか。何が「好きな音楽の演奏で喰って行ける自分を幸せに思う」だ。 演奏で喰っていけると断言するならば、教授職に頼る必要はあるまい。 バカさんにとって、「人に教える」というのは最も嫌いな分野であったはず。 ヤマハ関係者は、バカさんが震災に遭ったから名古屋に引っ越したと考えていることであろう。バカさんは、震災当時、兵庫県には居らず、震災の被害など無縁だったのである。その打算に騙されるなかれ。ヤマハから独立した途端、大学教授に就任しているところからして怪しさ満点だ。 「即興のコンサート」だなんて、MCの根多も即興できないバカに、どうして即興のコンサートだなんて開催できようか。教授に就任しては、こんな摩訶不思議なコンサートなど、永久に開催できまい。 実際、バカさんの演奏曲目は一定で、即興の要素など微塵もない。 バカさんの夢は、何一つ叶えられていない。 それに気づかずに、ファン活動を相変わらず続ける者に途方も無い怒りと呆れを覚える。 「60歳でグランプリ!」と堂々宣言できるその神経、筆者には到底理解できない。 (そんなバカなファンを「未来のOyaji」として善人と崇める者たちはもっと理解できない。) 本家は何一つ叶えられていないのに。 全く宣言していなかったヤマハ独立、ピアニカ転向、大学教授といったことが叶えられる有様である。 それでいてコンサートの名前が「夢を追いかけて」。 これしきのからくりを見抜けない世界に身を投じていては、勘違いするも当然やも知れない。 ファンはバカさんに同じく単細胞で、配慮の欠缺が凄まじい。 ある掲示板の書き込みに対し、「音楽はコンクールが全てではない!!心だ!!」と怒りの発言をしておきながら、おのれの夢はというと、「60歳でグランプリ!」 ・・・コンクールが全てではないならば、グランプリなんて目標を目指してんじゃねえよっての。 何だかバカさんが被害者に思えてくるが、油断する無かれ。 バカさんは立派にホームラン級のおバカさんである。 「目指せ日本のベートーヴェン」というならば、そのようなファンのイエローボイスに毒されるべきではない。その時点で、ベートーヴェンを持ち出すだなんて、おこがましきにも程がある。 TVを観ていると、近年、ベートーヴェンの墓の前でピアニカ演奏を披露したとのこと。 「憧れのベートーヴェンの下についにたどり着けた」とずいぶんご満悦の様子。 お金があれば誰でも墓場には訪れられるものではないでしょうか??嘲笑 バカさんの不満につき、他にも色々あるが、かかるテーマにしてまとめてみる。 ~バカさんの善意と欺瞞~ バカさんは庶民派、善人というイメージがはびこっている。 バカさんの発言には、いつも人をいつくしみたいという思いに溢れている。 その一端を紹介する。 ボクはよく思うことがある。教室に通わず、旧機種にて練習する者たちが本当のエレクトーン愛好者ではと云々。 よくぞこんな間の抜けた発言を平気で、しかもいい気になって発言していられるものだ。 それならば、己のレッスンに通っている者はどうなるのか。プレイヤーのレッスンとなると、旧機種では絶対に練習できない環境に追いやられることになる。そうした者はホームラン級のバカか。バカさんは、見ず知らずの来訪者のレスをするに際し、いかにも来訪者の味方をするフリをしておきながら、教室に通う者、自らのレッスンを受ける者を多大に貶し倒しているのである。そんな基本的な気遣いができない単細胞、それが松田昌という人間である。 バカさんは、機種依存を嫌うフリをする。それは一理あるのだが、バカさんは、日本一ホリゾンタルタッチを多用する馬鹿である。必然的にEL900といった上位機種でないとバカさんのレッスン、世界観についてゆくことができないのだ。ホリゾンタルタッチに固執する時点で充分機種に依存していると思うのだが。これに気づかないバカさんは本当に「どうかしている」。 旧機種ならば、ホリゾンタルは不要なのか。貴様にとってホリゾンタルの意義はそれほどまでに矮小なるものだったのか。教室に通わない者は貴様のレッスンに通う者よりも尊ぶべき存在なのか。 自分は大学教授だから、大学にて貴様のレッスンを受けに通っている者は尊ぶべき存在か。ヤマハ音楽教室に通う者よりもか。 バカさんは、自著にてかくのごとき発言をしている。曰く、 「ヤマハの教育システムは問題の部分もあるが、日本の音楽界で素晴らしい役割を果たしていると思う。ヤマハの先生方、がんばりましょう!」(220頁)と。 教室に通っていない者は、その「素晴らしい役割を果たしている」音楽教育を受けていないのであるが、それは良いことなのか。 話が違うじゃねえかゴルァ!! そもそも、この発言の4年後にヤマハから独立というのがどうかしている。ヤマハが素晴らしい役割を果たしているならば、独立する理由がないし、その素晴らしさを伝えんとするのが正当であろう。 「問題の部分もあるが」というのが憎い表現であるが、この一文は、基本的にヤマハを賞賛していると解釈すべきであろう。ヤマハ関係者は、独立の際、「格好いい」「新たなるマサさんを期待して」と賞賛しきっていたが、この人たちは、バカさんのヤマハ賞賛を如何に捉えていたのであろうか。 たとえ読者が一人でも僕は「月エレ」の連載を続ける。 だったらどうして「月エレ」にて連載をするのだよ馬鹿。 多くの人に読んでもらいたいというエゴが働いているから連載するのだろうが。 もしも本当に読者がひとりでも構わないというならば、ブログにて無料にて己の連載を公開せよというのだ。 ネット環境に恵まれていない者が貴様の連載を読んでいる可能性は大いにある。その人たちはどう慰めてあげるつもりなのだ。 言われた側も言われた側で、そのマネをするものだから本当にたちが悪く、不愉快至極である。 マネをする前にバカさんの配慮の無さに気づけというのだ。 これに気づかずして心理学専攻だとか理系専攻だとか、笑わせるなというのだ。 バカさんは、自分の連載に付き、このようなトンチンカンなコメントをくだしていあがる。 これは、エレクトーンに限ったことではなく、全ての楽器に共通している論理である。サックス奏者にも読んでもらいたい。 本気でそう思うならばどうしてヤマハでしか通用しない「月エレ」にて自分の連載をするのだろうか。 もうヤマハを辞めて10年が経たんとしているのに、どうしてヤマハに固執する。どうして月エレの連載に頼りっきりなのだ。貴様の実力がその程度のものだからだろ。 実際、内容は「ポピュラーアレンジの基礎知識」をそのまま転載したような内容の薄いものだしな。というか、普通に音楽を勉強していれば自然に理解できるもので、あのような形の勉強法は非効率以外の何者でもない。 実際、次のようなコード進行のからくりを見抜けない。 「F#m7(-5)→B7→Dm7→G7」 「E7→C」 我々一般人の目線からすれば、ドミナントモーションが成り立っていないことに強い抵抗と不快感を感ずるのであるが、ヤマハ関係者の手にかかると、「斬新!」となってしまうのだ。 「人それぞれ!理論が全てではない!」と逆切れせられる。 そんな単細胞が、月エレの連載を読みこなし、勉強に励んでいるというのだ。意義が何も無くはあるまいか。 ヤマハは、殊にエレ糞は、コード進行に敏感な者を育てられるのが売りだった筈なのに、話が違いすぎるではあるまいか。 マスコミに登場する折は、必ずといってよいほどにピアニカ奏者として登場する。ヤマハにて活動するときは、なにがしかのエレ糞好きの振る舞いをする。エレ糞プレイヤーを振舞っているのはヤマハ内部だけではあるまいか。そのような姿勢では一生エレ糞は日の目を見ないだろう。 バカさんの連載愛読者に対するやり取りを思い出すうちに疑問に思ったことがある。 この人、ファンサービスがとにかく駄目すぎ! 「駄目」と否定しては流石に品のない誹謗にしかなり得まい。 「ファンサービスが下手糞」としておこう。数ある音楽家のコンサートの中、最もぎごちない対応に感じたのがこのバカさんである。 何が不満なのかというと、けだし、ファンであることを公言したときと何も公言せずじまいのときと余りに対応が違いすぎやしまいか。 20年来のファンには、年賀状を送りつけたり、夫婦で友達付き合いをしたり、オフ会に顔を見せんとしたり、とにかく庶民派の顔を売りつける。それ以外、単にコンサートを楽しみに来ただけの者はこれ如何ということだ。 具体的には、(HPの)掲示板にて書き込みをしている旨を告げたとき(そこで用いているHNを告げたとき)と、告げなかったときとで対応が余りに違いすぎ。 告げたときの喜びようと、告げなかったときの無表情さに余りに対応の落差が見られる。その一瞬の隙が余りにありすぎ。明らかにファンであることを告げたり、HNを告げる前後で態度が変わっているのだ。 「掲示板にて書き込みを怠らない人ならば、絶対に良い顔をせねば」という打算がその隙から垣間見られるのだ。 ファンというのは、掲示板に書き込まねばならないものか。ファンとは、自身の作った音楽を熱心に聴き、熱心に演奏する者だと思うのだが。一々HPにて「ファンです!」と宣言せねばならないというのか。 同業者に於いて対応の良かった者を挙げるとすると、岩内佐織師が然り。相愛大にて沖浩一門下生でもあった。師は、サイン会の折、少しでも自らの著した譜面が少しでも汚れていると、「使い込んでいますねぇ」と大いに喜び、励ましてくださる。それは、自らの著した譜面に対し、責任感があるからであろう。技術屋からも好評で、荷物運びの手伝いは欠かせないという。 思えば技術屋から男性プレイヤー(特に若手・中堅)に関する良い話を聞きませんなぁ~~・・・こちらの錯覚か。 バカさんは、楽譜が汚れていようがいまいが無表情、無反応。 兎に角HNを告げるなりし、ファンであることを公言しないと駄目。 逆に言えば、それさえすれば、汚れていようがいまいが手厚すぎる対応をしてくださる。 どうも譜面や自著に対する責任感が備わっていないように思えてくるのだ。 実際、君子豹変が著しいことは事実であろう。「ヤマハは素晴らしい」と断言しておきながら4年後に独立することなど。 掲示板では日本一良い対応をしている。筆者のみるところ日本一。お気に入りの持ち根多を告げれば大喜びで、手厚い褒め言葉が返ってくる。 それも、妙な打算が働いてのことではあるまいか。掲示板は世界中に観られるわけであるし。 その発言は、自著と照らし合わせると、その場限りの褒め言葉で、持論など自在に豹変しすぎている。 自作曲「I Can See~」という長ったらしい題名の曲にて、バカさんはライブのとき、XG音源を用いまくったアレンジを披露した。是に対し、20年来の厚きファンが、XGを用いることに対する反論をした。 バカさん曰く、「あなたの前ではこのアレンジを披露したくなかった」と。 をいをいをい~~、チミチミ、んじゃあ当該厚きファン以外の前だったら堂々と公表するつもりだったのかよぉぉぉ~~。普段XGを散々否定している割には随分と好都合な言動ではないかい?? 「えぇ~~~、マサさんて、コンサートはすんごく楽しいじゃない?!」 おっしゃるとおり。正に日本随一と言わんばかりのエンターテイナーだ。即興演奏のときは、観客の氏名を用いた即興演奏を展開し、そのFDデータを本人に贈呈。ピアニカ演奏では手拍子をたたかせて観客と演奏者が一体のコンサートとなるようにあまたの工夫を重ねているのが伝わってくるし、合間のトークも面白くせんとする工夫が感ぜられる。 打算がいっぱいのコンサートに疲れ、その後のサインや握手贈呈のとき、粗末な態度になっては居まいか。都合の良い盲信者に良い顔をしすぎてはいないか。 かかる姿勢、結局ヤマハ関係者しか立ち寄れないコンサートつくりになってはいまいか。外部の一般の聴衆は寄り付けまい。 けだし、バンド「ベアーズ」にて活躍していた折は、舞台裏にては自分は何もせず、他人任せの運営で、表舞台に於いてはバンドリーダーとして人一倍張り切っていた姿が思い浮かぶ。そうした打算まみれの行動をしてきて、本人の意図しないままに周りを傷心状態に陥らせているのではなかろうか。本人に言わせれば、「不満ならばボクについてこなければよいだけの話」となるのだろうが。 自著には、「当時のフュージョンバンドをコピーする以上のことはできなかった」と記されている。その詳細如何についてはさておき、このような目立ちたがりの打算屋にはどだいバンド活動は務まるまい。 最近は、子供を対象としたコンサートを精力的に行うようになった。子供を相手にするは芸人として終わりの証しと断言するつもりはないが、バカさんの場合、次のような打算が垣間見られる。 子供時代に植えつけられた印象というものは、大人になっても残ろう。筆者は、未だに「欽どこ」の萩本(真屋)順子に対しては「鬼百合」というイメージがある。わらべの「もしも明日が」の演奏の終了後、トークのコーナーがあるのだが、いつも欽ちゃんにそのように弄られていたからである。子供時代に植えつけられた印象は甚大で、簡単に取り崩せない。 バカさんの子供に対する接し方は、これまでとは比較にならないくらいに丁重で、思わず頭が下がる。これまでのファンサービスのがさつさを改めたのか。 否、子供に良いおじさんであるという印象を植え付けるための打算による行動である。子供に「良いおじさん」という印象を受け付けておけば、当該子供が成長した折、いつまでも「良いおじさん、マサさん」と慕ってくれよう。そのような打算があるからあれほどまでに良いおじさんでありつづけようとし続けるのだ。それだけに、非常に気色が悪く、わざとらしい接し方で観ていて反吐がでるのだが、当該子供は打算の産物とは一生気づくまい。今コンサートにて接している子供達が成長すると、バカさんはますます子供に好感をもたれ、筆者のようなアンチに敵対心を抱くことであろう。バカさんは矛盾だらけの打算の行動を誰にも咎められずに済むことになり、益々世知辛い世の中になろう。 バカさんの子供に対する親切心には、このような薄汚れた打算が垣間見られ、筆者は「子供を相手にすることは、芸人として終了の証」と断言できる。この薄汚れた打算の姿勢が何よりもの証拠だ。 バカさんは、嘗てはこれほどまでに子供相手のコンサートはやらず、むしろ至って消極的だったはずだ。本性がばれるのを恐れてか、子供相手のコンサートを精力的に行っているとしか、少なくとも筆者には考えられない。 曲目の解説にしても、平成12年発売の「パーソナル 松田昌」は善人さを強調しすぎ。「春待人」においては、「阪神大震災。木枯らし吹きすさぶ中、春を待ち望みながら人々は助け合った云々」と、震災の風景を目にして衝動に駆られたことを延々と書き綴り、如何に悲惨に思ったかを強調する。それは音楽にて強調するに十分ではあるまいか。「完成までに4年かかった」というのだが、筆者はこれは言い訳、演出(謂わば方便の嘘?)に思えて仕方ない。自著には、震災のことなど一つも記されていないし、当時のライブではそのようなMCはまったくと言ってよいほど無かったように思えるからだ。 「マサの子守唄」の曲目解説にしても、昭和55年当時は、「優しさと暖かさを感じて弾いて下さい。(中略) 愛する人に、語りかけるような気分で弾いて下さい」と至って単純なものだった(「パーソナルアルバム2松田昌 サイレントダイアローグ」より引用)。これが、平成12年になると、次のようになる。曰く、 「人間の愛には恋愛、友情、師弟愛・・・色々な愛の形があるが、母の愛ほど純粋で無私な愛はないと思う。私達は誰でも、温かい母のぬくもりと、優しい子守唄の記憶を心の奥深くに抱いて生きている・・・。そのことに想いを寄せると私達の心も優しくなれる云々」と、これほどまでに説教臭くなってしまうのだ。殊に母親の愛を人一倍理解していることを強調しすぎで、余りの善人さ溢れるふるまいに引いてしまう。そうした解釈の詳細は、曲想に委ねてしかるべきであり、それで事足りよう。解説を以てここまで愛たるものを延々と強調する意義があろうか。 バカさんは、「コンクールで賞をもらうにはどんな曲がいいか?という考えはなんとかならないだろうか」と嘆く。筆者は、「多くの人に好かれるには、好感度を上げるにはどんな行動をとるべきか」と日夜打算に励むその姿勢にすこぶる疑問を抱き、嘆きたくなる。バカさんのやっている打算は、コンクール云々の行動、考えに同一の気がして仕方ない。バカさんの打算の方がはるかに問題ではあるまいか。冷静なる考察を願いたい。 これは、「二重人格的生き方」といえばいいのか。音楽家としてはもちろんのこと、一人の人間としても最低な生き方であるし、こんなに必死に打算に励んで人に好かれても少しも嬉しくない。バカさんはそれが心地よいというのだ。兎にも角にも人に好かれたい、好感度は常にトップの位置に在りたいというのだ。 上記に掲げた本宮師の格言、再度引用してみようか。曰く、「人気の傾向を気にして漫画を描き、それが人気を得たとしても少しも嬉しくない。自分のやりたい漫画を描き、それが人気を得たというのであれば、自分の思いが伝わったということであり、嬉しいことである」と。 バカさんに当てはめると、「人気の傾向を気にして善人の振る舞いをし、そうすることで人気を得たとしても少しも嬉しくない。自分の信念のもとで行動をし、それが人気を得た、好感度を高める要因につながったというのであれば、自分の思い、信条が伝わったということであり、嬉しいことである」となりはしまいか。バカさんは、人に好かれるために、最も忌み嫌っているはずの「コンクールで賞をもらうにはどんな曲がよいか」ならぬ「多くの人に好かれるにはどんな振る舞いをするのがよいか」という生き方を実践しているのだ。そんな愚者にコンクールの出場の指南を幾ら強調せられても少しも説得力が沸かないし、ヤマハ・コンクールの体質は少しも変えられていない。 バカさんは、ピアニキストを公言する。 「ピアニカ」ってヤマハの登録商標だろ。 この時点でヤマハに依存しているのが丸わかり。独立の折は「ヤマハから離れて独自の音楽世界を」と格好つけていたが、結局ヤマハに居づらくなって独立したのではあるまいか。 「ピアニキスト」という肩書きからそうした裏事情が読み取れてしまう。 ここに記していることは、機密事項ではなく、まして暴露話なんかではない。 筆者は、拙作「夢をおいかけて」(YMM出版)を中心とし、定価にて購入した拙作を中心とし、月エレやコンサートにて強く公言していたことを中心に、そこから導き出される疑問点、矛盾点を考察しているに過ぎない。これは純然たる表事情であり、普通に考察すれば簡単に導き出されることなのであり、誹謗中傷だなんてとんでもない。 ヤマハ関係者は、こうした疑問をこれっぽっちも考察するなく、盲信し続けているのである。 ファンだけの話ではない。 ヤマハ関係者全員が「マサさん」と慕い、その善意を盲信し、根底にある欺瞞と打算に気づかないのだ。 部外者やアンチには到底太刀打ちできず、エレ糞の世界から立ち去るしかない。 エレ糞は、そうして益々内輪でしか通用しない機械に成り下がってゆく。 とにもかくにもこの松田昌ほど勘違いの甚だしい打算に満ち溢れた偽善者を筆者は知らない。戦後史上、否、日本史上最凶の(最も凶悪なる)勘違いエセ・ミュージシャンではなかろうか。よくぞ30年来に亘ってエレ糞界のトップをひた走ってこられたものだ。 バカさんは謂う。曰く、 「50を前にしてこれだけの夢を抱き続けられるなんて、まさに幸せ者だと思う」と(最終頁)。 こちらは実に羨ましい限りである。大いに賛同する。 これだけかなわない夢を言いたい放題に公言しておきながら、その欺瞞と打算に気づかず、あれほどまでの盲信者に囲まれるのだ。 ヤマハ関係者は、盲信者をはじめとし、かなわない夢に対し、「これだけ沢山の夢を抱くマサさんは素晴らしい!」と感動する始末。 夢というのは抱くものではなく、叶えるものだ。 抱くだけならば誰でもできる。 一貫性のない、格好悪い態度を露呈して恥ずかしくないのか。 関係者が「素晴らしい」と解釈してくださるからそれだけ一貫性のない人生を歩んでいけるわけだ。 中には、ピアニキストを気取るバカさんに対し、「エレクトーン一筋!素晴らしい!」と賞賛する者もいる。冗談ではなく、真剣にだ。その心酔ぶりは丸で見ていられない。 60を過ぎてこんな浅はかなる頭脳の関係者に囲まれていい顔をできるバカさんは本当に幸せ者だと思う。 それが倫理的に格好いいかは別として。 PR |
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