撲滅・検討の如何を考察、問題を提起
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世紀末であったか、ノストラダムスの大予言があたるか、2000年問題が如何と世が騒いでいた頃と思う。どこからともなく「癒し系音楽」というものが登場した。
それは「ヒーリング」と呼ばれ、ジャンルはというと、「癒し系」という。 筆者の嫌悪感は一気に沸いた。 オマエ何様だよと物申したい。 癒し系とジャンル分けせられている音楽は、簡単に言えば、「しっとり、ゆったり」で良かろう。それが、いつの間にやら「癒し系」としてまとめられることになり、混沌とした世の中に迷える人々の心を実際それなりに癒しているようではある。 この「癒し系」で鬱陶しく感ずるのが、初めから「癒してやる」という前提が入っていることである。 「さあさあ、この何が起こるかわからない世の中で、皆さん何かと迷われていることでしょう。わたくしが、さあ癒してあげましょう。こちらへいらっしゃい」という汚い心のうちが読み取れてどうも付き合う意欲が失せてしまう。 何ともわざとらしい猿芝居ではあるまいか。 演奏技術が不十分だから、テンポのゆったりした癒し系といわれるものならば楽して専門家の称号が獲得できようからという甘い思考が垣間見られる。 「癒し系」との決め付け方、己は今までどれだけの者を癒してきたと言うのか、然る実績はあるのかと問い詰めたくなり、その時点に於いて既に自身の心はかき乱されることになる。 たとい然る実績が備わっていたとしても、それをいたく自慢している姿勢が垣間見られて至極げんなりしてしまう。 「癒し系」だなんて、どの面をさげていえるというのか。その神経が理解できない。 そんなに自らを「癒し系」と称したい、称せられたいというならば、 世界各国の者どもを全て癒してみよというのである。 所詮は、自らの取り巻きを癒しているだけに過ぎないのに、何という勘違いの酷さであろうか。 「癒し系」と決め付けているのが不愉快至極であるといえば良いのか。 人々にとって、「癒し」の形は種々に上るはずである。「癒し系」と決められている所謂ゆったり、しっとりした音楽により心が癒されるとは限るまい。 そうした音楽により心が高揚し、気が狂ってしまう人も中には考えられよう。 ジャズを聴くことで心が癒されるという人も居よう。 とあるバーで、ジャズバンドのBGMを聴きながらゆったり夕食を嗜むことで、一日の疲れをとらんとする者も考えられよう。当該ジャズバンドは決して「あなたの心を癒してあげましょう」というわざとらしい心意気で演奏はしていまい。 「聴きたきゃどうぞご勝手に。義務教育じゃないんだから」と開放感に満ち満ちていよう。 熱きロックライブに通うことで心が癒されるという者も居るはずである。体を目一杯動かし、ロックの世界に住み込むことで心のもやをとり、結果的に心が癒されたというケースも考えられなくはあるまい。 筆者に言わせれば、 音楽は皆癒し系なのだ。 別にわざわざゆったり、しっとりしていただかなくても、癒しの要素はあまたに転がっているものだと物申したい。 音楽は、皆癒し系であると同時に、時にはこの上なき騒音と化すことも忘れてはならない。 人の心に入るまでは、如何に素晴らしい超一流の奏でる音であろうとも、「単なる騒音」に過ぎないのだ。これは音楽の有する弱点とも言えよう。 都会の路上で、「私は街行く人を癒しています!」とばかりに、張り切って騒音を垂れ流すアマチュアバンドを時々見かけよう。迷惑至極だというのだ。更に募金箱を置いて恵んでもらわんとしているバカバンド。何様のつもりであろうか。 アコギを持ち込んで癒し系風味の音楽を奏でようが所詮は雑音、猿芝居。 聴き手側にセンスが無く(例えば「ゲーム感覚」を言い訳にした犯罪を起こす愚者達が如く)、何をやっても雑音にしか聞こえないというケースもあろう。然る者にとってはたとえ癒し系音楽を用意せんとも永久に癒し系ではあり得ない。 音楽は、時には癒しになり、時には害になり、時には凶器と化すというのが筆者の思考である。 かかる広い視点でなく、兎に角ゆったり、しっとりすれば癒し系だとするその狭苦しい感覚に堪らない不快感を覚えるのやも知れない。 狭い感覚といえば、時折科学者の綿密なる分析に依るという「音楽療法」、あれも大嫌いである。 こんなクラッシックが健康に良い、このクラッシックを聴けば寿命が縮まる、、、など時折得意げに語っている科学者気取りが居る。 筆者に言わせれば、音楽療法には全てのクラッシックが相当する。 クラッシックは、何百年に亘りその輝きを失うことなく、未だ人々に新鮮味を分け与えている。演奏者も、700回演奏しても飽き足らないどころか、常に温故知新の連続だという。然る兵達に、なんじょう科学的分析を行う必要やあらむ。 たとい科学的に音楽療法に適している音楽があったとしても、音楽には「好き嫌い」という非科学的要素が存在する。如何に科学的に良いとしても、聴き手に「嫌い」という意識があれば、その素晴らしさは永久に伝わらない。音楽は単に科学的に分析せられた音楽療法で人々の心が癒されるわけではないというのが筆者の持論だ。 逆に、科学的に悪い音楽であっても(コード進行がありえないくらいに滅茶苦茶に設定せられている等)、聴き手が「好き」というならば、当該聴き手にとっては科学的に悪い音楽が療法には適した音楽となってしまう。実際それが原因で取り返しの付かない事態に遭遇したり、横道にそれたりといった事態に遭遇するやもしれない。その辺りの危機は自分自身で察知する他あるまい。 音楽のジャンルは近年摩訶不思議なものが続々登場している感がある。 「スムース・ジャズ」がそれだ。アメリカから降って沸いたジャンルのようであるが、どうも「ジャズの形式を踏襲しているといえばしているが、かといって純粋にジャズとは呼べない」という負け犬の香りがしてどうも適切なジャンル分けとは言いがたい。鉄道の世界で言えば、JR東日本にある「新特急」が如き卑しい臭いがする。 かかる音楽は、従来どおり「フュージョン」と称するべきである。 「フュージョン」というジャンル分けは、中々的を得ている印象があったのであるが、いつの間にやら死語と化してしまっているのは何とも遺憾である。 PR |
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