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撲滅・検討の如何を考察、問題を提起
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エレ糞界に於ける勘違い野郎は、松田昌に留まらない。
これから挙げる、窪田宏とやらも、大いなる勘違いエセ・ミュージシャンであり、ヤマハエレ糞界に於けるA級戦犯の一人と堂々掲げられよう。


いつも疑問に思えてならないのが、「窪田宏=かっこいい」と真剣に口に出来る人々。
冗談ではない。本当に心の底から「かっこいい」と言っているのだ。

一体これのどこが「かっこいい」のかさっぱりわからない。
更に酷くなると、「窪田宏似の鶴橋君、かっこいい」とし、「窪田似だから応援したい」とみんなの観ている前で堂々と発言するバカな取り巻きも存在する。


鶴橋君??
今、JOCの注目株らしい。2枚目肌で、窪田宏似がチャームポイントとのこと。


唖然とする他無かった。
演奏のことなどどうでもよい。
顔が似ているから応援したいという。

あの気色の悪い森脇顔で。

ひょっとすると、この鶴橋君とやらを応援せんと意気揚々の香具師、窪田宏似の修理工と不倫して離婚に至らせる虞もある。あなくわばらくわばら。



取り巻きに問いたい。
この顔のどこをどのように解釈すれば「かっこいい」と解釈できるのだろうか。
筆者は真剣にわからないし、一人取り残された気分になり、非常に居心地が悪かった。

どうみても森脇健児顔そのものであり、「かっこいい」と定義するにはあまりにおこがましくはあるまいか。幾ら「趣味は千差万別」とは雖も、その神経・感覚のずれ様に途方も無い気色の悪さを痛感せずには居られない。


森脇健児自身を否定するつもりは無い。
森脇自身の場合は、あの顔でよいし、頑張ってKBS京都の仕事に励んでもらいたく思う。
芸人志望で、はなからこの取り巻きの言うところの「かっこいい」路線を目指しているわけではあるまいし、不自然さは感じない。


窪田宏の2枚目気取りはどうにも不快感と強い抵抗感がよぎって仕方ない。
如何に解釈しても、如何に期待のハードルを地獄の果てにまで下げても、どうしても「かっこいい」と思えない。
窪田自身も、無理して2枚目を気取らんとしていて気味が悪いことこの上ない。

昭和60年ごろよくあったニヤケ笑いの写真は気色悪いと評する他無い。
その後、サングラスをかけたりブランドものを着こなしたりと、2枚目気取りに益々拍車をかけているような気がする。初期の頃に比べるとやや格好良くなった感じはなくもないが、基本は森脇顔そのものであり、不快感が漂うにはかわりない。


ヤマハはどうしてこの森脇顔を2枚目路線に置きたがるのだろうか。
他に人材は居ないのか。
取り巻きにしても、他に「かっこいい」と思える人は居ないのか。
モデルの世界に目を向ければ、これを超越する「かっこいい」人々は幾らでもいように、どうしてこんな格好の悪い森脇顔に固執するのか、理解に苦しむ。



窪田宏は、顔だけでここまでスター街道をひた走ってきたのか。
取り巻き達の憧れのもとを探ってみると、別に顔だけで惚れているわけでもなさそうなのだ。


取り巻き達は、口をそろえてかく賞賛する。曰く、
「かっこいい演奏」と。


ここでも筆者は唖然とせざるを得ない。

筆者の周りにも、嘗て熱烈なる取り巻きは居た。
兎に角窪田宏の話になると人が変わったかのように歴史を語ってくれたり、その気の狂いようには到底付いて行けなかった。
余りに当該取り巻きが「かっこいい」といって聞かず、
「そこまでいうならば」として何本かCDを聴いてみた。


ぐっっっすり眠れたね!
不眠症の一夜には最高の睡眠薬。


一体どうしたことか、格好良さのかけらも感じない。
筆者は、真剣に自分の神経を疑ってしまった。

格好良いとは思わないし、面白さなんて微塵も無い。
良い曲だなんてとてもとても。



何故「かっこいい」と思えないのか。
何故窪田宏の音楽に格好良さのかけらも感じないのか。


正確に言うと、取り巻きがしつこく強調する「かっこいい」パフォーマンスが見出せる箇所がないわけでない。
筆者は、その箇所を聞くたびに、
「他で代用が利かないの??」と疑問に思えて仕方ないのだ。

「これは窪田宏ならでは!」という、所謂「Something」を感じさせる要素が無いのが原因か。
「窪田宏」を思わせるフレーズ、音色が無いといえばよいのか。

ジャズバラード仕込のオリジナルは、普通にジャズ・ライブに通えば必ず聴けるお決まりの形だし、フュージョンだのロックだの、窪田宏を感じさせてくれない。そうした空気を運んできてくれない。

どれもこれも他所で聞いたかのような、あるいは他所で簡単に聞けるものばかりの気がして仕方ないのだ。窪田宏に執拗にこだわる理由がまるでわからない。


窪田宏の取り巻きは、所謂エレ糞音楽しか知らない偏狭の感覚の持ち主か。
否、当該取り巻き達は大いに音楽に詳しい。

筆者に嘗て付いていた取り巻きは、筆者以上に音楽に詳しかった。
キャリアも凄まじく、筆者の倍を超越する者も居たり、音大出身であったり、然る面子における音楽知識は計り知れない。
特にフュージョンに関して。

あれこれ格好良いフュージョンをひたすら聞かせてくれるわけである。
その格好良いとするフュージョンの行き着く先が「窪田宏」というわけである。

筆者は、その結論を聞く度に、「加トちゃーん、ヘックション!」とずっこける。


CD「窪田宏Best」は本当に酷い。特徴のかけらが微塵も感じられない。
その後、段々と格好良さげな音色を出すようにはなったものの、代用が簡単に利きそうなものばかりで面白いとは思わず、取り巻きのテンポには到底付いてゆけない。



CDに対する印象は、筆者にはさっぱりで、どれもこれも整理ポスト逝き決定なのであるが、エレ糞演奏はどうなのか。

初期の譜面であるが、本当に真っ黒でご苦労さんなことである。
窪田宏の取り巻きは、演奏を聴かせてやると、必ず「生の姿を見たい」と言い出す。

突っ込むと、恐らく「エレクトーンは、生の現場が素晴らしい!」
「聴くのもよいが、やはり生のライブでの臨場感は叶わない!」と返してくることであろう。

「生のライブは素晴らしい」というのだ。おかしくなかろうか。
エレ糞の場合、生のライブの音も演奏データも同じなのだ。
ライブで聴こうが自宅で聴こうが変わりは何も無い。


「気持ちが違う!」と言うのだが、それしきでそこまで変わろうか。


筆者は気づいた。
取り巻きは演奏を楽しんでいるのではない。
演奏する姿を楽しんでいるのだ。

もっといえば、
曲芸を楽しんでいるのだ。

窪田宏の根多は、曲芸無しには楽しめないのである。
もしも、音楽のみで勝負できる構成ならば、執拗に演奏姿とセットで見たいとは言うまい。
音楽だけで楽しめないから演奏する姿を観たいのである。
取り巻き達は、真っ黒の譜面により繰り広げられる窪田宏の曲芸、「かっこいい」と思わせるパフォーマンスに酔いしれた人達なのである。

肝心の音楽などどうでもよいわけだ。

エレ糞の世界に於いては、森脇顔だけ演奏ビデオがあったように思う。
ともすれば、スター扱いだからと思いがちであるが、窪田宏の音楽は曲芸とセットでないと楽しめないために、無理して演奏ビデオを制作させたのではなかろうか。


バカさんは、この森脇顔を「日本一のエレクトーン・プレイヤー」と賞する。
その一番の所以となる所は、「コイツは、ベーシストを用いず、自らの足をもってベースパートを巧みに操る所」という。

アフォかというのだ。
ベーシストを用いるのは阿漕なることか。ベースは自らの足を以て演奏せねばならないものか。
ベーシストに頼るのは、機種依存に同じ阿漕なることと言うのか。
ベースパートを自らの足を以て演奏するならば、初めから一人でよいわけであり、バンドを組む意義などどこにもあるまい。


このバカさんの褒め所は、音楽を褒めているようで、森脇顔の曲芸を褒めているに過ぎまいか。
これで本気でにこやかなる表情を浮かべている森脇顔には失笑のほか無い。

調子に乗って森脇顔曰く、「ぼくはテンポ200で足を縦横無尽に動かすことに生き甲斐を感ずる」と。
それがどうしたというのだ。

我々聴衆にとって大事なのは、足を動かされることか。
聴衆にとって大事であり、大切なことは、いい音を出すことである。性格には、「固有の音」やもしれない。窪田の音である。その奇妙奇天烈なる曲芸を以ていい音・固有の音が作り出せると言うならば話は別だが、所詮は普通にベーシストに任せればよいところを、曲芸を披露したいがためにベーシストを用意せず、自らの足を持って表現せんとしているだけであり、音楽的に意義は何も無い。実際、森脇顔の繰り出す音は、他で簡単に代用が効きそうなものばかりで固有には程遠い。



真っ黒な譜面だけに、練習し甲斐が全く無いわけではない。
最初は物凄く斬新に感ず。真っ黒な譜面を弾きこなせるようになったというだけあり、ついつい調子に乗ってしまいがち。

が、その高揚とした気分をぐっとこらえ、演奏に耳を傾ける。

やっぱりぐっすり眠れちゃうんだよねー。
少なくとも、「いつまでも弾きたい」と思わせる曲たちではない。

窪田宏の真っ黒な譜面は難しくない。
自転車の練習に同じく、一定時期を過ぎればすぐに弾きこなせる。
単なる運動だ。エレ糞の運動効果など高が知れている。


窪田宏は、ベースワークを売りとしているようである。
エレ糞の世界では格好良いことでも、所詮外の世界では到底かなうまい。



思えば、窪田宏は元はデモンストレータである。
それが、昭和59年の「ElectricFuture」がバカ売れし、ヤマハは「これしきでここまで受けるならば!」としてプレイヤーに無理やり昇格させた経緯がある。

デモンストレータの第一使命は何か。
演奏を聴かせることか。それはプレイヤーの第一使命である。
デモの使命は、エレ糞を買わせることである。

包丁の店頭販売員は、包丁を買わせる為に格好良い包丁捌きを披露する。
エレ糞デモンストレータは、エレ糞を買わせる為に格好良い演奏捌きを披露せねばならない。

音楽性は2の次、ひょっとすると5の次で足りるやも知れない。
窪田宏は、格好良いパフォーマンスをすることで惹き付け、それを「プレイすること」と勘違いしてしまったホームラン級のバカというわけだ。

どうりで外の世界に受けるわけがないのであり、CDが面白く感ぜられないわけである。
アレンジなんてどだいできるタマではないわけだ。

何だあの「NYパッションストリート」の糞アレンジは。
何が「究極のアレンジ」だ。「最低のアレンジ」ではあるまいか。
あれが「格好いい」だなんて世も末だ。元々カヴァー曲だったアレンジが更に悪質になっている。
「格好良く見せたい」という、店頭販売根性が丸見えで気分が悪い。

これにしても、取り巻きたちは、ライブに於いて、譜面とは違うベースワークをいたく評価しており、肝心の音楽など少しも評価していない(取り巻きたちのブログを凝視してみよ)。

全体的評価は、三原善隆アレンジ「Sun Country」を最低とするが、筆者はむしろこの窪田宏アレンジが最低と考える。どこにも音楽性、窪田宏を思わせる音が感じられないのだ。


エレ糞の場合、「今までやってこなかったこと」がオリジナルになるという危険をはらんではいまいか。
どうしても古のスタンダードナンバーやジャズナンバーがアレンジせられがちで、ロックやフュージョンはアレンジせられにくい。
そのアレンジせられていない隙間隙間を縫い合わせて曲作りをしているだけなのではなかろうか。非常に悪い意味の「ニッチ戦略」だ。
きちんとした作曲に見せる為に、尚美にて学んだ音楽理論を生かしているのであろう。なんとも要領良き生き様だと失笑せずには居られない。

もう1つ、エレ糞関係者は、「誰かを意識した」といわれると高揚する一面がありやしまいか。
「ハービー・ハンコックを意識してつくった」「チック・コリアを意識して作った」というと、「メジャーに一歩近づいた」などと本人と共に勘違いしては居なかろうか。


意識してつくったどころか、そっくりそのまま頂戴しただけではなかろうか。そうでないと、ここまで面白みの無い音楽はできまい。

こんな調子だから外の世界に受けないのは大いに納得が行く。
エレ糞で天下を取った者は、概して外では天下はとれない。その典型例を態度で示しているといってよい。ヤマハの目はごまかせても、外のプロ達の目はごまかせまい。


ヤマハ関係者は、よく言う。曰く、「窪田宏はエレクトーンの世界を変えた」「何らかの人が何らかの形で窪田宏の影響を受けた」と。
「窪田宏の下で(尚美)の授業が受けられただなんて、授業料はただ同然」と発言する者まで居る。

これらが真実だとすると、ヤマハはとんでもない勘違いをしでかしていることになる。
こんなデモとプレイの境界線を曖昧にせしめた者が何らかの改革を起こさせたとなると、「勘違い」どころでは済まされない。

思うに、これがプレイヤーデビューをした昭和59年から、またその後のエレ糞の世界の歯車が狂いだしてきては居なかろうか。筆者の考える第二のターニングポイントである。

こんなデモ上がりに遠方から45分で15千円もの月謝をどぶに捨てていた受講生があまたに居ると思うとぞっとする。こんな勘違いから何が学べたというのだろうか。


デモ出身であるだけに、機械いじりの巧さを感ずることはある。
FXにてよくやっていた、カスタムABCとベースワークの融合などが然り。凄くはあるが、外の世界に於いては(あるいはCDの形で聴いてみると)単なるベースと変わりが無く、音楽的に革新的なものとは言いがたい。

音色は、格好よさげに錯覚せられがちであるが、実際は、ELにて同じ音色を2つ重ねるという禁じ手を用いている。ヤマハ指導部は、「同じ音色を二つ用いるのは良くない」として禁じ手にしているが、窪田宏の手にかかると「格好良い」となってしまうのだ。


一度発表せられた曲のアレンジがあろう。新たなる曲集に出すとき、以前とは違う形のアレンジを出す者も居る。それに対し、「やめてほしい」と真剣に唱えた者が居る。窪田宏が同じことをやると、「格好いい!!」「新たなる世界が繰り広げられた!!」と喜ぶ始末。
「ニューヨークパッション~」など、「オリジナルとは調が違うので気をつけましょう」。。。


シャープ5つ、フラット6つの調号を忌み嫌う者が、窪田宏ならば「格好いい」と喜ぶ始末。
生粋のフュージョン通で、窪田宏大好きの者など、窪田宏のバラードのみ「格好いい」と喜ぶ始末。
その他のバラードは完全否定。

ファンというのは、そこまでのめりこんでしまうものなのか。
文章だけでは、単なる痛々しきファンという印象にしか映らないであろう。窪田宏ファンの場合、窪田本人に対する接し方とその他の者のそれに差がありすぎる。


そんな窪田も、新たなファンは軒並み減らしている模様である。
捨て時亜は、「リアルタイム演奏が売り」と散々強調していた。窪田は、キーボーディストを気取るためか、打ち込みだらけの演奏を発表。
リアルタイム演奏を披露する場で、どうして打ち込みだらけのサポートデータを公開するのか。
貴様にはリアルタイム演奏の自信が無いのか。
そんなにエレ糞が嫌いならば、とっととやめよというのだ。
何だか、エレ糞は本当は嫌いだが、かといってエレ糞を捨てるとヤマハの甘い汁が吸えないと弱腰になっているのが丸分かりで、「かっこいい」だなんて勘違いもはなはだしい。

サポートだらけのデータに固執するのは、「自分はパフォーマンスだけが売りではない」と強調しているように思え、失笑するのみである。サポートだらけのデータを演奏する姿をみると、堅気のキーボーディストに最適のプレイヤーに思えてしまおう。外部のメジャーどころのコネクションもプレイヤー中最多で(ポンタさん、幾見さんといった面々他多数)、最も外部にその人気・実力を認められていそうに錯覚しがち。
一歩立ち止まり、よくよく考察するに、窪田宏は若しやしてもっとも堅気のそれには不向きなデモンストレーターとは言えまいか。
メジャーとのコネクションを人一倍深めるのも、メジャーと同列に扱われたいと思うからではなかろうか。一流どころ、超一流どころを「並び」で語られたいのだ。実際、取り巻き達は並びで語ろうとし、本気であまたのメジャーに認められているスターと確信している。


窪田宏本人と取り巻きの勘違いには唖然とする他無い。
アンチ窪田を誇る者も、「昔は好きだった」として好きだった曲100曲を挙げる始末。
ファンとやっていることが変わらない。

新たなるファンは獲得できずとも、デビューからのファンはまだまだ多い。
これらは、そろそろ中堅からベテランに達する世代だ。
強靭なるファンがヤマハを引導することになる。エレ糞文化の凋落、勘違いはこれからも続くことであろう。

こんな安物のデモ演奏を垂れ流しておいて、全米デビュー?
バカは休み休みに言うべきである。
 
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