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撲滅・検討の如何を考察、問題を提起
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まず、こちらが採り上げるA級戦犯はこちら。
「松田 昌」・・・これこそが、エレ糞界崩壊の所以をつくったA級戦犯というのが当白書の考えである。


かく記載すると、読者はまず卒倒することであろう。
「あれほどエレクトーン音楽の独自性を追い求めてきた人が?!」
「他のどのプレイヤーよりもエレクトーンの独自性を追い求めてきたじゃないか!!」
「CMにも一杯出てたじゃない?」
などなど、
抗議の通知や不幸の手紙等がどんどん筆者のもとに押し寄せてくる光景が目に浮かぶ。

それがA級戦犯だなんて、どこの脳をひねり出せれば然る発想が浮かんでくるかと思われよう。
筆者の神経はこの上なくひね曲がっているやもしれない。


具体的にそのA級戦犯たる真意を説明せよとなると、こちらも戸惑ってしまうのであるが、先ず言えることは、エレクトーン界の限界、ひいてはエレクトーン、面倒になってきたので以下「エレ糞」と称しよう、そのエレ糞の機能の限界を露呈せし真犯人とでも言おうか。


エレ糞界の衰退の所以についてはあまたの論議がなされている。

値段が法外に高い。
モデルチェンジの早さ。
機能の難しさ。
教室がモデルチェンジに対応してくれない。
などなど。

筆者の考える衰退の主要素は是如何。それはこれから採り上げる人物。これこそがエレ糞界の愚かさを、その庶民派キャラクターとやらで世間に露呈してくれたように思えてならないのである。
世間は、「エレ糞の世界ってそんなにもつまらない、馬鹿げた世界なのか」「それしきの甘ったれた心意気で天下の取れる世界なのか」と引くに引くことで、現在の惨状が導き出されたやうに思えてならない。素人の目はごまかせても、外の音楽家達の目はごまかせないといったところか。


茲では、氏の拙作である著書「夢を追いかけて」の書評では突っ込みきれなかった箇所につき、いかに愚かしき存在であるか、いかにして然るべく感じたかということをまとめ、特に怒りのこみ上げる疑問点を挙げ、悉く突っ込んでてみたく思う。


この小父、庶民派たることを印象付けたいためか、ファンや取り巻きに執拗に「マサさん」と呼ばせたがる。最近の雑誌の何とかという特集には自らを「マサさんはね」などと称し、わざとらしきことこの上ない。あるときは、「オイラは」、更には「ワテは」など、日常ではまず遣われない言い回しを用いることで、無駄に庶民派に固執せんとする。
「私は大物ですが、おさまってはいません。いつ何時も関西人らしく、いつまでも庶民派のままです。大物ぶっていないところをどうぞ皆様、見てください」とでも言いたげ。

そのような余りのわざとらしい演出に、こちらは、「こんなバカ、見たくもない!!」と呆れ、ただ引くばかりなのであるが、ファンは何の疑問もなく、「マサさん」などと称し、それが親しみの敬称などと勘違いしている有様。全く以て見苦しく、その頭脳の浅はかさに呆れてしまうばかりである。

何だか「マサさん」という表記は、要介護7億の禁治産者を髣髴とさせてならない。
「昌さん」ならばまだしも、なぜわざわざ「マサ」と片仮名表記にせしめるのだろうか。初めから「松田マサ」で行けばよいものを。

「昌さん」というのは、変換が面倒至極である。「まさ」なんて名のバカは居ないとでも言わんばかり。「まさる」ならば一発変換が効くが、「まさ」という名のために一発変換が効かず、いちいち文節調整をせねばならない。


それほどまでに大物ぶりたくないというのならば、その意気に応え、「バカさん」と称することにしよう。己を「まだまだ大物と扱われるほどではない。まだ自分の音楽が完成しきっていない。まだ愚人也」というその意気込みに大いに敬意を表してのことである。何も突っ込まれることはあるまい。


本題に入る。生い立ち如何については、その拙作を立ち読みしていただくことにし、第一の疑問としてこれを挙げる。


~「無欲の賞」、是最大の傲慢の証し也。~

拙作にも堂々と書かれていることであり、ライブのMCに於いてコンクールのエピソードを語る折に度々登場する文言としておなじみの台詞たる「無欲の賞」。これについて物申してみたく思う。

バカさんは、「無欲の賞」についてかかる見解をば述べられる。
「コンクールでは、『自分はこれをやりたい!』ということをはっきり見つけて追求することが大切。それがないと説得力のある音楽にはならない」とし、括弧書きで「コンクールで賞をもらうにはどんな曲がいいのか?というよくある発想は何とかならないだろうか?エレ糞の世界の非常に悲しい現実だ」と、嫌味たっぷりに締めくくる。ここで、ヤマハ関係者は「自分のやりたい音楽をせねば!」という、実に具体性無き、ある種意味不明なる目標をもってコンクールに励むことになる。


「そんな、『無欲の賞』だなんて。。。中学生からコンクールの頂点を目指して日夜練習に励んでいるものたちはどうなるの?」と思われる読者も居よう。

心配ご無用、当該中学生達は、「無欲の賞」を合言葉に、日夜コンクールに励むことになるのだ。我々一般の素人の目線からすれば、何とも気味の悪い光景であるが、ヤマハ関係者の間では、「無欲の賞」が美学とせられている。


考えてみれば、「無欲の賞」って、最大の傲慢の証しではなかろうか。実に嫌味たっぷりで、目にするだけ、耳にするだけで反吐が出るのだが、これにつき、ヤマハ関係者に疑問点を述べると、「理解力がない!」「賞狙いの出場者!何と下劣な!」として追い出されるがオチである。


そもそも、「賞が要らない」というのであれば、
どうしてコンクールに出場したのであろうか。

「成績はどうでもいい」「沢山の人に聞いてもらいたい」ならば、普通に発表会に出場するだけで事足りようし、自らの手を以てコンサートを主催するという手もあるわけである。コンクールへわざわざ出向く意義などどこにもない。

「コンクールに出場する」というだけで、「賞がほしい」ひいては、「グランプリが欲しい」という意欲が丸分かりである。「無欲の賞」「賞なんてどうでもよい」だなんてどうしたことか。


コンクールの出場者には、当然グランプリ狙いの者が居よう。否、それが当然の姿であり、何も非難せられるものではない。かかる場においては、目標は高き方が力が発揮できようから。その姿勢は全員悪いと言うのか。

バカさんは謂う。曰く、「『自分はやりたいことを、やりたいようにできた。いろんな人がきいてくれた。これで充分。賞なんてどうでもよい』と思った。それなのにグランプリ。このことは、ある暗示をしていると思う」と(以上、84頁)。

その暗示とは何か。

たまたま貴様の出場曲が審査員のツボにはまっただけだよ!!

やりたいことをやればグランプリがとれる?とんでもない勘違い、嗚呼勘違いである。
このバカは本当にそのようなことを思っていたと言うのか。


そもそもやりたいことをやればグランプリがとれるとなると、グランプリなんて何の価値も見出さないではあるまいか。やりたいことをやり、その中からのグランプリである。やりたいことをやればグランプリがとれるだんて先ず無いし、あってはならないこととも言える。
やりたいことをやったのにグランプリがとれなかった。その手の者は、なるほど音楽の世界から手を引くべきなのやもしれないのは事実であろう。
反対に、やりたくないことをやってグランプリがとれた。これをバカさんは快く思わないようであるが、そうした場合に於いてもインパクトがでれば勝ちといわざるをえない場面だってある。

楽器店によると、傾向に合致した出場曲を以て出場せしめんとする。酷くなると、既成曲が上位の大会へコマを進めやすい所もある。事実、既成曲が受けに受けており、バカさんのいうように、オリジナル曲や、自分のやりたい曲を以てしては99%太刀打ちできない。筆者の能力が著しく低いという事情もあろうが、受けやすい既成曲を以て出場すれば、簡単に勝ち取れる仕組みのところもある。グランプリ取得は不可能やも知れないが。


コンクール出場歴を鑑みるに、バカさんは、洒落半分の姿勢の出場だったのであろう。dim.スケールのオリジナルということからして洒落の出場であることがよく判るというものである。

賞なんてどうでもよい=しゃれの出場、それなのにグランプリ。
バカさんは、洒落半分の出場を以て、グランプリを獲得した。これがすなわち「無欲の賞」である。

何だか物凄く嫌味な言い方ではなかろうか。
「コンクールって、こんな俺でも賞が取れるほど、甘っちょろいんだ!」という奢り高ぶりが、行間から読み取れる。中学生から頂点目指してコンクールに出場した者はどう生きてゆけばよいのか。
「無欲の賞を目指して!」と頑張っている場合ではないと思うのであるが。


筆者は、この昭和48年という時期が、エレ糞文化低落の一時点に思えてならない。一種のターニング・ポイントと言うべきものである。殊に、コンクール凋落の兆しが見えてきたように思えて仕方ないのである。洒落の出場者に対し、その姿勢に載せられてグランプリを頂戴した審査員の罪は甚大とは言えまいか。それは過言とすべきか。極論すれば、「欽ちゃんの仮装大賞」にて洒落半分にて出場した者の、くだらない一発芸や駄洒落に対し、「面白い」「観たことがない」として満点を授けるようなものである。そうした悪ふざけが、この年から始まった。凋落の兆しはこの時点から始まり、プロの質のターニングポイントもこの辺りから開始したように思えて仕方ない。「そういえば」という怪しい点が思い浮かぶはずである。


バカさんは、どうもコンクールによくある傾向を忌み嫌うようである。
雑誌「月エレ」の対談からもわかるように、クラッシックに偏りがちな風潮を嫌う。
残念ながら、コンクールに風潮は憑き物である。それが嫌ならば、コンクールというもの自体を廃止するしかない。

一時、「オリジナル部門の創設を」と唱えていた時期があるが、これは最も厄介な部門になろう。実際、作曲活動が賞狙いのものになり、後の作曲活動に大いに支障をきたそうし、コンクールを進めてゆくうちにその内部にてパターン化が起ころう。


拙作に於ける記述を鑑みるに、バカさんは現代音楽で出場するということを非常に斬新で、オリジナルのように考えていたようである。とんでもない勘違いである。

この当時は、現代音楽、もっと正確に言えば、変拍子調の曲が審査員に受ける傾向にあったことがよくわかる。

ボビーライルの出場曲然り、芝原くるみの「イラプション」(Focus)然り、
他にも道内講師中河 紀美江「Catch in Alice」(セキトオ・シゲオ)は3拍子と思わせておいてスウィングになるなど完全に現代音楽調であるし、マリテス・サリエンテス「パッサカリアc moll」(ヨハン・セバスチャン・バッハ)も変拍子のアレンジであったし、ヘンドラ・ウィジャヤ「酒とバラの日々」(ヘンリー・マンシーニ)も静や動を大袈裟に見せつける形態の、やたらとテンポが変わるアレンジであった。

変拍子で、現代音楽調の出場曲がグランプリ、入賞と上位に上がっており、何らかの傾向があることは容易に判別できる。

翌年も、グランプリ曲から鑑みるに、その傾向は続いていたと考えられる。翌年に限らず、コンクールは変拍子や現代音楽調の曲が出回っていた時期が続いていたはずだ。

「自分はやりたい音楽をやった。それだけ」・・・傾向など一切気にしていないような口調であるが、傾向を気にしていまいが傾向を振り払うことはできない。傾向を本当に気にしていないのであれば、賞を貰うべきではない。賞を貰ったと言う以上、傾向に合致していたのである。
「運も実力のうち」と言われるが、音楽コンクールの場合は特にそれが強く働くように考えられまいか。

バカさんには、どうも「やりたい音楽をやる=傾向にとらわれない」と考えがちの場面がよく見られるのだが、そのやりたい音楽が傾向に合っていたら下劣だと言うのか。
「異次元」は、現代音楽・変拍子調の曲をグランプリにとるという傾向に見事に合致していたからグランプリが取れたのである。傾向を気にしていないと言えども、傾向に合致していたのは事実。

よく批難する「クラッシックの出場」だって、やりたいからやるという思いの者が大半のはずである。まして頂点を狙わんとする者の場合は。

己は、思い切り傾向に合致した曲を披露しておきながら、何が「コンクールで賞をもらうにはどんな曲がいいか云々」だというのだ。

その思いは、コンクール出場にあたってある種の夢の計画が如きものである。一回きりの出場、周りは厳しい目の審査員が居るし、観客の注目度も発表会よりも高い。普段とは違うことをしてみたい、普段とは違う大曲を時間をかけてじっくり取り組みたいと考えるのは当然のことであり、むしろ尊ぶべき姿勢でもある。

フーテンだか何だか知らないが、要するに、(拙作を紐解くに)人にはとても自慢できないみずぼらしい生活を送っておきながら、数年の稽古でグランプリをとれた。しかも「無欲の賞」。
洒落でも傾向とやりたいことが合致すればグランプリがとれる。バカさんは、そうしたコンクールの虚構たるものを示したA級戦犯とは解釈できまいか。

「無欲の賞」は謙遜の姿勢ではない。洒落でもグランプリはとれるくらいにコンクールは馬鹿げた催しごとであることを示し、自らの演奏は単なるおふざけであるという嫌味のこもった最大に傲慢なる姿勢の表れなのである。これに気づけないバカさんの浅はかなる頭脳に、筆者は途方も無い怒りを覚え、この言葉の真意に気づけないエレ糞の世界に途方も無い悲しみを覚える。

かかる突込みをすると、次のような反論が押し寄せよう。曰く、
「勝負は、勝とうとすると負けるものだ」と。
スポーツの世界に於ける格言である。なるほどそれは一理ある。バカさんの「無欲の賞」は、それを表した言い回しのつもりなのであろう。筆者は、コンクールに傾向は憑かざるを得ないこと、賞に対して無欲ならば初めからコンクールに出場せず、自らコンサートを開けば事足りるし、発表会で十分ではないかという疑問が沸いて来て、どうしても傲慢の表れとしか解釈できない。
ピアニストのロナルド=カヴァイエは、「無欲の賞」の一環として、コンクールと呼ばれる催しごとには一切出場していないとのことである。そもそも賞に何の意味をも見出さないから出ない。

スポーツならば、コンクール、勝負事に出ないことには選手の価値は見出せないように思うし、附せられる点数にはルールに基づきある種の絶対性があり、運を頼りにしていられない。

どうせそのような意味合いを込めたいのならば、本宮ひろし師が如く、次のような発言だとまだ可愛げがある。曰く、
「人気の傾向を気にして漫画を描き、それが人気を得たとしても少しも嬉しくない。自分のやりたい漫画を描き、それが人気を得たというのであれば、自分の思いが伝わったということであり、嬉しいことである」と。

本宮師の場合、取得する賞は後からついてきたもののはずである。初めから、なにがしかのコンクールに出品することで得た賞ではなかろう。世に自分の漫画を発表し、読者から本当に心ある支持を受け、後でついてきた賞である。それだけに本宮師の「勝とうとすれば負ける」といった意味合いのその格言には一層の説得力が生まれる。

バカさんの場合は、賞は後からついてきたものか。コンクールに出場することでその場で得た賞であり、後から付いてきた賞ではない。ここではむしろ、「勝とうとして得た賞」と素直に認める方が可愛げがあるし、努力の甲斐もより伝えられまいか。


拙作を読み直すに、矛盾点があちらこちらに散らばっている。
まず、「全国大会までは行きたいなあ」(82頁最終行)という気持ちからして欲があるのを示しているようなものであるし、甘えた心意気に反吐が出る。素直に「グランプリを目指して」と断言すべきではあるまいか。

バカさんにグランプリに対する欲があるのは次の一文にて明らかになる。84頁3行目、

「沖(浩一)先生に、当時の音列即興の課題に対するアイディアとテープ(佐藤允彦さんの演奏。フリーの中に同音連打を「タッタッタン」と入れて自由な即興を展開していた)をいただいたおかげで、なんとグランプリになってしまった」

の箇所。


あのですね、
本当に「無欲」というならば、当該「いただいたアイディアとテープ」はゴミ箱に捨てると思うのですが。嘲笑



己の恥丸出しの経歴を「謙遜の姿勢」とも言わんばかりに見せ付けられ、偶然のグランプリ獲得に対して「無欲の賞」とのたまわれたのではたまったものではない。「グランプリってそんなに価値のないものなの?そんな馬鹿げた催しごとに中学生から(小学生からというケースもすこぶる多い)懸命になっていた自分って一体・・・」と虚しさを味わうのが本来のあり方の筈。
(因みに筆者は参加賞止まりですが何か。)



コンクールにおける姿勢について散々物申してきた。曲自体は是如何。グランプリの価値は無きものだったか。それについて感想でも述べておこうか。
出場曲「異次元」、これ自体について。インパクトは十二分に伝わった。特にお気に入りの部分を挙げておくと、テーマに入るところのL.M.(現・L.K.)の伴奏。キメが終わり、アドリブパートに入る間もスリルと快活感に溢れていて心地よい。リズムをかけない中、あそこまでリズムをタイトに伝えられる演奏体系を披露したのは流石。下手にリズムに頼ると、リズムの無機的なる音質が故に、音楽性が台無しになってしまう。これは、リズムがなくてもリズム感は十二分に伝えられることを示したことで評価は受けてしかるべきであろう。
イントロのストリングスのフレーズも不気味で、dim.スケールのテンションを面白く使用しており、勉強にはなる。中間部の即興アドリブはデモ臭くてあまり好きではないが。
他のグランプリ曲、芝原くるみやボビー・ライルのも、インパクトが違い、一線を画している感じではあった。
あの姿勢は、洒落半分か。洒落ではあそこまでリズムなしでリズミカルな空気は出せまい。素直に「グランプリを取得したかった」で事足りるはず。そこまでして謙遜にこだわりたいのか。
謙遜は、使いようによっては却って尊大に感ぜられ、逆効果になりうる。そうしたデリカシーというもののなさが「無欲の賞」という言葉には秘められているように思える。


バカさんの疑問はこれにとどまらない。次に挙げる事項は、筆者が最も疑問に思い、不満至極なる姿勢である。次項にて検討しよう。
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