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撲滅・検討の如何を考察、問題を提起
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yumewooikakete.jpg平成9年、YMMから出版せられた随筆である。

批評については、「電子風琴」のカテゴリーにて散々しており、わざわざ茲で紹介するまでもないが、一応こちらにて「夢を追いかけて」自身の紹介をしておく。


けだし、これは「そっくりショー」であり、「ままごと」なのではなかろうか。

一流を気取り、なるほどエレ糞界ではトップであることに疑いはないのだが、スター感覚にて人生観や生い立ちを書き上げた、「ままごと」と捉えるべきであろう。


ヤマハが出版しており、なんだかんだいって結局ヤマハ関係者にしか購入してもらえず、ヤマハ関係者にしか知れ渡らない。著者は、それを察知の上、好き勝手なことが書ける。通用するのはヤマハ内部だけ。きわめて狭い世界。


本自体の不満を挙げておくと、まず、
「第3項 つれづれなるままに」

所謂非鉄に鉄道ファンを気取られるのは非常にむずがゆく、気分が悪いことである。

国鉄時代は態度の悪い職員であったが、JRになってからは、態度が良くなっただの、そんなこと今更言われてもこちらはどうすればよいのであろうか。
そんな過去のことを持ち出されても困るし、中途半端に鉄道の知識を披露する感じがして非常に気持ちが悪い。


「鉄道を語るのは鉄道ファンに限る」というのは、余りに偏狭じみた考えではあろう。が、少なくとも筆者はこの「つれづれなるままに」のような鉄道知識の披露には途方も無い違和感・ぎごちなさ、むずがゆさ、不快感を感じてしまう。

同じ鉄道を語られるにしても、向谷実師ならば素直に受け入れられ、「エレクトーン界出身の鉄道ファン」ということで益々愛着が沸くというのに、不思議なものだ。


「座るならば窓側か?通路側か?」
そんなものどちらでも良いではあるまいか。一々紙面を捌いて書き連ねることではあるまい。



「JRの音楽について」というコンテンツがある。
幾つか違和感の感ずる音があるというのだが、残念ながら筆者はこちらに掲載せられている間違いや不手際の感ぜられる音楽には出会ったことが無い。どれもこれも、JR東日本の発車メロディはよくできていて洒落が効いているように思う。JR東日本ほど発車メロディというものに力を注いでいるところを筆者は知らない。

バカさんは、JR山手線「渋谷駅」の発車メロディに苦言を呈せられているが、「鉄道マニア倶楽部#3」(平成18年放送、MONDO21)では少しもそのような話題は出ず、「発車メロディは素晴らしい」という結論に達していた。向谷師は、現場の発車メロディの作成を担当していることもあり、余り他人の作成した発車メロディに対してあれこれ物申したくない心境なのやもしれない。


そんなに発車メロディに不満があるならば、己が発車メロディを作成せよというのだ。
「音楽公害」だとして、裁判に訴える気のようだ。

そんなことするよりも、JR東日本に不手際なる点を述べ、自らが発車メロディの手直しをするのが筋ではあるまいか。貴様はそれほどまでに世間に音楽家として認知せられていないというのか。


最後に、かく続ける。曰く、
「最近(平成8年)、阪急電車の梅田駅も発車音楽を始めた。~ 変なとこで東京の真似するなよぉ!」と。

返答しておいてやろうか。
一切不手際はありません!

それよりも、筆者はおのれのCDアルバム「蜃気楼、道、オーロラに乗って」のアレンジ・録音・音色等について強い不手際を感じ、強い抵抗を覚える。

こんな駄作を「作曲家の一面を」と偉そうな面をさげてヤマハ関係者のみに発売させる方がよほど音楽公害だと思う。



もう一つ気に入らないのは、
大阪の味方をしているところ。
何様のつもりなのだろうか。さきほどの阪急電車云々にしても、「我が大阪の阪急電車」などと記している。如何にも大阪で生まれ育ったかのような振る舞いだ。
大阪の庶民性を主張するためか、あるコンテンツのみ関西弁にて記している。筆者の最も忌み嫌う表現方法だ。
「ワテ」「~でんなぁ」を多用して大阪の味方を気取っているのだが、まず、こんな喋り方をする大阪人は一人も居ない。

大体よぉ、
貴様兵庫県民だろがこの野郎!!
大阪と兵庫県はまったくとはいえなくとも、基本的に別物だと捉えられている。
本場の大阪人からしたらバカさんの姿勢は袋たたきの第一の対象となろう。


住居??基本的に活動拠点は東京だったはず。
今では名古屋に変わっているし、大阪の味方をせられる筋合いなどどこにもない。「我が大阪」とは是如何。

大阪の笑いについて、「なんかおもろいことやろうや」という性格が顕著に現れているというのだが、それは残念ながらむしろ東京の方が強い。
大阪は、ある一定の笑いに固執しすぎている傾向がある。感覚が狭すぎるのだ。実力ある大阪の芸人が東京に旅立ってしまうのも、東京の方が「なんかおもろいことやろうや」という姿勢があるからであろう。たとえば、明石家さんまが上京したのは、絶対に藤本義一と共演したくないという意思があったからである。

バカさんは、「東京の笑いは林家三平に代表せられるように、無理に客の笑いをとろうとする面がある」とし、「観ていて恥ずかしくなってくる」と東京の笑いを非難三昧。

林家三平は、たしかに筆者の嫌いなタイプの笑いではあるが、あれは東京でも異端の存在であり、これを東京の笑いの基本とするバカさんの見解は余りに不適切で、強引にもほどがある。三平は全国区であり、全国的に色物の異端だった。代表にするのは笑いを語るにあたって余りに不適切。

東京の笑いは、どちらかというと立川談志に代表せられるように、他人に対して攻撃的なのではなかろうか。「歌丸→ハゲ、小円遊→変な顔」という根多もあったか。


対して大阪の笑いは自分を卑下する笑いが主流といったところか。
この分け方は余り正確ではないが、少なくともバカさんの見解よりは優れていよう。


好きな芸人として、鶴瓶!
「鶴瓶」ってのが好みの芸人だという。面白いのだそうだ。



何だか、ものすごく不適切な表現ではなかろうか。

「鶴瓶」って言われてもすぐには思いつかないのではなかろうか。
ここは、正確に「笑福亭鶴瓶師」と記述すべきである。それが執筆者として当然の在り方であろう。

好きな番組は「パペポTV」(読売テレビ)。

「どうして東京でやらないのかわからない」と疑問を呈するのであるが、この頃は全国ネット化していたはずだ。バカさんは東京在住が主流のはずであり、とうして関西ローカルをこれほどまでに熱く語れるのか、そちらに疑問と怒りを覚える。


バカさんは、「ボクはテレビタレントの殆どを知らない」としている。テレビは殆ど見ない生活なのだそうだ。それが「笑っていいとも」や「パペポ」を是ほどまでに語れるのはどうかしているし、芸人像について何がわかるのかと物申したい。


バカさんの配慮の欠缺はここでも垣間見られる。

その「鶴瓶」って名の芸人が、新大阪駅のエスカレータにて自分の1m前に居たという。
「鶴瓶さん!ぼく、大ファンです。握手してください!」と言いたかったが、50を前にした男(当時)がそんなこと言えるわけが無いことと、「パペポ」の根多にせられてしまうことが嫌で言わずじまいだったという。


これって謙遜のつもり?? おかしくないかい??
バカさんは、トップ・エレクトーンプレイヤー。EL90のCMに出演していたし、知名度は他のプレイヤーよりも上。松田昌の名をいえば凡そは理解してもらえる。テレビ番組のBGMにも用いられている。その「鶴瓶」って名の芸人にもそのあたりの事情は話せば理解してもらえるやもしれない。
「パペポ」の根多にせられ、笑われておしまいというのだが、本当にそうだとしたら、エレクトーンプレイヤーと言うのはその程度の知名度しかないわけで、ヤマハにしか知られていない矮小なる存在であることを露呈しては居まいか。
「エレクトーンプレイヤーの松田昌です!」と、その「鶴瓶」ってのに言えば理解してもらえるはずであり、「パペポ」の根多にせられて笑われるなんてことはなかろう。
なぜ笑いの根多にせねばならない。ここでの笑いは「失笑」の意味だろ。
「鶴瓶」っての・・・・・いい加減、きちんと呼称しようか、鶴瓶師はエレクトーンというものにそれほどまでに負の偏見を抱かれていようか。
本当だとしたら大問題であり、「エレクトーンと言うのはその程度の認知度しかありません」「エレクトーンの理解はまだまだ低く、芸能界にはまったく理解せられていません」と言っているようなものではあるまいか。何を考えているのだ。勘違いにもほどがある。

プロのプレイヤーがそんな低姿勢でどうするのだ。ここは謙遜すべき場面ではなく、「エレクトーンプレイヤーです!」と堂々名乗るべきであろう。貴様はトッププレイヤーだろ。


鶴瓶師のほか、上岡龍太郎師に対しても、「上岡」と呼び捨て。
それだけでも失礼千万であるが、何の説明もなく、突然「上岡!」と書かれたのでは誰のことなのか直ぐには判別できない。
レールウェイライターの上岡(うえおか)直見先生かと勘違いしてしまうではないか。



「拝啓 大御所先生様」

そんなに大御所先生様に物申したければ、
ヤマハの助けを借りるなよと物申したい。
ヤマハ関係者にしか発売せられない書物にて幾ら物申しても、自己満足にしか終わるまい。
外の世界にて同じことを言うべきであろう。


色々言いたい放題に記されているが、結局ヤマハの手中をさまよっているだけ。本人はそうとは知らずにすっかり一流気取りで、人一倍庶民の味方をしているふりをして綺麗ごとを並べ立てる。

まさに、エレクトーン界の孫悟空ってわけだな。嘲笑


タクシーに乗ったとき、運転手と話をすると、
「楽譜が読めないから音楽はぜんぜんわからない」「才能がないからねー」と言われると言う。
是に対し、バカさんは、
「本来ならば、楽譜が読めなくても音楽はできるはず」とし、
「音楽を崇高なる芸術に高めてしまった」と締めくくる。

一見、正論に思える発言の数々を展開するが、そんなに誰でもできる音楽を目指すならば、
レッスンの折にオーディションするなよと物申したい。
貴様自らが初心者向けのレッスンを開催すれば良いではあるまいか。どうせ自分のレッスンはプロ向けだからと言い訳することであろう。この時点で楽譜が読めない人に音楽を勧めるのは言語道断となる。よくぞこれだけ中身の無い善意を披露していられるものだ。矛盾点に気づかないのだろうか。

初心者向けのレッスンとなると、料金はそんなに稼げない。貴様の開講しているオーディションつきのレッスンならば45分で15,000円を稼げよう。金にならないので初心者向けのレッスンは引き受けたくないわけだ。そうした考えが、音楽を(この著書が強調するように)高尚めいた、敷居のきわめて高い存在にしてきたのではなかろうか。


バカさんの「素晴らしい音楽教育」と位置づけるところのヤマハは、なるほど大人のためのレッスンを開講している。筆者は、ここの大人たちが大嫌い。大人からレッスンを始めた輩は態度が妙に尊大で、「大人からはじめたエレクトーン好き」ということを強調し、それを偉大なる行為であるかのごとく錯覚している。何か苦言を呈すると、「あなたは小さい頃から始めているからそこまでできるんだ。」「私は大人から始めた。子供のように直ぐに一つのことを吸収できない」とご立腹、果てには「そういうあなたは何か賞を獲得したことがあるのですか?!」と嫌味を存分に吐かれる。
最も歯がゆいのは、人生の先輩を気取るところ。音楽はできないが、人生ならば誰よりも先輩だとしてあれこれ薀蓄垂れたり、説教を垂れたり、扱いにくい、やり辛いと言ったらありゃしない。もっと鬱陶しきは、説教を垂れたり、小言を吐くことで、憎まれ役を買っている振る舞いをする点だ。
「あなたのために、わざわざ憎まれ役を買ってあげているのよ?その意気にちょっとは感謝しなさい」とも言わんばかり。その手の輩に限って己は基礎的モラルがまるでなっていないことに驚かされる。
人の秘密は、「友達だから」と言わんばかりに平気で全員の前でばらす分際で、己の秘密は、少しでも口に出されると直ぐに逆上するのだ。どれだけうんざりしたことか。
もう一つ、気に喰わないのは、言うまでもなく、バカさんの欺瞞と打算に気づかないことである。プレイヤーに対してはどんなにモラルが崩れていても良いのだそうだ。どれだけ嫌な思いをしたことか。プレイヤーに対しては、何も思い入れがないから欺瞞や打算に小言を吐かないのか、説教を垂れないのか。筆者は、思い入れがあるから小言を吐き、説教を垂れてわざわざ憎まれ役を買うのか。自分の危機は自分の手や頭を以て察知するものだ。バカさんの欺瞞と打算を良しとするならば、思い入れがないから物申さないと言うならば、二度とバカさんのファンを気取るな。

(茲でやっている断罪は、筆者のやりたいようにしているだけで、「あなたのためを思って」「敢えて憎まれ役を云々」といった裏の思いやりの念は一切ない)

大人から簡単にレッスンを始められるようにという名目の元、エレ糞には自動伴奏機能だのサポート機能だの、常識では考えられない機能がつき、肝心の音楽文化そのものを低下させてきた。
サポート演奏が充実しすぎたおかげで、昨今は、譜面を目にしただけではどんな音楽かわからない状態になっている。記譜者は、曲目を全て記譜しないのだ。譜面は真っ白になり、ピアノの世界とは益々落差が大きくなり、愚弄せられてゆく。

あんなに真っ白な譜面ならば、当該タクシーの運転手たちも簡単に音楽を始められよう。
かくのごとく、プロとアマの境界をなくすことで、エレ糞文化は凋落してきたのである。馬鹿はいつまでも馬鹿なまま、有能なる者は凋落したレベルに物足りなさを感じ、いつの間にかそのレベルに甘えて自らの能力を貶めるか、ヤマハからは巣立ち、外の音楽界に身を投ずるか。前者が、「エレクトーン・プレイヤー」と言われる人たちといえまいか。嘲笑
その原因をつくったのは、このバカさんに他ならない。昭和48年というものがいかにエレ糞文化凋落のターニングポイントであったか、お分かりいただけよう。ヤマハの中でもバカさんくらいしかかくのごとき、所謂誰にでもできる音楽、格差の無い音楽を強調している者を筆者は知らない。
処理の仕方如何によってはうまい音楽教育が提供できたのやもしれないが、残念ながらヤマハは所詮営利企業、営業成績、金銭儲けの方向に走ってしまった。

学力低下の問題と同じく、学習指導要領を、馬鹿にでもわかるようにと簡単なものにし、学習量を減らし、平等社会を試みた。馬鹿は馬鹿なまま、有能なる者は低下した指導要領に物足りなさを感じ、いつのまにかそれに甘えてしまい、今日の学力低下が起きたわけである。


バカさんは、「クラッシックの先生方の一部が、ポピュラーを自分達のやる音楽より一段低いものと考える風潮に疑問を持っている」とする(217頁)。

残念ながら、この風潮が最もはびこっているのは、ヤマハ講師。
ヤマハ音楽教室の講師陣が最もこの考えを有している。

酷い講師になると、たとえば、富岡ヤスヤを馬鹿にし、鷹野雅史を崇め奉る。理由は簡単、前者はロックが主流で後者はクラッシックが主流だからだ。その露骨さたるや凄まじい。

講師のみならず、エレ糞界においては、どうも「クラッシックを弾ける」というのは一つのステータスに捉えられ、クラッシックをたしなむプレイヤーは一段高い位置にあるように思えてならない。

渡辺睦樹のCDアルバムなど、ヤマハ内外に於いて、評価は180度異なっている。
180度だ。

コンクールにて、クラッシックの出場が多いのも、そうした考えの講師が多いからであろう。
世の中に物申す前に、ヤマハのそうした体質を自らの手を以て直せと言うのだ。ヤマハから独立している場合ではなかろう。


バカさんは、クラッシックよりも森進一の演歌に感動したという。余りに強引な展開で、森進一自身に失礼千万ではなかろうか。ヤマハ関係者にしか読んでもらわないつもりだからとは雖も、余りに不適切で強引過ぎで、森進一本人は得体の知れない冷たい脂汗を握ることになろう。


クラッシックがなぜ崇め奉られるのか、それはクラッシックが何百年にも亘ってその輝きを保ち続けているからだ。

これをみると、音楽は皆平等の水準にあり、格差付けを忌み嫌う姿が思い起こされるが、バカさんの忌み嫌うところの「水準」というのは、理論的なものであり、イメージではない。
クラッシックは永年の輝きを失わないのは事実であり、現代曲、殊にJ-POPSはクラッシックとは比べて一段落ちるのは絶対的なものであり、偏見ではない。

水準の高低は、理論的であり、絶対的なもので、好き嫌いとは無関係であるし、水準が低いからとあれこれ貶めているというのではない。
そんなにクラッシックを一段上に捉えるのが嫌ならば、絶対にクラッシックには手を出すべきではないし、音楽療法を完全否定してもらわねば困る。
クラッシックが嫌ならば、音楽理論は絶対に用いてはなるまい。
音楽理論というのは、ジャズから生まれでた独自の理論もあるにはあるが、根底はクラッシック音楽からの派生だ。根底たるクラッシックが崇め奉られるのは仕方ない。

「人それぞれ」というのは、水準の高低とはまったく関係が無い。
高い水準にあっても、「嫌い」と言われればそれまでのこと。逆も亦然り。


あるコンサートにて、「クラッシックは芸術であり、ポップスは娯楽である」という見解を下されたことにご立腹の様子であるが、娯楽ならば娯楽なりに思い切り遊び倒せばよいこと。
たとえ、人間性が高められずともそれで十分であろう。おのれは、ポップスを長年やってきたかのような記述をしているが、何か人間性が高まったとでも言うのか。


バカさんはインドネシアのガムラン音楽というものにいたく感銘を受けたと言う。ガムランは、そこでは芸術ではなく、生活であって遊びだと言う。人々全てが平等に音楽を楽しんでいる雰囲気だったと言う。

そいつらって、道端に転がっているハーモニカ奏者みたいなもんだろ。
日本では、路上でライブを行っている迷惑この上ないバンドだ。それをバカさんは「生活であって遊びだ」として崇め奉っているのである。何と言う勘違いであろうか。


「あるパイプオルガン奏者の奢り」として、バカさんは、パイプオルガンの奏者に対し、「松田さん」と呼ばれるのを至極不快に思ったと言う。後に、「松田先生」と呼ばれるようになったことを光栄至極に思ったようだ。

普段、掲示板に於いては「師はやめません?」「先生なんて呼ばれるよりも、ボクは『昌さん』くらいが丁度いいです」と発言しておきながら、本場の音楽家たちには「松田先生」と呼ばれたいのか。

これを傲慢、矛盾と言わずしてなんと形容できようぞ。



「バッハやフランクなどの、敬虔なるクリスチャンである作曲家が、自己を無にし、神を賛美するために作った、人間の心の温かさや、素直さや、豊かさをテーマにした宗教曲を毎日演奏しているパイプオルガンの演奏家の中に、とんでもなく心の偏狭な人がいるのはなぜか、ぼくには理解できない。彼らは、自分の演奏している音楽を果たして本当に理解しているのだろうか」と苦言を呈せられる(216頁)。

そう言う本人は、母親の喪中の手紙の裏に、結婚式の知らせを載せている。
わかりにくいが、これって、静かなコントだよな。






真面目に物申させていただくと、筆者は、このような疑問を一番感じたのはバカさん本人。
ファンサービスのがさつさからそれを察知せずには居られなかった。


ふと疑問に思ったのだが、その敬虔なる云々って、日野正雄師のこと??誤爆・・・


けだし、この一文、主語と述語、ムチャクチャじゃねえか。
何が主語で、誰が偏狭なのだとか、誰のどこの中になのかさっぱりわかんない。

敬虔なるクリスチャンである作曲家が偏狭なる心の持ち主だと言うのか。


これ、まずいだろーーーー。
学校出てねぇだろコイツーー!!


どこの頭をひねればこんな支離滅裂な構成の文章を書けるのかさっぱり不明。
小学校の卒業アルバムだよ、これ。

大川興業の、中卒で保護観察中の身の、「総裁」を「総菜」と変換する新人の方がまだまともな文章を書くぞなもし。


こんな知的障害本、買うなああぁぁぁぁぁぁ!!!
0点じゃ、0点!!!

はさみでカット、カット!!!!!
文句なしに、整理ポスト決定。

思うに、茲に記されていることって、殆どが陳腐化しているように思えてならないのであるが、筆者だけ??
巻末には、「昨今は、歌手やお笑いタレントが適当にしゃべったものをゴースト・ライターが文章にまとめたものがエッセイとしてまかり通り、何十万部も売れているという考えられない時代。こんな時代だからこそ、変なの書けないぞ、という気がよけいにした」というのだが、この本が一番「変なの」だ。
くれぐれも買うなよ。

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