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撲滅・検討の如何を考察、問題を提起
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エレ糞の世界は、無駄に娯楽性を意識しているきらいがある。

所謂、「楽しさ」を世間に主張することで、エレ糞の素晴らしさを伝えた気になっているのであろう。

そんな小手先の振る舞いをもって世間の評価を変えられるわけがない。
まして、ヤマハ外の、モノホンの音楽家達のエレ糞に対する偏見を撤廃できるわけがない。

当該音楽家達にとっては、第一に音楽性を重要視することであろう。
小手先の娯楽性に重点を置いて世間を楽しませている気になっているエレ糞の世界を目にすれば、その短絡的思考に絶望し、偏見は益々酷くなるばかり。

この乖離を解決できない、気づけないバカの集まりがヤマハ・エレ糞の世界と言うわけである。



エレ糞は、何をトチ狂ったか、アイドルなんて概念を入れ始めた。

その気色の悪いアイドルの頂点が、茲にあげたあんどーである。
渾名は「よっくん」。もうこれからして気色悪い。

ヤマハ関係者は、揃いも揃って「よっくーん」と声をかけるのだ。
その気色悪さはもうたまったものではない。「よっくん」と呼ばせるあんどーは勿論どうかしており、たたきのめしてやりたいが、「よっくん」と呼んでいい気になっているヤマハ関係者の神経はもっと理解できない。


関係者は、「よっくん」という渾名を広めれば、エレ糞の世界に楽しい息吹が訪れ、もっとエレ糞愛好者が増え、ひいてはエレ糞の普及につながると本気で思っているのだろうか。
勘違いもはなはだしい。エレ糞が外の世界に認めてもらえないのは、貴様達のそうした独特のノリにある。見せ掛けの娯楽性でごまかさんとする姿勢に途方もない違和感を感じて益々エレ糞に偏見を抱いてしまうのである。

ファンサイトなど、まるで「肉親?」と突っ込みたくなるほどに愛情に溢れており、気色悪いことこの上ない。


このあんどーのライブの気色悪さといったらたまったものではない。思い出すだけで吐き気を催す。

いきなり「星の王子様」の振り付けを強要させるのだ。
勿論、客相手に「さあ!やれ!!」とは強要しまい。

やらせる前に、「茲はこのように手首を振ってぇ」といった具合にあれこれ丁寧に振り付けを教え、「さあ!一緒に踊りましょう」と強要するのだ。

喋り方が本当に気持ち悪い。
いわゆる「おネェ言葉」、もっと言えば「オカマ言葉」といった感じで、完全にヤマハ関係者に媚を売っているかのような口調で全く聞いていられない。


「嫌ならやらねばよいだけでは?」と(普通の神経の)読者は疑問を抱こう。
それが許されないのがヤマハの世界である。

全員があんどーの指示に遵い、「星の王子様」の振り付けを行っているのだ。

前から後ろまで全員が行っているのだ。何の疑問ももっておらず、「エレ糞の楽しさを伝えたい」という気色の悪い意志さえあるような様子であった。

ここまで全員があんどーの指示に遵うと、やらないわけにゆかない。
やらないと、周りの客には絶対に白い目線で見られ、明日から全員を敵に廻すことになりかねない。


筆者は結局どうしたか。
勿論!
始終指示には遵ってやらなかった!

しきりに「さあ、皆さん!『星の王子様』の振り付けをしましょう」としつこく迫ってくるので、筆者の脳にあるフィルターを通じ、「絶対(振り付けを)やるな!」と解釈したまでのことである。



このような勘違いのエンターテイメントがはびこる原因は、以下に起因しまいか。

エレ糞ライブは、勉強会と化すとよく言われる。
テープレコーダーを持参し、録音して勉強するための場と化していると言うのだ。
あれこれエフェクトのかけ具合やら、レジストの組み方に神経が行過ぎて、肝心の音楽を全然楽しんでくれない、と。

ヤマハ関係者、殊にあんどーファンの面々は、そうしたエレ糞ライブ独特のいわば堅苦しい雰囲気、勉強会がごとき雰囲気を撤廃している気になっているというわけだ。

「星の王子様」をあんどーの指示に遵い、一緒に(輪になって)踊りあうというのは、精一杯勉強会の雰囲気を撤廃している気になっているのだ。

ヤマハにとっては、ヤマハの脳のフィルターを通すと、あんどーのそうした言動や自分達のやっているふるまいは、気色悪いことどころか、良いことになるというわけだ。

そうした宗教的雰囲気、見せかけの娯楽性に疑問を感じ、始終拒絶反応を起こしっぱなしの筆者は「勉強気分が抜け切れていない!」と、除(の)け者扱いに、村八分(実質的には村九分;あんどーに拒絶反応を起こしている者は筆者一人なのであるから)の扱いにせられるというわけである。


一般の目から観て、関係者外の目から観てあんどーのふるまいは、「星の王子様」の振り付けを強要する姿は観ていて心地よいものであろうか。
あんどーの指示に遵って笑顔になって振り付けをやることは、勉強会を思わせる堅苦しい、無機的な雰囲気を撤廃するための糸口になりえようか。

どう考えても「外の世界との乖離を酷からしめるだけ」に果てるように思えて仕方ないし、そう考えるのが本来の在り方に思うわけであるが、自身の意見に酔いしれすぎていようか。


このような見せ掛けの娯楽は、「音楽を楽しむ」という姿勢からかけ離れては居まいか。
「星の王子様」の振り付けに夢中になり、「音楽を楽しむ」場から、「振り付けを楽しむ」場になっていなかろうかと疑問を抱くわけだ。

ヤマハ関係者は、「堅苦しさを撤廃している!」と大いに意義を感ずるのであろうが、筆者は、そうした堅苦しい雰囲気から逃避しているだけに過ぎないように思えて仕方ない。

あんどーとその取り巻きがやっていることは、単なる現実逃避と物申したい。

振り付けに夢中になり、肝心の音楽など全然楽しんでは居なかろうか。

実際、そのテーマみたいな曲はかなり安っぽく、明らかにどこかで聴いたことのあるようなもので、本職たる音楽活動を軽蔑しているように思える。


あんどーの音楽は、何だか悪い意味の没個性で、「あんどーならでは」というのが感ぜられない。
再現名人という感じで、残念ながら、外の世界ではまず通用しまい。

ヤマハ在籍時代と変わらず、「星の王子様」の振り付けを強要し、そのノリに耐え切れず観客が次々と会場を立ち去り、呆然としている姿が目に浮かんできて大失笑ものだ。


「ルックス人気」という見解があるが、これのどこに格好良さがあるのだろうか。
喋くりはオカマみたいで媚を売っているのがまるわかりの気色悪いもので聴いていられないし、一々星の王子様を強要する。顔もキャラクターも丸で魅力が感ぜられない。


なぜ、エレ糞コンサートは、ヤマハ関係者のみのコンサートとなり、テープレコーダー等を持参して勉強する場と化してしまうのか。純粋に音楽を楽しめないのか。

純粋に音楽を楽しめないつくりになっているから純粋に音楽を楽しめないのである。

エレ糞は、特に現在に於いては明らかに生楽器の再現に固執しているような雰囲気があり、再現でないと使えないみずぼらしいつくりになっている。
エレ糞には、エレ糞ならではの楽しみ方が味わえない。

エレ糞のオリジナリティは、再現することと化してはいまいか。
よく、エレ糞にはアイデンティティというものがないと批判せられるが、それは大間違い。
エレ糞には予めアイデンティティというものは確立せられている。
それは何か。

生楽器の再現である。

観客が、エフェクトのかけ方やレジストの組み合わせ等に夢中になるのは、エレ糞がそのような楽しみ方を味わわせるつくりになっているからである。

テープレコーダーを持参し、録音でもして2回、3回と聴かないと楽しめないからどれもこれもテープレコーダーを持参して録音してゆくわけである。


観客達は、ヤマハ関係者、ひいてはエレ糞ユーザーの面々である。

楽器を使いこなしている者からすれば、エレ糞のアイデンティティに夢中になるのは仕方ないことであり、否定するのはおかしい。


演劇通の者が寄り添えば、演劇全体のストーリーよりもキャストの演技や演出に固執し、
「あの人の演技は素晴らしい。見習いたい」ともなろう。玄人筋が寄り添えば、玄人にしかわからない演出や演技の素晴らしさ、からくりが見えてこよう。

NHK-BS等にて行われている黒澤映画特集の感想など、殆どストーリーそのものよりも、キャストの演技力や演出の妙に目が言ってしまっている状態ではあるまいか。
視聴者は、「堅苦しい!」「勉強会みたい!」といって拒絶反応を起こそうか。
「流石玄人の視点は違う!」という反応をするはずだ。

玄人筋が寄り添えば、そのような勉強会が如き雰囲気になるのは仕方ない。

エレ糞のライブは、そうした玄人筋の観客ばかりが集まるため、勉強会の雰囲気になるのは当然のことであり、否定するのは不適切なのである。このことをヤマハ関係者はどうもわかっていないように思える。「玄人の視点」というものを否定しているのだ。

当然の振る舞いを否定し、娯楽性を高めんとして益々外の世界の者が近づけない雰囲気になっているというのが現状ではなかろうか。


そんなに勉強会の雰囲気を取り崩したいのであれば、ヤマハはもっと外のライブ会場にてエレ糞コンサートの機会を提供し、一般の人たちが気軽に参加できるように広報にも努めるべきである。

ヤマハは、なんだかんだ言って結局ヤマハ関係者にしか知りえない雑誌にコンサート情報を掲載するにとどまっているではないか。

幾ら関係者が娯楽性を高めんとして「星の王子様」を輪になって踊ろうが勉強会の雰囲気は取り崩せない。観客がヤマハ関係者ばかりというのがそもそもおかしい。

勉強する機会を失わせては、ヤマハ関係者の音楽性は低まるばかりである。
「星の王子様」を強要すれば何の疑問ももたずに踊ってくれ、筆者のようなアンチには鋭意除け者にしてくれる取り巻きに囲まれては、あんどーも知らず知らずのうちに音楽能力の向上を怠ることであろう。そうしてエレ糞プレイヤーは益々外の世界に通用しない存在となる。


ヤマハ関係者がいい気になって行っている娯楽性の強化は、単なる現実逃避であり、自分達の音楽性を自らの手を以て貶めているに過ぎないことに、今からでも遅くはないから早急に気づくべきである。



エレ糞プレイヤーのアイドル化は、「星の王子様」の強要にとどまらない。
このあんどーのバカ、松田昌のCD「蜃気楼」(昭和63年)を初めて耳にしたのが小学生の頃だと言うのだ。筆者は愕然とした。

貴様が「蜃気楼」を初めて耳にしたのは「中学2年生」の頃だろ。

をいをい、「蜃気楼」の原曲は昭和54年だから、あんどーは小学校時代に原曲の方を聴いたのではという突っ込みは禁物。

「サイレント・ダイアローグ」の頃はあんどーは園児だ。


何とこのバカ、
年齢詐称をしていあがるのだ。
平成9年にグランプリを獲得した折は、「23歳」と言っていたはずでは??


なんちゃって芸能人気取りと言うわけか。

こんな馬鹿げた行為が突っ込まれもせずにまかりとおるエレ糞の世界にあっては、外の世界に相手にせられないのも当然である。



娯楽性を本気で高めたいと思っているならば、あんどーは、喋くりの技術をもっと磨くべきである。
このバカ、振り返ってみるに、MCの時間にて「星の王子様」の強要しかしていないではあるまいか。
それを除けば、何も話せない単細胞なのである。

トークは門外漢で、その分際で「星の王子様」は強要する有様。
「みんな『星の王子様』に憧れているわけじゃあないんだよ?!」と大いに物申したい。


こんな気色の悪いライブ、二度と御免であるし、
有無を言わない、言わしめない取り巻きのもと、「永久に『星の王子様』の振り付けをしていい気になっておけば??」といったところか。

これがトッププレイヤーの位置に君臨するとは、まったく世も末、エレ糞も末だ。
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エレ糞の勘違いの娯楽化には呆れる他ない。

エレ糞は、女性を陥れる娯楽化に固執してきた感があるが、
どうも男性をも陥れる娯楽戦略に乗り出してきた感がある。

その先頭をひた走る勘違いエセプレイヤーが、こちら


まったく、これのどこに美人たる要素があるのかさっぱりわからない。

「不細工」と少しでものたまうと、間違いなくヤマハ関係者からとばっちりを喰らう
「本人」ではなく、「ヤマハ関係者」というのがミソだ。


確かに、筆者のやっていることは、自分の意見を押し付けているともとらえかねまい。
その意味では、この記事は不適切であろう。

「人それぞれだ!!」という突込みがきそう。

そう考える者に是非とも考えていただきたい。
「感じ方が人それぞれ」というならば、筆者の「不細工だ!」という見解も肯定せられねばおかしくはあるまいか。

「美人だ!」として筆者の見解を否定する者は、十分に自分の意見を押し付けては居まいか。

こちらの考えも考慮せよというのだ。
「人それぞれ」というのは、一見正論に思えて、結局は自分の意見を肯定させるためのごまかし文句に過ぎない。最も用いてはならない不適切表現であり、これこそ放送禁止用語に指定すべきだ。


以下、茲に採り上げる人物を「ブス」と記してゆく。
このブスは間違いなく然り。「美人」なんて賞してくれるのはヤマハ関係者だけであろう。
こんなブスの写真集を「ほしい」とのたまうのだ。なんとおぞましき世界たることか。


実際、平成14年のこと、EL900Bの発売記念ポスターにこのブスの写真が制作せられたわけであるが、糞婆に見えて仕方なかった。
900Bのポスター、撮り方下手すぎだろ。
確かにこのブスはブスだが、そのブスさ加減が目立ちすぎていて品も糞もなかった。

これが、「あなたの考えはおかしい!」と揶揄せられる有様。
ひどくなると、「そんな強がりを言って。素直にならなきゃ」と説教する者まで出る始末。


筆者は、こんなブスの写真集や900Bのポスターを頂戴するくらいならば、江頭2:50と寺田体育の日のセックスビデオ20時間分を頂戴したい。


どうしてヤマハこのブスを「美人プレイヤー」として売り出すのだろうか。
森脇顔もそうであるが、ヤマハは余りに世間の感覚とずれこんではいまいか。
森脇顔の場合、これ以前にいい顔の男性プレイヤーが居なかったのはある種的を得ているような気がしなくもないが、女性プレイヤーの場合、幾らでもこの程度の顔はあったはずであり、今でもごろごろ転がっているはず。わざわざこのブスを「美人プレイヤー」として売り出す意義はあるまい。
男性のヤマハ関係者は、なぜか「美人だ!」「写真集がほしい!」と真剣にのたまうのだ。
よほど女性に恵まれていなかったというのか。

良い年齢をした中年男性に対し、ブスはHNやあだ名などでため口で、すっかりスター気取り。



思えば、「美人プレイヤー」という肩書きほどくだらなく、的の外れたものはない。
この手の肩書きを有する者は100%といっていいくらいに不細工である。むしろ、当該肩書きを有していない女性の方が何倍も美人であり、時々ものすごく歯がゆい思いに駆られる。
本当の美人は、雲の上なのだ。
茲に採り上げるブスが、調子に乗って距離を縮めんとため口にて接してきて男性達は簡単に騙される。

「美人プレイヤー」の草分けといえば太田惠子が然り。
世の男性、というかヤマハ関係の男性達は決まって「美人プレイヤー」「田中美佐子似」と崇め奉る有様。

これほどの不細工は居ませんよあーた。
太田恵子は、写真写りでだいぶ得をしている。鈴木その子の先駆けだ。撮り方によっては80代のくそばばあに写っているときもある。よくみると、小じわがひどく、とても美人プレイヤーと呼べるものではない。
こんな似非美人によくぞ「美人プレイヤー」などと崇め奉られたものだ。こんな不細工に騙されてきたというのだから世も末だ。
これでは、エレ糞が世に認められなくて当然であろう。


美人プレイヤーを名乗る似非プレイヤーに一言物申す。
美人を名乗る暇があるなら、演奏・音楽を何とかせよ。

この太田惠子の、なんだ、LP「恵み色のメッセージ」??!!

これ、しょーもないねえ。

嗚呼、つまんねぇつまんねぇ!!

恵み色の部分、マジックで塗りつぶして黒色にしてやったってんだよ!


何が恵み色だってんだよこの野郎!!
ざけんじゃねえよ、即効ブックオフ逝き決定だよこの野郎!!

「黒色のメッセージなんて受け取れません」って処分料75円取られちまったよこん畜生!!



「恵み色のメッセージ」0点!!!!!
もしも道端でコイツ見かけたら、バキュームカー使って思い切り糞の雨をかけてやれよ!!






本題に戻る。
茲に採り上げるブスであるが、これがまた本当にがさつ。
音色がとにかく硬すぎ。
あの、なんだ、大学時代の大失恋を描いた曲「エレジー?」

大爆笑したね!あっぱれだ!
悲しみどころか、ものすごいパワーが溢れる名作だ。
特撮の主題歌として歌詞付きで送ってやればいいんじゃねえか?

ギターが硬すぎて悲しみが少しも伝わってこないし、ものすごくストレスがたまる。
眠気が襲ってこない代わりに、ストレスがたちこめる。

あのギターは、テクニック自慢しているようにしか思えない。

そもそも、失恋を題材にした曲をコンクールの出場曲にするっておかしくなかろうか。
それで賞を獲得してんだろ?


大失恋したらとてもそのような気力は生まれてこないと思うんですがねぇ。

我々一般市民、筆者がごとき参加賞どまりには到底理解できない。
大失恋をネタに作曲し、それで賞を獲得できたのならば、大いに幸せであり、悲しむことも何もあるまい。そのがさつな神経に拍手喝采するのみ。


このブスの気に入らないところ。
お笑い好きを気取るところ。

関西出身者だからということで、無理してお笑い好きを気取るのだ。不自然この上ないし、ヤマハに無理してやらされているように思えてならない。

で、好きな笑いは「吉本新喜劇」。
この時点で凄まじくストレスがたまる。関西人は吉本新喜劇好きのような発言をし、どんどん関西、ひいては大阪というものに対して偏見を生ませんとする。


「吉本新喜劇」って、あーた、そんなもの好きなのはお笑い好きとは言わねーよ。
あれって思考回路のとまった爺婆のためのおはやしみたいなものだ。
別に「だから駄目」と言うつもりはないが、いかにも新喜劇をわかっているようなフリをせられても戸惑うばかり。


吉本新喜劇は関西よりも東京人のほうに好かれているように思える。
東京人が来阪の折、まず注目する笑いは吉本新喜劇だからだ。
本場の関西はむしろ吉本新喜劇に対する注目度は低い。筆者だけやもしれないが。


本当にお笑い好きならば、バカさんの1パターンの笑い話を何とかせよというのだ。
その笑い話をいつまでも笑えるのは、お笑いが好きではない証拠。単に1パターンを見抜けない、1パターンを1パターンと思わない、思考回路の停止している証である。

エレ糞プレイヤーは、概してMC大好きの感がある。
正確に言えば、MCをやらねばならないという風潮がはびこっているように思える。

本来ならば、MCなしでゆきたいのに、「勉強会の雰囲気をなくさねば!」という意思のもと、MCをひたすらしたがるコンサートになってしまうのだ。

関西人だからということで、無理してお笑い好きのキャラクターを演じ、ヤマハ関係者にしか通用しない異様な空気をつくりあげてゆく。

そうした体質を生ませた張本人はバカさんあたりからであるのは容易に想像が付く。


関西人は、お笑い好きか。
筆者は、むしろ関西人はお笑いは嫌いであるように思う。
お笑いが好きならば、上方落語の衰退はどうしたことかとなってしまう。

このブスは、「関西人が二人喋ると漫才になる」と言うのだが、
漫才にはなりません!


どうしたらこのような発想が出てくるのか仕方ない。
関西人が二人喋っても単なる立ち話。漫才ではないし、実際、漫才のテンポは出せていない。
西川きよしと太平サブローの二人が、そのような企画をし、関西人二人に漫才をさせていたが、まったくかみ合っていなかった。時折太平サブローが突っ込みを入れるのだが、益々面白みがなくなっていた。もしも本当に関西人二人が喋って漫才になるのならば、漫才師の存在は必要あるまい。
つまらない偏見を作成しないでいただきたい。




もう一つ気に入らないのは、
ドリフ好きを気取るところ。

「昔から『全員集合』を欠かさず見ていました」というのだが、こちらのプロフィールには、「昭和56年生まれ」とある。

どうやって全員集合を見ていたというのだろうか。貴様は「天才バカボン」のハジメちゃんだったというのか。なんと嫌味なこと。


実際、全員集合のことなどほとんど記憶にないはずなのに、全員集合の思い出話を語られてもしらけるのみ。
「ピンクパンサー」のテーマを出しては、「ドリフを思い浮かべる」というのだが、何ともいえないむずがゆさが走って仕方ない。素直に楽しめない。



このブス、年齢詐称をしている。
3歳下に公言しているのだ。あふぉかというのである。
その証拠に、その記事のプロフィールには、かく記されている。曰く、
「平成11年大学在学中に『インターナショナルエレクトーンコンクールポピュラー部門』第2位を受賞。翌年プレイヤーとしてデビュー」とあるのだが、

昭和56年生まれがどうやって平成11年当時に大学へ在学するっていうんだよ?!

貴様は特待生か。「少女に何が起こったか」(TBS)か。
「薄汚ねぇシンデレラ」か。←前半部分は合っていますがねぇ・・・



で、その記事であるが、
「エレクトーンは実は出力が2系統しかない。せっかく多彩な音が出るのに録音機材に向かってはふたつの“出口”しかないということだ。それで録音しては音に広がりがなくなってしまう。エレクトーン演奏の録音物が少ないのは、そんなことも理由になっている。

そこで考えたのは、使う音色の数だけバラバラに録音する方法だ。単純にいうなら1曲の中で10の音色を使う場合は、1曲を作り上げるのに10回録音を重ねる。同時に演奏できるのがエレクトーンのすごさなのだから、なんだか倒錯した話だが、ともかくエレクトーンにこだわった結果、ほかに選択肢はなかった。」


ここまでするくらいならば普通に他楽器を用いてレコーディングに励む方が楽だし、正当だと思うんですがねぇ。


「エレクトーンにこだわる」って、今の捨て字亜はAWM音源が主流で、ほとんど物まね状態の音で、エレクトーン独自の音色ではなく、そこまでする意義が感ぜられない。


というわけで、安易に芸能人を気取るのはやめてくださいとお願いしたところで、
首をカット、カット。
・・・

こっちが訊きてぇよ。

なにができんだよまったく。




そんな意味不明の売り方をしているいとまあるならば、
貴様の講座に出席している講師が、開講中、突然携帯が鳴ったのを「どうぞ、どうぞ」と媚びへつらって通話を許可するの、やめなさい。

真剣に、というか、電話に出ていない連中が迷惑だろうが。
エレ糞は、来年にて生誕50周年を迎えるという。
何とも盛り上がりに大いに欠ける50周年になりそうな気配で、節目でもあるはずの年だというのに、悲しい限りである。

月刊エレクトーン(以下、月エレ)では、平成20年2月号より、古参の所謂大御所を所かまわずかき集め、創世記の思い出を語らせている。
全く進歩の無い祝い方であるが、中には川村江一・江川マスミ(芥川 眞澄、芥川也寸志の第3夫人)といった、今は余りお目にかかれない面子も登場する。


第一弾が、道志郎と齋藤瑛美で、こちらは、二人による対談形式となった。
基本的に、筆者はこの2名に対し、余り存在意義を感じない(というよりも、そもそも余り好きではない)。名前に好感がもてない。瑛美と書いて「ひでみ」と読ませんとするなど、感覚が悪いにも程がある。
アレンジにしても、日野正雄師や田代雅士師のほうがまだ面白みを感ずる。
「そこに居るだけでありがたい存在」という声がある。篠沢秀夫教授にはそれを感ずるが、この2名には筆者は特にそうしたありがたみを感じない。
やはり「面白いアレンジ」と考えるところの上記2名の方にまだそうしたありがたみを感ずる。


道志郎はエレ糞の世界に於いて最長老とせられる。別にそれほど驚愕すべきことでもない。
昭和2年生まれ、やうやく80歳に達したという若さである。
嘗ての、江戸落語の長老たる6代目三遊亭圓生、8代目林家正蔵(後の彦六)、往時の俳優界の名優、志村喬や宮口精二らと比較するに、親子ほどの年の差がある。
筆者の挙げる2名となると、更に若手となる。


内容は、「エレクトーンの歴史」(平成6年8月、尚美学園刊)とほぼ同一で、何の斬新さも無い。
中には為になる箇所もないわけではないが、やはり昔からの持論そのままであり、何の進歩も無く、全く意義の無いコンテンツになってしまっている。

「今のエレクトーンは、機能に頼りすぎ」
「機能が多すぎてやることがわからない」
「オルガントーンをもっと大切に扱え」
などなど。



そんな中、激しく憎らしい発言を見つけた。それが茲に紹介する、齋藤瑛美翁の戯言である。曰く、

「今のエレクトーンは、色々な音色が予め用意せられているからか、エレクトーンの子は行儀が悪い!
『蓋も閉めないのか?!』と学生を叱っている。
『弾かせて頂きます』という楽器に対する謙虚さがないと。造音の手間をかけないせいですかね」
と。

更に、当該翁、かく発言し続ける。曰く、

「今のエレクトーンはメカに助けられている気がする。
もっと筋肉を動かし、汗をかいて音楽やらないと、エレクトーンは生き残っていけない気がする」
と。



よくぞ平気な面を提げて、寧ろ大御所気取りで好き勝手に貶してくれるものである。時代錯誤も大概にせよと物申したい。
「エレクトーンの子は行儀が悪い!」のところ、わざわざ感嘆符を用いていることに、筆者は更なる憤りの念を覚える。

「弾かせて頂きます」なんて、どこの馬鹿がそんな愚行をとろうか。どうして一々「弾かせて頂きます」と思わねばならないのか。
一々お辞儀をせねばならないのか。
全く余りの馬鹿馬鹿しさに反吐が出放題だ。こんな機械にお辞儀をしていたら、周りから「現実との区別がついていない!」と安田病院逝きではあるまいか。大御所気取りが、何と言う勘違いの感覚を教え込む。

そんなに馬鹿らしく思うならば、一々こんなブログに物申すなよと思われようが、余りの時代錯誤も甚だしい言動に腹立たしさを覚えると共に、一抹の虚しさを感じたため、こちら「嫌い」のカテゴリにて大いに物申させていただくと言うわけである。
実際、この発言を真に受けて手持ちのエレ糞にお辞儀をするようになったという馬鹿・ユーザーが存在するのだ。
そうした態度をとっていることをブログにて一々自慢する始末。あなくわばらくわばら。



何が腹立たしいかと言うと、エレクトーンの子が行儀が悪いとしているところ。
その原因として、「色々な音色が予め用意せられている」ことを挙げている。これがまずおかしい

色々な音色が予め用意せられていることが、どうして行儀が悪いことの原因につながるのだろうか。

行儀を悪くさせているのは、間違った娯楽性を行わせているヤマハであり、アイドル気取りのプレイヤーであろう。
コンサートにおいて、関係者全員が「星の王子様」の振り付けを行っていれば、行儀は悪くなろう。

困り者なのが、近年、ふって沸いて出てきた「うにとろプロジェクト」。
富岡ヤスヤが率いている、所謂ティーンズを所かまわずかき集めた丸で方針・信条の感ぜられない集団だ。
このうにとろとやらの面子の評判は頗る悪いと聞く。
「プロのプレイヤーに認められた」という奢り高ぶりがあるからか、態度は果てしなく高慢で、ユーラシア大陸よりも大きく、裏方のスタッフに対する接し方は誰にも止められないほどに劣悪だと言う。

演奏能力?あるわけがない。このうにとろは、「下手糞だけれども一所懸命やっている」ことを売りにしている。
富岡ヤスヤによると、うにとろの重要なるポイントは、「一所懸命さ」にあるという。能力よりもまず一所懸命さにあるとし、この一所懸命さがエレ糞の世界の活力の向上につながるのではと考えているようである。

この「一所懸命さ」というのは非常に曲者。こんなものでプロが気取れるならばプロのプレイヤーは氾濫してそれこそヤマハの世界はどこの音楽家たちからも相手にせられなくなろう。一所懸命さを駆使してやってゆけるのはグレード6級まで。6級と言うと、がんばれば誰でもとれる、それこそ2週間の取得も夢ではない、丸で価値の無いものだ。

情熱なんて、聞こえはよいが、演技次第でどうにでもなる。情熱を、貢献如何の基準にしてしまうと、そのうち、見境がつかなくなり、取り返しのつかない事態に陥ろう。


うにとろの勘違い十代集団は、「私たちは下手糞ながらも誰よりも情熱を絶やしていない!エレ糞の世界の発展のため、誰よりも誠意を尽くしている!」と考え、ついつい裏方のスタッフに対して横柄になってしまうのであろう。
これでは、いつまでも音楽界から「音楽だ!楽器だ!」として認められることはなかろうし、発展するとしても一時的なものにしかならない。

エレ糞の場合、世間に認められていないことが災いし、「我々は下手糞ながらも世間にエレクトーンの素晴らしさを広めんと必死なんだ!」という傲慢なる使命感が宿ってしまう。


うにとろの香具師たちは全くの度素人。JOC出身と言うこともないし、コンクール受賞経歴すらない。
下手糞なのが第一条件という風潮がある。風潮と言うよりは、規則と言うべきやも知れない。
うにとろで礼儀作法等が教え込まれればよいのであろうが、残念ながら、そこで得るものはというと、下手糞でも情熱ありげな態度をとれば、簡単に舞台に出られるんだ、ヤマハの世界はそれほどまでに甘っちょろいんだという非常に悪い意味での「遊び心」が得られることになる。

そうした面子が、貴様の教鞭の取る所の徳島文理大に流れ込んで居るのではなかろうか。
いきなり「行儀が悪い!」などと、全国がそうであるかのような発言をせられて不愉快至極だ。
全国に刊行せられることになる誌面上にてそのような発言しているところから、全国がそうであると思い込まれておいでであろう。
アフォかというのだ。



瑛美翁、「エレクトーンの子は行儀が悪い!」と、如何にもエレクトーン使用者の行儀がなっていないような発言をしている。
エレクトーンの使用者に偉そうに物申す前に、貴様の身近にあるエレクトーン関係者の行儀とやらを直さねばなるまいか


ヤマハ音楽教室の講師陣は、非常に口喧しく、仕事がしにくいと技術屋は口をそろえて言う。
先述の岩内佐織師は、華奢なる体型にも関わらず、荷物運びや機材準備の手伝いには事欠かないという。
中途半端な位置づけの講師陣が最も厄介とのこと。


うにとろは礼儀作法がまったくといってよいほどに整っていないと記した。
JOC出身者にもそのような傾向はありやしまいか。
ここの面子は、子供時代からプロの位置にある。
基本的に、子役出身者と言うのは、プライドがWTC並みに高いと言われる(吉田清、平成13年の著書)。
子供時代から、裏方の面倒が丁重に入ろう。子供だからと、裏方は人一倍甘くなろう。
子供時代に丁重なるスタッフの面倒が当たり前のごとく入る。子供時代に植えつけられたイメージと言うのは非常に心の奥底に浸透している点を前述したことと思う。
大人になり、裏方のスタッフの対応が少しでもぞんざいになるとそれだけでご立腹状態になろう。
芸の世界に於いては、芸暦順に上下関係が決まることになる。子供時代からプロとして活躍してきた香具師たちは、芸歴が古いばかりに、年齢で言えば父親ほどの齢に当たるものに対してもため口で、非常に尊大なる態度をとってしまいがち。
外の世界からすれば、当該尊大なる態度をとっているプレイヤーの感覚にこの上ない疑問を覚えることになろう。
ヤマハの世界に於いては、当該プレイヤーは古い芸歴であるばかりに、正しい態度となってしまう。

もちろん、人は十人十色である。上述の岩内師もJOCだ。例外はあるにせよ、J専出身にて、そのままの形でヤマハに居残り、いい気になって芸歴の古さを武器に尊大なる態度をとっていい気分になっている風潮はなかろうか。1級取得者となると、以下略だ。


デモ上がりの勘違い森脇顔のような系統も然り。成金状態で、人気も高い、ヤマハから「プレイヤーと認められた」という誇りもある。富岡ヤスヤ・鷹野雅史とは一味違うという奢りもある。人気も尋常でないくらいに高い。態度は当然悪くなる。寧ろ、これほどの人気者になると、態度の悪いことがある種のステータスとなってしまう。
どんなに態度が悪くても、憧れのプレイヤーのためならと、遠方から多くの者がレッスンに詰め掛け、コンサートや公開講座を追いかける。

音楽家、芸術家というべきか、かかる人々は類い稀なる才能、感覚を持ち合わせているばかりに普通の接し方ができない。クラッシックの音楽家達の生涯を紐解くに、大抵そのような内容になっている。態度が悪いのは我慢し、そこから究極のセンス、人気者の才能を学び取らねばならないと必死になろう。



態度の悪い香具師たちは、使用者に限らず、否、むしろ、プロの現場にて活躍する香具師たちにこそ警告すべきものではあるまいか。

我々一般の使用者というのは、どうしても上を参考にしてしまいがち。当然であろう。トップのことを信用するものであり、一々批判能力など有していられない。生計を賭けた勉強という形で演っているのではなく、娯楽気分であり、そこまで真剣に善悪を判断していられない。

大人ならば多少の批判能力は持ち合わせられても、幼少年となると批判能力などとても持ち合わせていられず、トップの言動をほぼそのままの形で信用してしまう。結果的に、態度の悪い一面を「格好良い」と勘違いし、そのまま徳島文理大に流れ込んでいると言う構図はなかろうか。

瑛美翁のレッスンを受けに大学に通う者は、プロ志望の者も多く存在しよう。森脇顔の態度の悪さを「格好良い態度」と勘違いしたままに入学してきたのであれば、行儀が悪くて当然と言えよう。



裏方のスタッフと言うのは、コンサートを行うにあたり、不可欠の存在だ。もっと謙虚に扱わねばならない。それが芸歴が古いからだの、ヤマハに「プレイヤーと認められた」からだの、人気が絶大だからだの、スタッフに対して尊大なる態度を以て接する理由はどこにも無い。
外の世界では、音楽家達は非常に裏方のスタッフを大事にしている。見えないところで非常に謙虚に接している一面がある。


思えばバカさんも頗る行儀が悪く、よくよく考察してゆくに、人間的魅力のかけらもない。人前では、人生論(殊に母親への愛)や神道なんてものをさも人一倍理解しているように語り、庶民派を気取る。然る中、母親の喪中の手紙の裏に結婚報告をする有様。関係者はそれで「おめでとう」「お幸せに」と浮かれる有様。
こちらが疑問を呈すると「あなたは感覚が狭い」「冗談がわかっていない」と愚弄三昧。

こんなことで、どうやってエレ糞に関わる香具師たちの行儀を正せと言うのか。



一般の使用者に物申す前に、プロ達の、殊に勘違いのプロ達の行儀を何とかせよというのだ。
もちろん、誌面上にて格好つけて物申すのではなく、人の目の行き届かないところで勝手に物申しておけと言うのだ。
そうしてから、お上(カミ)の行儀作法が完璧に整い、その上で我々使用者に物申したいことがあれば大いに物申せと言うのだ。それならばまだ茲まで瑛美翁に憎悪感を抱くことは無い。

勘違いが酷すぎるのだ。プロ達になると、途端に物申せないのか。物申すと貴様の立場はなくなるのか。貴様の権力はその程度の矮小なるもの


富岡ヤスヤにしても、エレクトーンを使って拳銃の音を出すだの、タイマー代わりにするだの、「100万円もするのだからそれくらいのことをしなきゃ」と言ってエレ糞を玩具扱いする有様。そうした態度がそもそも「行儀が悪い!」とは言えまいか。トップの、プロのかかる勘違いの言動を力尽くででも撤廃しないことには、瑛美翁のいうところの「行儀」には永久に改善の兆しが見られまい。

「100万円もするのだから云々」と言うのならば、そうした余計な機能を無くし、10万円に下げてみせるのが本来のあり方ではなかろうか

使用者と言うのは、タイマー代わりに用いんとして100万円などはたかない。タイマーにはちゃんとしたタイマーを用いる。用品店に赴くと、無料でタイマーを差し出してくれるところもある。
エレ糞には音楽を求めて購入するのだ。


瑛美翁は、「蓋も閉めないのか」と学生を叱ると言う。
蓋を閉めないのは、次のレッスンの子が控えているから閉めないのだ。今のエレ糞には蓋なんてないだろ。

捨て痔亜というのは、非常に曲者の一面がある。当初、可搬性を売りにしていた。歴代のエレ糞モデルの中で最も壊れやすくできているのだ。無闇に蓋を動かすと、エレ糞の寿命は端役尽きてしまうことになり、蓋の機能は瞬く間に消失してしまう。

当該学生は、行儀が悪いから蓋を閉めないのではない。捨て痔亜がどうしようもなく脆い設計のため、無闇に手が出せないのだ。
そのことをもっと考え、学生に物申す前にヤマハ音楽振興会に物申すべきであろう。何を考えているのだ、この翁は。


最も腹立たしく思う箇所は、題名にも挙げた箇所だ。
「弾かせて頂きますという謙虚さがないと」と当該翁はのたまい、その謙虚さに欠ける理由として、「造音の苦労を知らないこと」としている。


要するに、エレ糞に関わる香具師たちには謙虚さがないということか。
エレ糞の使用者には楽器に対する謙虚さが無い、エレ糞に対する思いやりがないということか。
造音の苦労を知らないのがいけないのか。

何と言う時代錯誤の感覚であろうか。未だにこんな感覚を引きずっている瑛美翁に筆者は大いなる憤りを感ずる。

エレ糞に対する謙虚さ、思いやりを失わせしめた者はどこのどいつだ。

ヤマハ関係者、ヤマハ音楽振興会ではなかろうが。



エレ糞は、一台買うのに最低100万円を要する。
初心者モデルだと、安価で買えるのであるが、取扱店はしきりに上位モデルを勧めてくる。
少しでもグレードを進級させると、上位モデルでないと絶対に学習できないシステムになっている。

楽譜を出版する側も、楽曲の作編曲を担当する者も、上位機種でないと明らかに弾きこなせない楽曲を差し出してくる。
その典型例がバカさん。
これなんか、EL900のホリゾンタルタッチを駆使しないことには絶対に弾きこなせないような曲ばかり提供してきた。
ホリゾンタルの教則本を出し、大いにエレ糞の世界を沸かせた。

使用者側は、やはり上位機種の優位性を感じ取り、必然的にエレ糞の購入に最低100万円を費やすことになる。


エレ糞は、モデルチェンジが凄まじく早い。
FS/FX(以下「FX等」と称す)の時代になった昭和58年以降はそれは酷かった。

FX等の場合は、旧来のE型、D型で何とかごまかせる楽曲が多かったが、昭和62年、HS/HX(「以下「HS等」と称す)では、リズムパターンプログラム(RPP)が導入せられ、愈々購入しないことにはどうにもならなくなった。

その後、平成3年にはEL二桁モデルが登場。90は、125万円もの大金を費やさねばならなかった。
そのEL二桁シリーズは誠にタチの悪いモデルであり、HS等との互換性がまったく図られないものとなった。
その不便さは、今もなお尾を引いている状態である。
初期の頃は、EL二桁に関する楽曲に、余り良いものがなく、HS等を支持するものが多かった。
平成5年になると、そろそろ作編曲者がEL二桁に慣れてきたこともあり、HS等に陰りが見え始めた。HS等の放つ音色は、EL二桁と比較していかにも陳腐であった。

互換性が無く、折角HS等にはたいた大金も台無し。
丸々買い替えを行わねばならない事態となった。

その悪態は、平成10年にまた起こる。2月であったか、「起こらない」としてきたはずのモデルチェンジが行われた。
営業スタッフは、「起こらない」「起こりえない」と散々断言してきたモデルチェンジがだ。
EL3桁の登場である。EL二桁との互換性を重視したと言うが、基本的にバランスが異なり、EL二桁にて培ってきた好きな音色は台無しに。

互換性というと、一見ありがたく思うが、互換性を大事にしてきただけに、絶対に使わないプリセット音色が凄まじく増え、どれがどれだかさっぱりわからない状態になった。元は変わっていないのに、音色を増やしてしまい、一つ一つの音色は劣化してしまった。
正確に言うと、新たなる音色はそれなりに良くできているが、二桁から引き継いだ音は明らかに劣化している。新たなる音色を良い音色に聞かせるために、二桁から引き継いだ音色をわざと劣化させているのである。酷い話だ。
それならば互換性のありがたみが無い。


ホリゾンタルタッチと言う新たなる概念が導入せられ、ヤマハは「新たなる奏法を目指して」と大々的に張り切っていたが、それができるのは900以降の上位モデルだけだ。必然的に900を買わねばならない状況に陥る。

EL三桁は、モデルチェンジは起こりえず、マイナーチェンジの時代になると営業スタッフは大々的に宣言していた。

その6年後、平成16年、STEGEA(以下、「捨て痔亜」と称す)が登場。
「これからはマイナーチェンジの時代に」「買い替えの負担はかけさせません」と大々的に宣伝するヤマハ。
逆に言えば、「是まではフルモデルチェンジの時代」「買い替えの負担はかけさせます」。

HS等の時代に大問題になった互換性のなさ、買い替えの負担を使用者に強いることとなった。

EL三桁では、互換性というものが今一つぱっとしないモデルチェンジをさせた。
次の捨て痔亜では、フルモデルチェンジだ。当然音色は良くなっているものと期待するが、全く変わっていない。
この捨て痔亜の欠陥については後述したい。

茲では、瑛美翁ののたまうところの謙虚さの欠缺の原因について、筆者の考察するところ、思い当たる箇所を述べてみたく思う。

なぜ、エレ糞に対する謙虚さがなくなってしまうのか。
それは、モデルチェンジが凄まじく早く、愛着が沸く前に買い替えをせねばならないからである。

100万円もの大金をはたいて買ったエレ糞だ。本来ならば、どの楽器使用者よりも愛着が沸き、謙虚さは起こりうるはずなのだ。
それが、どうして謙虚さがどの楽器よりも欠如しているのか、もっと瑛美翁はその原因となるところを考察すべきであり、その謙虚さの欠缺と言う結果だけをみつめてあれこれ一般の使用者に無理難題を強いるべきではない


小熊達弥師は、自筆の研究論文「EL演奏表現に関する現状と諸考察」(平成6年発表)の中で、エレ糞の譜面の問題として、「原因としての音楽要素の把握」の欠缺を挙げている。
筆者に言わせると、原因としてのエレ糞使用者の謙虚さの欠缺の把握すら為し得ていないように思える。瑛美翁の発言を考察するに、結果としての謙虚さの欠缺をひたすら批難しているように思えるというわけだ。



100万円もするモデルを買ったは良いものの、4年、長くて6年・7年で買い換えねばならないものに対し、どうして愛着がもてようか。どうして謙虚さがもてようか。

たった数年しか使わないエレ糞に対して100万円もの大金をはたくのだ。エレ糞使用者からすれば、「自分は僅か数年の為に100万円もの大金をはたいているんだ!」と傲慢な姿勢にならざるを得ないのは当然であろう。どうして非難せられねばならないのだ。

一度エレ糞使用者がごとく、真面目にモデルチェンジに付き合えと物申したい。こんな異常なる商品のライフサイクルに付き合っていたのでは、謙虚さなんてとても有し得まい。僅か数年でおさらばするエレ糞に対し、わざわざ「弾かせて頂きます」なんて誰も思わない。
「どうせ数年でおさらばだ」とあきらめの姿勢、弛んだ心を以てエレ糞に臨んでいるのが実際のところと言えよう。

エレ糞の場合、グレード試験を受けるのに指定機種というものがある。大抵、というより、絶対にと言ってよいほどに上位機種が充てられる。
できる限り最新のモデルを使用させたがる試験構成になっている。旧来の機種を使い続けては居られない状況に陥ってしまうのだ。

EL以降になってから、譜面に付属する形でFDデータがある。EL3桁になってから、EL二桁のレジストデータは随分と劣化しているように聞こえるようになった。それだけEL3桁と言うのは素晴らしいモデルだからか。
否、EL3桁が素晴らしいのではなく、EL二桁のレジストを劣化せしめるのである。そうすることで、EL3桁の音色が他のどのモデルよりも如何に秀でているか、そのように魅せるのである。酷い話だ。
例を挙げると、バカさんのデータは、EL二桁にあった、アルバム「ストリングス・バラード」「オーロラに乗って」のデータはバランスが絶妙で単純ながらも良くできていたのに、「パーソナル 松田昌」のEL二桁のデータは、音色の出力がバカ大きく、バランスが酷いこと酷いこと。これではEL二桁を安心してはとても使えず、謙虚さなんて沸き得ない。

EL70というモデルがあった。ここの配布データは悲惨そのもの。
明らかに手抜きばかりのデータが提供せられていた。

EL90を買わせるためにこんなふざけたデータを配布しているとしか思えない出来であった。


エレ糞使用者は、他のどの楽器使用者よりも愛着があるはず。100万円と言う大金をエレ糞にはたくのだ。大事に使いたいという思いは誰よりもあるはず。エレ糞愛好者のブログを閲覧してみよ。エレ糞が買えた、上位モデルが買えたという喜びがどれだけ溢れ、大切に使いたいという思いがどれだけあることか。そうした愛着、謙虚さをつぶしているのはヤマハ音楽振興会だ。今正に貴様が取材を受けているところの馬鹿集団だ。
茲が無闇にモデルチェンジを行うものであるから愛着なんて消失するのだ。
次第に、エレ糞使用者は、「自分は僅か数年のために100万円もの大金をはたいているのだ」という怒りの姿勢になってしまい、瑛美翁の忌み嫌うところの所謂傲慢な姿勢のエレ糞使用者ができあがるのだ。
僅か数年しか寿命の無い高額なるエレ糞に対し、「弾かせて頂きます」という姿勢を有する、有さしめる方がどうかしている。


「弾かせて頂きます」という謙虚さが無いのは、貴様達プレイヤーではないのか。
外の世界に認めてもらえないので泣く泣くエレ糞に頼りっきり。本当はエレ糞が大嫌い。
どうしてエレ糞プレイヤーと言われる人々がヤマハ内部でしか評価せられないのか考えてみよ。良い音楽を提供しているならば、たとえ機械の上にて音楽を披露していても万人に認められて然るべし。エレ糞関係者は、(外の世界の)音楽家達はエレ糞の素晴らしさを理解せず、所詮は機械だからとして偏見を抱きすぎと真剣に思い込んでいる有様。
プロに謙虚さをもたせずして、どうして一般の使用者に謙虚さが抱けようか。


エレ糞使用者は、元来は謙虚至極。プレイヤーたちに対する接し方を考えてみよ。
バカさんの取り巻き達の、執拗なるまでのバカさんに対する謙虚さには反吐が出る。
冷静に考えれば直ぐにパチモノとわかる浅はかなる打算を虚偽と見抜けず、「マサさんに見習って」「マサさんの訓えに遵って」と張り切り、自らの夢をあちらこちらの人々に語りかけ、公開プロフィールに堂々と当該夢を宣言する有様。冗談ではなく、真剣にだ。その心酔っぷりには唖然とするほか無い。
少しでも不平や批判を口にすると、途端に袋たたきにせられる。

森脇顔の取り巻き達の謙虚さはもはや常軌を逸している。真剣に「格好良い」と崇め奉り、本来臨時記号が複数ある楽曲を嫌う者が、森脇顔のそれに関しては一所懸命に立ち向かっている。これのどこに傲慢さが垣間見られようか。


「造音の手間をかけないからですかね」
まったく、どこぞの脳味噌をひねり出せばこのような頓珍漢なる回答が出るのか理解に苦しむ。
造音の手間なんて全く関係が無い。モデルチェンジの異常なる早さ、互換性の無さが全て悪いのだ。
「~ですかね」と、ここだけ丁寧語を用いているのも実に嫌味たっぷりだ。


瑛美翁は、造音の手間をかけないこと、沢山の音色が用意せられていることをエレ糞使用者の謙虚さの欠缺、行儀の悪さの原因に考えているようである。大いなる勘違い嗚呼勘違いである。


沢山の音色が用意せられているならば、エレ糞使用者は、本来謙虚さがにじみ出ていないとおかしい。沢山の音色があることをエレ糞使用者は楽しみの一つとしているはずだからだ。エレ糞の魅力を語るに当たり、音色の多さは、必ずといってよいほどに出てくる。

その沢山の音色の在り方が問題なのだ。

使えない音色ばかり用意しているだろ。>ヤマハ音楽振興会


よく、デモンストレーションにおいて、かかる発言を耳にしたことはあるまいか。曰く、
「エレクトーンは、奥が深い! ヴォイスエディット次第で、これほどまでに良い音色が出せる!」と。

実際、その場でエディットをやってみせ、良い音色を出してみせる。
出席者は、「奥が深い」とそのデモンストレーションに酔いしれてみせる。


茲でお立会い。ヴォイスエディット次第で、これほどまでに良い音色が出せると言うのであれば、初めからその音色をプリセット音色として設定すれば事足りやしまいか。どうして、その「良い音色」を出すのに、一々ヴォイスエディットというものを経ねばならないのだ。素直にプリセット音色をそのまま用いることでよい音色を提供せよと言うのだ。バカかこのデモンストレーションは。

瑛美翁の訓えに遵い、ヴォイスエディットを奨励しているのか。
本当にそうだとしたら、齋藤瑛美は死刑決定である。忌忌しき事態であり、絶対に許すまじきことである。ヤマハの愚行を肯定し、使用者の在り方をヤマハと共に否定しているのだ。100万円も平気ではたかせておきながら、堂々と否定するとは、何と言語道断たることか。


造音の手間云々を瑛美翁はのたまうのであるが、瑛美翁よ、貴様は、己の欲するエレクトーン、理想のエレクトーンとしていかなる形のエレクトーンを挙げていたのだ。

「EL10が欲しい」などとぬかしていたよな(「エレクトーンの歴史」尚美学園、平成6年8月、30頁を参照してみよバカ)。

音色は3つでよい。硬い音、柔らかい音、ボタンを押したら切れる音で事足りやしまいかと。何も考えないで音楽にのめりこめるようなエレ糞ができないものかとのたまうのだ。茲では、瑛美翁は寧ろ造音の手間を問題にしていた

この月エレの対談に於いては、己の理想としてきた造音の手間の欠缺を問題にしているのだ。何と言う自己矛盾であろうか。
結局、造音の手間は必要なんじゃねえか。ざけんじゃねえよ。
年老いてしまって持論がよく思い出せないというならば、弟子の日野正雄もくたばったことだし潔く回線切って首吊って死ね。



ヴォイスエディットの疑問に話を戻す。
兎に角、一々エディットをしないことにはどうしようもなく使えない音色が200個くらい積まれているのだ。使えない音色に対し、愛着を抱く者など誰も居ない。まして100万円もの大金をはたいているのだ。

捨て痔亜では、プリセット音色の充実を図ることを売りにしていたが、この辺りは、EL時代と何等変わっていないと言われる。何のためのモデルチェンジだったのやら。


ヴォイスエディットにて問題が解決するならばまだよい。
次のような台詞を聞いたことはあるまいか。曰く、
「音色はプリセットにとどまらない。『ヴォイスディスク』で新たなる音色を!」と。富岡ヤスヤが良くやっていよう。
そう、別売の「ヴォイスディスク」の宣伝文句だ。これを別売にすることで、エレ糞の音色に更なる世界観が広げられると錯覚せしめんと試みる。


当然、当該別売のディスクには魅力的な音色が積まれている。別売による発売だ。当然であろう。
他にも、電話のベルだの、ピストルの音だの、プリセット音色のエディットを以てしては到底出し切れない面白おかしいSEがあまたに積まれている。
ヤスヤは、デモンストレーションの折、それらのSEを駆使したままごとを演っていたであろう。


茲で、次のような疑問が沸きやしまいか。
そんなに魅力的なヴォイスディスクを別売の形にて供給するのならば、「初めからそのディスクに積まれている音色をプリセット音色にて提供してくれれば良いのに」とは思わないであろうか。

ヴォイスディスクを魅力的に聞かせる為、プリセットの音色は劣化してしまってはいなかろうか。
捨て痔亜のプリセット音色は、EL時代と何も変わっておらず、音色が増えた分、何が何だかわけがわからない状態になってしまっている。
これでは、謙虚さなんて凡そ沸かない。沸くわけが無い。
行儀が悪くなってしまうのも無理はあるまい。
大金をはたいて、使えないプリセット音色を200以上も用意せられるのであるから。

指導者も、何故か「人にちゃんとした演奏を聴かせるにはヴォイスエディットを積極的にせねば駄目だ」とのたまう有様。
プリセット音色を、プリセットの状態のままに使っては駄目だと言うのだ。
そんなにプリセットがコンクールにて受けないというならば、プリセットはなくし、全てUSERヴォイスにし、全ての音色を0からつくる構成にしてしまえばよいのだ。


EL90発売時にも、そのような傾向があった。別売ディスクとして、「コンテンポラリー・ヴォイス」「オーケストラルヴォイス」というのがあったろう。
付属のレジストデータを分析してみるに、殆どこの別売のディスクにてレジストが作成せられているのだ。
特に酷ったのがFUNKY FOX。
「USER」の音色は、殆ど「コンテンポラリー・ヴォイス」からのお流れだ。
「Scandal」にでてくるSEは、「32:SE3」という音色だ。それが主力的に用いられていあがる。

そんなに別売のディスクが需要あるならば、一層のこと、別売ディスクの音色をプリセット音色にし、後のつかえない音色200個こそ別売の形で供給すべきであろう。

何故、市販の付属レジストデータにプロテクトがかかっているのか。
「著作権の侵害」とヤマハは回答しようが、大いなる虚偽発言。

別売のボイスディスクを使いこなしている関係で、プロテクトがかかっていないと、その音色ばかり使われて別売ディスクの需要がなくなると考えているからだ


レジストデータは、酷くなってくると、外部のPC音源を用いている場合がある。
「FUNKY FOX」や、そのユニットのピンのアルバムを紐解くに、明らかにエレ糞データの音色でないUSER音色があるのだ。
その証拠に、このユニットは、どうもプリセット音色からのヴォイスエディットが下手糞な印象がある。
別売ディスクや、外部のPC音源からの音色を調達しているからプリセット音色に正面切って向き合えないのだ。


外部のPC音源を用いる方法を採るのはプレイヤー達にとどまらない。
海外の違法サイトから全くオリジナルのヴォイスディスクを調達してレジストデータを作成するケースもある。

こんな事件もあったようである。
どこぞの地区のコンクールにおいて、外部のPC音源を用いる方法を採って全くオリジナルの音色を発表した出場者が居たと言う。
審査員だったかが、「エレ糞の音でない!」と突っ込み、それが大問題となり、大層なる揉め事に発展したと言う。

こんな事態になるのも、プリセット音色が余りに不便で使えないからであろう。



ヤマハもヤマハだ。
誌面にわざわざ引っ張り出し、もっともらしい発言の真意を如何に解釈しているのであろうか。
瑛美翁の呈する問題点は、全てヤマハ音楽振興会が作り出しているように思えてならない。
誌面上にて発言させることではなく、企業内部にて発言させることではあるまいか。

ヤマハは、安心してエレ糞を嗜めない環境をつくりだしておきながら、瑛美翁にもっともらしい教育論を垂れさせ、使用者により一層の負担を押し付けようとは絶対に許せないことである。


ヤマハは、これまでにもこのような創世記の面子を集めさせては尤もらしい教育論を垂れさせていた。ヤマハは何を思ってわざわざそのような教育論を垂れさせたのだ。
使用者に一方的に礼儀作法を押し付けるのではなく、使用者が心から瑛美翁ののたまうところの謙虚さが抱ける、安心してエレ糞に嗜める環境づくりに勤しまんとする空気は無かったのだろうか。


なんだかんだ言ってヤマハは結局お金儲けにしか頭に無いように思えてならない。
それで尤もらしい教育論を、創世記の面子に垂れさせるものであるからタチが悪い。


瑛美翁や、道翁も、いいかげんヤマハの取材を受けるなと物申したい。
貴様達の格言、提言は、大切にせられているようで、一つも受け入れられては居ないではあるまいか。

いつも同じような格言、提言を繰り返し提言しているだけ。虚しく当たり一面に叫び声が響いているだけの状態ではあるまいか。


「メカに頼りすぎ」「汗を流し、筋肉を動かして」なんて、一体何年言っているのやら、EL二桁時代から言い続けているわけで、17年間は言い続けていることになる。17年もの間、何等問題は解決していないのだ。これだけ外部からうるさく言われているのに、ヤマハは何等解決の兆しを見出さなかった。

メカに頼りすぎているのは、ヤマハであり、レジストデータを供給している側。
何が「エレパソ」だ。これなんか、メカ依存の産物ではあるまいか。
初心者向けの、「アラモード」も然り。
XGなんて、調子に乗って用いているのは、プレイヤー(というか正式にはパフォーマー、スペシャリストと称せられる人々)の側ではあるまいか。プロの方が、一般者にメカに頼りすぎの風潮を与えたのではあるまいか。


瑛美翁に物申しておく。「汗を流し云々」とのたまうが、その割には、あの「Dance with Me」(昭和53年)の糞アレンジ8曲は何だ。
単に左手は八分刻みのみ。オペラ「魔王」のピアノ伴奏のつもりか。
あれじゃあ幾ら筋肉を動かしても汗なんて流せないし、後で得られるものは虚しさのみ。
こんなの点じゃ
点じゃ。



創世記の面子を呼び、使用者に所謂礼儀作法の徹底を強調しても、根本が変わらないことには、ヤマハの体質が変わらないことにはどうしようもないわけで、相変わらずのエレ糞の惨状を鑑みるとき、筆者は、瑛美翁・道翁の存在意義に果てしない疑問を感じ、「そこに居るだけで」という理由から何の有り難味も感じないわけである。そこに居られることで残る思いは、「だからなに?」という果てしない虚しさのみ。


何だか、この辺りは、「創世記から携わっている」という理由だけでちやほやせられているように思えてくるのである。
「野村克也夫人だから」という理由で注目を浴びた野村サッチー、「スカルノ大統領第3夫人」ということで大御所気取りのデヴィ夫人のようなものではあるまいか。

何故何も変わらないのか。
それはこれから挙げる者達に原因がある。

以下考察してゆきたい。



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