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撲滅・検討の如何を考察、問題を提起
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エレ糞の勘違いの娯楽化には呆れる他ない。

エレ糞は、女性を陥れる娯楽化に固執してきた感があるが、
どうも男性をも陥れる娯楽戦略に乗り出してきた感がある。

その先頭をひた走る勘違いエセプレイヤーが、こちら


まったく、これのどこに美人たる要素があるのかさっぱりわからない。

「不細工」と少しでものたまうと、間違いなくヤマハ関係者からとばっちりを喰らう
「本人」ではなく、「ヤマハ関係者」というのがミソだ。


確かに、筆者のやっていることは、自分の意見を押し付けているともとらえかねまい。
その意味では、この記事は不適切であろう。

「人それぞれだ!!」という突込みがきそう。

そう考える者に是非とも考えていただきたい。
「感じ方が人それぞれ」というならば、筆者の「不細工だ!」という見解も肯定せられねばおかしくはあるまいか。

「美人だ!」として筆者の見解を否定する者は、十分に自分の意見を押し付けては居まいか。

こちらの考えも考慮せよというのだ。
「人それぞれ」というのは、一見正論に思えて、結局は自分の意見を肯定させるためのごまかし文句に過ぎない。最も用いてはならない不適切表現であり、これこそ放送禁止用語に指定すべきだ。


以下、茲に採り上げる人物を「ブス」と記してゆく。
このブスは間違いなく然り。「美人」なんて賞してくれるのはヤマハ関係者だけであろう。
こんなブスの写真集を「ほしい」とのたまうのだ。なんとおぞましき世界たることか。


実際、平成14年のこと、EL900Bの発売記念ポスターにこのブスの写真が制作せられたわけであるが、糞婆に見えて仕方なかった。
900Bのポスター、撮り方下手すぎだろ。
確かにこのブスはブスだが、そのブスさ加減が目立ちすぎていて品も糞もなかった。

これが、「あなたの考えはおかしい!」と揶揄せられる有様。
ひどくなると、「そんな強がりを言って。素直にならなきゃ」と説教する者まで出る始末。


筆者は、こんなブスの写真集や900Bのポスターを頂戴するくらいならば、江頭2:50と寺田体育の日のセックスビデオ20時間分を頂戴したい。


どうしてヤマハこのブスを「美人プレイヤー」として売り出すのだろうか。
森脇顔もそうであるが、ヤマハは余りに世間の感覚とずれこんではいまいか。
森脇顔の場合、これ以前にいい顔の男性プレイヤーが居なかったのはある種的を得ているような気がしなくもないが、女性プレイヤーの場合、幾らでもこの程度の顔はあったはずであり、今でもごろごろ転がっているはず。わざわざこのブスを「美人プレイヤー」として売り出す意義はあるまい。
男性のヤマハ関係者は、なぜか「美人だ!」「写真集がほしい!」と真剣にのたまうのだ。
よほど女性に恵まれていなかったというのか。

良い年齢をした中年男性に対し、ブスはHNやあだ名などでため口で、すっかりスター気取り。



思えば、「美人プレイヤー」という肩書きほどくだらなく、的の外れたものはない。
この手の肩書きを有する者は100%といっていいくらいに不細工である。むしろ、当該肩書きを有していない女性の方が何倍も美人であり、時々ものすごく歯がゆい思いに駆られる。
本当の美人は、雲の上なのだ。
茲に採り上げるブスが、調子に乗って距離を縮めんとため口にて接してきて男性達は簡単に騙される。

「美人プレイヤー」の草分けといえば太田惠子が然り。
世の男性、というかヤマハ関係の男性達は決まって「美人プレイヤー」「田中美佐子似」と崇め奉る有様。

これほどの不細工は居ませんよあーた。
太田恵子は、写真写りでだいぶ得をしている。鈴木その子の先駆けだ。撮り方によっては80代のくそばばあに写っているときもある。よくみると、小じわがひどく、とても美人プレイヤーと呼べるものではない。
こんな似非美人によくぞ「美人プレイヤー」などと崇め奉られたものだ。こんな不細工に騙されてきたというのだから世も末だ。
これでは、エレ糞が世に認められなくて当然であろう。


美人プレイヤーを名乗る似非プレイヤーに一言物申す。
美人を名乗る暇があるなら、演奏・音楽を何とかせよ。

この太田惠子の、なんだ、LP「恵み色のメッセージ」??!!

これ、しょーもないねえ。

嗚呼、つまんねぇつまんねぇ!!

恵み色の部分、マジックで塗りつぶして黒色にしてやったってんだよ!


何が恵み色だってんだよこの野郎!!
ざけんじゃねえよ、即効ブックオフ逝き決定だよこの野郎!!

「黒色のメッセージなんて受け取れません」って処分料75円取られちまったよこん畜生!!



「恵み色のメッセージ」0点!!!!!
もしも道端でコイツ見かけたら、バキュームカー使って思い切り糞の雨をかけてやれよ!!






本題に戻る。
茲に採り上げるブスであるが、これがまた本当にがさつ。
音色がとにかく硬すぎ。
あの、なんだ、大学時代の大失恋を描いた曲「エレジー?」

大爆笑したね!あっぱれだ!
悲しみどころか、ものすごいパワーが溢れる名作だ。
特撮の主題歌として歌詞付きで送ってやればいいんじゃねえか?

ギターが硬すぎて悲しみが少しも伝わってこないし、ものすごくストレスがたまる。
眠気が襲ってこない代わりに、ストレスがたちこめる。

あのギターは、テクニック自慢しているようにしか思えない。

そもそも、失恋を題材にした曲をコンクールの出場曲にするっておかしくなかろうか。
それで賞を獲得してんだろ?


大失恋したらとてもそのような気力は生まれてこないと思うんですがねぇ。

我々一般市民、筆者がごとき参加賞どまりには到底理解できない。
大失恋をネタに作曲し、それで賞を獲得できたのならば、大いに幸せであり、悲しむことも何もあるまい。そのがさつな神経に拍手喝采するのみ。


このブスの気に入らないところ。
お笑い好きを気取るところ。

関西出身者だからということで、無理してお笑い好きを気取るのだ。不自然この上ないし、ヤマハに無理してやらされているように思えてならない。

で、好きな笑いは「吉本新喜劇」。
この時点で凄まじくストレスがたまる。関西人は吉本新喜劇好きのような発言をし、どんどん関西、ひいては大阪というものに対して偏見を生ませんとする。


「吉本新喜劇」って、あーた、そんなもの好きなのはお笑い好きとは言わねーよ。
あれって思考回路のとまった爺婆のためのおはやしみたいなものだ。
別に「だから駄目」と言うつもりはないが、いかにも新喜劇をわかっているようなフリをせられても戸惑うばかり。


吉本新喜劇は関西よりも東京人のほうに好かれているように思える。
東京人が来阪の折、まず注目する笑いは吉本新喜劇だからだ。
本場の関西はむしろ吉本新喜劇に対する注目度は低い。筆者だけやもしれないが。


本当にお笑い好きならば、バカさんの1パターンの笑い話を何とかせよというのだ。
その笑い話をいつまでも笑えるのは、お笑いが好きではない証拠。単に1パターンを見抜けない、1パターンを1パターンと思わない、思考回路の停止している証である。

エレ糞プレイヤーは、概してMC大好きの感がある。
正確に言えば、MCをやらねばならないという風潮がはびこっているように思える。

本来ならば、MCなしでゆきたいのに、「勉強会の雰囲気をなくさねば!」という意思のもと、MCをひたすらしたがるコンサートになってしまうのだ。

関西人だからということで、無理してお笑い好きのキャラクターを演じ、ヤマハ関係者にしか通用しない異様な空気をつくりあげてゆく。

そうした体質を生ませた張本人はバカさんあたりからであるのは容易に想像が付く。


関西人は、お笑い好きか。
筆者は、むしろ関西人はお笑いは嫌いであるように思う。
お笑いが好きならば、上方落語の衰退はどうしたことかとなってしまう。

このブスは、「関西人が二人喋ると漫才になる」と言うのだが、
漫才にはなりません!


どうしたらこのような発想が出てくるのか仕方ない。
関西人が二人喋っても単なる立ち話。漫才ではないし、実際、漫才のテンポは出せていない。
西川きよしと太平サブローの二人が、そのような企画をし、関西人二人に漫才をさせていたが、まったくかみ合っていなかった。時折太平サブローが突っ込みを入れるのだが、益々面白みがなくなっていた。もしも本当に関西人二人が喋って漫才になるのならば、漫才師の存在は必要あるまい。
つまらない偏見を作成しないでいただきたい。




もう一つ気に入らないのは、
ドリフ好きを気取るところ。

「昔から『全員集合』を欠かさず見ていました」というのだが、こちらのプロフィールには、「昭和56年生まれ」とある。

どうやって全員集合を見ていたというのだろうか。貴様は「天才バカボン」のハジメちゃんだったというのか。なんと嫌味なこと。


実際、全員集合のことなどほとんど記憶にないはずなのに、全員集合の思い出話を語られてもしらけるのみ。
「ピンクパンサー」のテーマを出しては、「ドリフを思い浮かべる」というのだが、何ともいえないむずがゆさが走って仕方ない。素直に楽しめない。



このブス、年齢詐称をしている。
3歳下に公言しているのだ。あふぉかというのである。
その証拠に、その記事のプロフィールには、かく記されている。曰く、
「平成11年大学在学中に『インターナショナルエレクトーンコンクールポピュラー部門』第2位を受賞。翌年プレイヤーとしてデビュー」とあるのだが、

昭和56年生まれがどうやって平成11年当時に大学へ在学するっていうんだよ?!

貴様は特待生か。「少女に何が起こったか」(TBS)か。
「薄汚ねぇシンデレラ」か。←前半部分は合っていますがねぇ・・・



で、その記事であるが、
「エレクトーンは実は出力が2系統しかない。せっかく多彩な音が出るのに録音機材に向かってはふたつの“出口”しかないということだ。それで録音しては音に広がりがなくなってしまう。エレクトーン演奏の録音物が少ないのは、そんなことも理由になっている。

そこで考えたのは、使う音色の数だけバラバラに録音する方法だ。単純にいうなら1曲の中で10の音色を使う場合は、1曲を作り上げるのに10回録音を重ねる。同時に演奏できるのがエレクトーンのすごさなのだから、なんだか倒錯した話だが、ともかくエレクトーンにこだわった結果、ほかに選択肢はなかった。」


ここまでするくらいならば普通に他楽器を用いてレコーディングに励む方が楽だし、正当だと思うんですがねぇ。


「エレクトーンにこだわる」って、今の捨て字亜はAWM音源が主流で、ほとんど物まね状態の音で、エレクトーン独自の音色ではなく、そこまでする意義が感ぜられない。


というわけで、安易に芸能人を気取るのはやめてくださいとお願いしたところで、
首をカット、カット。
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・・・

こっちが訊きてぇよ。

なにができんだよまったく。




そんな意味不明の売り方をしているいとまあるならば、
貴様の講座に出席している講師が、開講中、突然携帯が鳴ったのを「どうぞ、どうぞ」と媚びへつらって通話を許可するの、やめなさい。

真剣に、というか、電話に出ていない連中が迷惑だろうが。
エレ糞は、来年にて生誕50周年を迎えるという。
何とも盛り上がりに大いに欠ける50周年になりそうな気配で、節目でもあるはずの年だというのに、悲しい限りである。

月刊エレクトーン(以下、月エレ)では、平成20年2月号より、古参の所謂大御所を所かまわずかき集め、創世記の思い出を語らせている。
全く進歩の無い祝い方であるが、中には川村江一・江川マスミ(芥川 眞澄、芥川也寸志の第3夫人)といった、今は余りお目にかかれない面子も登場する。


第一弾が、道志郎と齋藤瑛美で、こちらは、二人による対談形式となった。
基本的に、筆者はこの2名に対し、余り存在意義を感じない(というよりも、そもそも余り好きではない)。名前に好感がもてない。瑛美と書いて「ひでみ」と読ませんとするなど、感覚が悪いにも程がある。
アレンジにしても、日野正雄師や田代雅士師のほうがまだ面白みを感ずる。
「そこに居るだけでありがたい存在」という声がある。篠沢秀夫教授にはそれを感ずるが、この2名には筆者は特にそうしたありがたみを感じない。
やはり「面白いアレンジ」と考えるところの上記2名の方にまだそうしたありがたみを感ずる。


道志郎はエレ糞の世界に於いて最長老とせられる。別にそれほど驚愕すべきことでもない。
昭和2年生まれ、やうやく80歳に達したという若さである。
嘗ての、江戸落語の長老たる6代目三遊亭圓生、8代目林家正蔵(後の彦六)、往時の俳優界の名優、志村喬や宮口精二らと比較するに、親子ほどの年の差がある。
筆者の挙げる2名となると、更に若手となる。


内容は、「エレクトーンの歴史」(平成6年8月、尚美学園刊)とほぼ同一で、何の斬新さも無い。
中には為になる箇所もないわけではないが、やはり昔からの持論そのままであり、何の進歩も無く、全く意義の無いコンテンツになってしまっている。

「今のエレクトーンは、機能に頼りすぎ」
「機能が多すぎてやることがわからない」
「オルガントーンをもっと大切に扱え」
などなど。



そんな中、激しく憎らしい発言を見つけた。それが茲に紹介する、齋藤瑛美翁の戯言である。曰く、

「今のエレクトーンは、色々な音色が予め用意せられているからか、エレクトーンの子は行儀が悪い!
『蓋も閉めないのか?!』と学生を叱っている。
『弾かせて頂きます』という楽器に対する謙虚さがないと。造音の手間をかけないせいですかね」
と。

更に、当該翁、かく発言し続ける。曰く、

「今のエレクトーンはメカに助けられている気がする。
もっと筋肉を動かし、汗をかいて音楽やらないと、エレクトーンは生き残っていけない気がする」
と。



よくぞ平気な面を提げて、寧ろ大御所気取りで好き勝手に貶してくれるものである。時代錯誤も大概にせよと物申したい。
「エレクトーンの子は行儀が悪い!」のところ、わざわざ感嘆符を用いていることに、筆者は更なる憤りの念を覚える。

「弾かせて頂きます」なんて、どこの馬鹿がそんな愚行をとろうか。どうして一々「弾かせて頂きます」と思わねばならないのか。
一々お辞儀をせねばならないのか。
全く余りの馬鹿馬鹿しさに反吐が出放題だ。こんな機械にお辞儀をしていたら、周りから「現実との区別がついていない!」と安田病院逝きではあるまいか。大御所気取りが、何と言う勘違いの感覚を教え込む。

そんなに馬鹿らしく思うならば、一々こんなブログに物申すなよと思われようが、余りの時代錯誤も甚だしい言動に腹立たしさを覚えると共に、一抹の虚しさを感じたため、こちら「嫌い」のカテゴリにて大いに物申させていただくと言うわけである。
実際、この発言を真に受けて手持ちのエレ糞にお辞儀をするようになったという馬鹿・ユーザーが存在するのだ。
そうした態度をとっていることをブログにて一々自慢する始末。あなくわばらくわばら。



何が腹立たしいかと言うと、エレクトーンの子が行儀が悪いとしているところ。
その原因として、「色々な音色が予め用意せられている」ことを挙げている。これがまずおかしい

色々な音色が予め用意せられていることが、どうして行儀が悪いことの原因につながるのだろうか。

行儀を悪くさせているのは、間違った娯楽性を行わせているヤマハであり、アイドル気取りのプレイヤーであろう。
コンサートにおいて、関係者全員が「星の王子様」の振り付けを行っていれば、行儀は悪くなろう。

困り者なのが、近年、ふって沸いて出てきた「うにとろプロジェクト」。
富岡ヤスヤが率いている、所謂ティーンズを所かまわずかき集めた丸で方針・信条の感ぜられない集団だ。
このうにとろとやらの面子の評判は頗る悪いと聞く。
「プロのプレイヤーに認められた」という奢り高ぶりがあるからか、態度は果てしなく高慢で、ユーラシア大陸よりも大きく、裏方のスタッフに対する接し方は誰にも止められないほどに劣悪だと言う。

演奏能力?あるわけがない。このうにとろは、「下手糞だけれども一所懸命やっている」ことを売りにしている。
富岡ヤスヤによると、うにとろの重要なるポイントは、「一所懸命さ」にあるという。能力よりもまず一所懸命さにあるとし、この一所懸命さがエレ糞の世界の活力の向上につながるのではと考えているようである。

この「一所懸命さ」というのは非常に曲者。こんなものでプロが気取れるならばプロのプレイヤーは氾濫してそれこそヤマハの世界はどこの音楽家たちからも相手にせられなくなろう。一所懸命さを駆使してやってゆけるのはグレード6級まで。6級と言うと、がんばれば誰でもとれる、それこそ2週間の取得も夢ではない、丸で価値の無いものだ。

情熱なんて、聞こえはよいが、演技次第でどうにでもなる。情熱を、貢献如何の基準にしてしまうと、そのうち、見境がつかなくなり、取り返しのつかない事態に陥ろう。


うにとろの勘違い十代集団は、「私たちは下手糞ながらも誰よりも情熱を絶やしていない!エレ糞の世界の発展のため、誰よりも誠意を尽くしている!」と考え、ついつい裏方のスタッフに対して横柄になってしまうのであろう。
これでは、いつまでも音楽界から「音楽だ!楽器だ!」として認められることはなかろうし、発展するとしても一時的なものにしかならない。

エレ糞の場合、世間に認められていないことが災いし、「我々は下手糞ながらも世間にエレクトーンの素晴らしさを広めんと必死なんだ!」という傲慢なる使命感が宿ってしまう。


うにとろの香具師たちは全くの度素人。JOC出身と言うこともないし、コンクール受賞経歴すらない。
下手糞なのが第一条件という風潮がある。風潮と言うよりは、規則と言うべきやも知れない。
うにとろで礼儀作法等が教え込まれればよいのであろうが、残念ながら、そこで得るものはというと、下手糞でも情熱ありげな態度をとれば、簡単に舞台に出られるんだ、ヤマハの世界はそれほどまでに甘っちょろいんだという非常に悪い意味での「遊び心」が得られることになる。

そうした面子が、貴様の教鞭の取る所の徳島文理大に流れ込んで居るのではなかろうか。
いきなり「行儀が悪い!」などと、全国がそうであるかのような発言をせられて不愉快至極だ。
全国に刊行せられることになる誌面上にてそのような発言しているところから、全国がそうであると思い込まれておいでであろう。
アフォかというのだ。



瑛美翁、「エレクトーンの子は行儀が悪い!」と、如何にもエレクトーン使用者の行儀がなっていないような発言をしている。
エレクトーンの使用者に偉そうに物申す前に、貴様の身近にあるエレクトーン関係者の行儀とやらを直さねばなるまいか


ヤマハ音楽教室の講師陣は、非常に口喧しく、仕事がしにくいと技術屋は口をそろえて言う。
先述の岩内佐織師は、華奢なる体型にも関わらず、荷物運びや機材準備の手伝いには事欠かないという。
中途半端な位置づけの講師陣が最も厄介とのこと。


うにとろは礼儀作法がまったくといってよいほどに整っていないと記した。
JOC出身者にもそのような傾向はありやしまいか。
ここの面子は、子供時代からプロの位置にある。
基本的に、子役出身者と言うのは、プライドがWTC並みに高いと言われる(吉田清、平成13年の著書)。
子供時代から、裏方の面倒が丁重に入ろう。子供だからと、裏方は人一倍甘くなろう。
子供時代に丁重なるスタッフの面倒が当たり前のごとく入る。子供時代に植えつけられたイメージと言うのは非常に心の奥底に浸透している点を前述したことと思う。
大人になり、裏方のスタッフの対応が少しでもぞんざいになるとそれだけでご立腹状態になろう。
芸の世界に於いては、芸暦順に上下関係が決まることになる。子供時代からプロとして活躍してきた香具師たちは、芸歴が古いばかりに、年齢で言えば父親ほどの齢に当たるものに対してもため口で、非常に尊大なる態度をとってしまいがち。
外の世界からすれば、当該尊大なる態度をとっているプレイヤーの感覚にこの上ない疑問を覚えることになろう。
ヤマハの世界に於いては、当該プレイヤーは古い芸歴であるばかりに、正しい態度となってしまう。

もちろん、人は十人十色である。上述の岩内師もJOCだ。例外はあるにせよ、J専出身にて、そのままの形でヤマハに居残り、いい気になって芸歴の古さを武器に尊大なる態度をとっていい気分になっている風潮はなかろうか。1級取得者となると、以下略だ。


デモ上がりの勘違い森脇顔のような系統も然り。成金状態で、人気も高い、ヤマハから「プレイヤーと認められた」という誇りもある。富岡ヤスヤ・鷹野雅史とは一味違うという奢りもある。人気も尋常でないくらいに高い。態度は当然悪くなる。寧ろ、これほどの人気者になると、態度の悪いことがある種のステータスとなってしまう。
どんなに態度が悪くても、憧れのプレイヤーのためならと、遠方から多くの者がレッスンに詰め掛け、コンサートや公開講座を追いかける。

音楽家、芸術家というべきか、かかる人々は類い稀なる才能、感覚を持ち合わせているばかりに普通の接し方ができない。クラッシックの音楽家達の生涯を紐解くに、大抵そのような内容になっている。態度が悪いのは我慢し、そこから究極のセンス、人気者の才能を学び取らねばならないと必死になろう。



態度の悪い香具師たちは、使用者に限らず、否、むしろ、プロの現場にて活躍する香具師たちにこそ警告すべきものではあるまいか。

我々一般の使用者というのは、どうしても上を参考にしてしまいがち。当然であろう。トップのことを信用するものであり、一々批判能力など有していられない。生計を賭けた勉強という形で演っているのではなく、娯楽気分であり、そこまで真剣に善悪を判断していられない。

大人ならば多少の批判能力は持ち合わせられても、幼少年となると批判能力などとても持ち合わせていられず、トップの言動をほぼそのままの形で信用してしまう。結果的に、態度の悪い一面を「格好良い」と勘違いし、そのまま徳島文理大に流れ込んでいると言う構図はなかろうか。

瑛美翁のレッスンを受けに大学に通う者は、プロ志望の者も多く存在しよう。森脇顔の態度の悪さを「格好良い態度」と勘違いしたままに入学してきたのであれば、行儀が悪くて当然と言えよう。



裏方のスタッフと言うのは、コンサートを行うにあたり、不可欠の存在だ。もっと謙虚に扱わねばならない。それが芸歴が古いからだの、ヤマハに「プレイヤーと認められた」からだの、人気が絶大だからだの、スタッフに対して尊大なる態度を以て接する理由はどこにも無い。
外の世界では、音楽家達は非常に裏方のスタッフを大事にしている。見えないところで非常に謙虚に接している一面がある。


思えばバカさんも頗る行儀が悪く、よくよく考察してゆくに、人間的魅力のかけらもない。人前では、人生論(殊に母親への愛)や神道なんてものをさも人一倍理解しているように語り、庶民派を気取る。然る中、母親の喪中の手紙の裏に結婚報告をする有様。関係者はそれで「おめでとう」「お幸せに」と浮かれる有様。
こちらが疑問を呈すると「あなたは感覚が狭い」「冗談がわかっていない」と愚弄三昧。

こんなことで、どうやってエレ糞に関わる香具師たちの行儀を正せと言うのか。



一般の使用者に物申す前に、プロ達の、殊に勘違いのプロ達の行儀を何とかせよというのだ。
もちろん、誌面上にて格好つけて物申すのではなく、人の目の行き届かないところで勝手に物申しておけと言うのだ。
そうしてから、お上(カミ)の行儀作法が完璧に整い、その上で我々使用者に物申したいことがあれば大いに物申せと言うのだ。それならばまだ茲まで瑛美翁に憎悪感を抱くことは無い。

勘違いが酷すぎるのだ。プロ達になると、途端に物申せないのか。物申すと貴様の立場はなくなるのか。貴様の権力はその程度の矮小なるもの


富岡ヤスヤにしても、エレクトーンを使って拳銃の音を出すだの、タイマー代わりにするだの、「100万円もするのだからそれくらいのことをしなきゃ」と言ってエレ糞を玩具扱いする有様。そうした態度がそもそも「行儀が悪い!」とは言えまいか。トップの、プロのかかる勘違いの言動を力尽くででも撤廃しないことには、瑛美翁のいうところの「行儀」には永久に改善の兆しが見られまい。

「100万円もするのだから云々」と言うのならば、そうした余計な機能を無くし、10万円に下げてみせるのが本来のあり方ではなかろうか

使用者と言うのは、タイマー代わりに用いんとして100万円などはたかない。タイマーにはちゃんとしたタイマーを用いる。用品店に赴くと、無料でタイマーを差し出してくれるところもある。
エレ糞には音楽を求めて購入するのだ。


瑛美翁は、「蓋も閉めないのか」と学生を叱ると言う。
蓋を閉めないのは、次のレッスンの子が控えているから閉めないのだ。今のエレ糞には蓋なんてないだろ。

捨て痔亜というのは、非常に曲者の一面がある。当初、可搬性を売りにしていた。歴代のエレ糞モデルの中で最も壊れやすくできているのだ。無闇に蓋を動かすと、エレ糞の寿命は端役尽きてしまうことになり、蓋の機能は瞬く間に消失してしまう。

当該学生は、行儀が悪いから蓋を閉めないのではない。捨て痔亜がどうしようもなく脆い設計のため、無闇に手が出せないのだ。
そのことをもっと考え、学生に物申す前にヤマハ音楽振興会に物申すべきであろう。何を考えているのだ、この翁は。


最も腹立たしく思う箇所は、題名にも挙げた箇所だ。
「弾かせて頂きますという謙虚さがないと」と当該翁はのたまい、その謙虚さに欠ける理由として、「造音の苦労を知らないこと」としている。


要するに、エレ糞に関わる香具師たちには謙虚さがないということか。
エレ糞の使用者には楽器に対する謙虚さが無い、エレ糞に対する思いやりがないということか。
造音の苦労を知らないのがいけないのか。

何と言う時代錯誤の感覚であろうか。未だにこんな感覚を引きずっている瑛美翁に筆者は大いなる憤りを感ずる。

エレ糞に対する謙虚さ、思いやりを失わせしめた者はどこのどいつだ。

ヤマハ関係者、ヤマハ音楽振興会ではなかろうが。



エレ糞は、一台買うのに最低100万円を要する。
初心者モデルだと、安価で買えるのであるが、取扱店はしきりに上位モデルを勧めてくる。
少しでもグレードを進級させると、上位モデルでないと絶対に学習できないシステムになっている。

楽譜を出版する側も、楽曲の作編曲を担当する者も、上位機種でないと明らかに弾きこなせない楽曲を差し出してくる。
その典型例がバカさん。
これなんか、EL900のホリゾンタルタッチを駆使しないことには絶対に弾きこなせないような曲ばかり提供してきた。
ホリゾンタルの教則本を出し、大いにエレ糞の世界を沸かせた。

使用者側は、やはり上位機種の優位性を感じ取り、必然的にエレ糞の購入に最低100万円を費やすことになる。


エレ糞は、モデルチェンジが凄まじく早い。
FS/FX(以下「FX等」と称す)の時代になった昭和58年以降はそれは酷かった。

FX等の場合は、旧来のE型、D型で何とかごまかせる楽曲が多かったが、昭和62年、HS/HX(「以下「HS等」と称す)では、リズムパターンプログラム(RPP)が導入せられ、愈々購入しないことにはどうにもならなくなった。

その後、平成3年にはEL二桁モデルが登場。90は、125万円もの大金を費やさねばならなかった。
そのEL二桁シリーズは誠にタチの悪いモデルであり、HS等との互換性がまったく図られないものとなった。
その不便さは、今もなお尾を引いている状態である。
初期の頃は、EL二桁に関する楽曲に、余り良いものがなく、HS等を支持するものが多かった。
平成5年になると、そろそろ作編曲者がEL二桁に慣れてきたこともあり、HS等に陰りが見え始めた。HS等の放つ音色は、EL二桁と比較していかにも陳腐であった。

互換性が無く、折角HS等にはたいた大金も台無し。
丸々買い替えを行わねばならない事態となった。

その悪態は、平成10年にまた起こる。2月であったか、「起こらない」としてきたはずのモデルチェンジが行われた。
営業スタッフは、「起こらない」「起こりえない」と散々断言してきたモデルチェンジがだ。
EL3桁の登場である。EL二桁との互換性を重視したと言うが、基本的にバランスが異なり、EL二桁にて培ってきた好きな音色は台無しに。

互換性というと、一見ありがたく思うが、互換性を大事にしてきただけに、絶対に使わないプリセット音色が凄まじく増え、どれがどれだかさっぱりわからない状態になった。元は変わっていないのに、音色を増やしてしまい、一つ一つの音色は劣化してしまった。
正確に言うと、新たなる音色はそれなりに良くできているが、二桁から引き継いだ音は明らかに劣化している。新たなる音色を良い音色に聞かせるために、二桁から引き継いだ音色をわざと劣化させているのである。酷い話だ。
それならば互換性のありがたみが無い。


ホリゾンタルタッチと言う新たなる概念が導入せられ、ヤマハは「新たなる奏法を目指して」と大々的に張り切っていたが、それができるのは900以降の上位モデルだけだ。必然的に900を買わねばならない状況に陥る。

EL三桁は、モデルチェンジは起こりえず、マイナーチェンジの時代になると営業スタッフは大々的に宣言していた。

その6年後、平成16年、STEGEA(以下、「捨て痔亜」と称す)が登場。
「これからはマイナーチェンジの時代に」「買い替えの負担はかけさせません」と大々的に宣伝するヤマハ。
逆に言えば、「是まではフルモデルチェンジの時代」「買い替えの負担はかけさせます」。

HS等の時代に大問題になった互換性のなさ、買い替えの負担を使用者に強いることとなった。

EL三桁では、互換性というものが今一つぱっとしないモデルチェンジをさせた。
次の捨て痔亜では、フルモデルチェンジだ。当然音色は良くなっているものと期待するが、全く変わっていない。
この捨て痔亜の欠陥については後述したい。

茲では、瑛美翁ののたまうところの謙虚さの欠缺の原因について、筆者の考察するところ、思い当たる箇所を述べてみたく思う。

なぜ、エレ糞に対する謙虚さがなくなってしまうのか。
それは、モデルチェンジが凄まじく早く、愛着が沸く前に買い替えをせねばならないからである。

100万円もの大金をはたいて買ったエレ糞だ。本来ならば、どの楽器使用者よりも愛着が沸き、謙虚さは起こりうるはずなのだ。
それが、どうして謙虚さがどの楽器よりも欠如しているのか、もっと瑛美翁はその原因となるところを考察すべきであり、その謙虚さの欠缺と言う結果だけをみつめてあれこれ一般の使用者に無理難題を強いるべきではない


小熊達弥師は、自筆の研究論文「EL演奏表現に関する現状と諸考察」(平成6年発表)の中で、エレ糞の譜面の問題として、「原因としての音楽要素の把握」の欠缺を挙げている。
筆者に言わせると、原因としてのエレ糞使用者の謙虚さの欠缺の把握すら為し得ていないように思える。瑛美翁の発言を考察するに、結果としての謙虚さの欠缺をひたすら批難しているように思えるというわけだ。



100万円もするモデルを買ったは良いものの、4年、長くて6年・7年で買い換えねばならないものに対し、どうして愛着がもてようか。どうして謙虚さがもてようか。

たった数年しか使わないエレ糞に対して100万円もの大金をはたくのだ。エレ糞使用者からすれば、「自分は僅か数年の為に100万円もの大金をはたいているんだ!」と傲慢な姿勢にならざるを得ないのは当然であろう。どうして非難せられねばならないのだ。

一度エレ糞使用者がごとく、真面目にモデルチェンジに付き合えと物申したい。こんな異常なる商品のライフサイクルに付き合っていたのでは、謙虚さなんてとても有し得まい。僅か数年でおさらばするエレ糞に対し、わざわざ「弾かせて頂きます」なんて誰も思わない。
「どうせ数年でおさらばだ」とあきらめの姿勢、弛んだ心を以てエレ糞に臨んでいるのが実際のところと言えよう。

エレ糞の場合、グレード試験を受けるのに指定機種というものがある。大抵、というより、絶対にと言ってよいほどに上位機種が充てられる。
できる限り最新のモデルを使用させたがる試験構成になっている。旧来の機種を使い続けては居られない状況に陥ってしまうのだ。

EL以降になってから、譜面に付属する形でFDデータがある。EL3桁になってから、EL二桁のレジストデータは随分と劣化しているように聞こえるようになった。それだけEL3桁と言うのは素晴らしいモデルだからか。
否、EL3桁が素晴らしいのではなく、EL二桁のレジストを劣化せしめるのである。そうすることで、EL3桁の音色が他のどのモデルよりも如何に秀でているか、そのように魅せるのである。酷い話だ。
例を挙げると、バカさんのデータは、EL二桁にあった、アルバム「ストリングス・バラード」「オーロラに乗って」のデータはバランスが絶妙で単純ながらも良くできていたのに、「パーソナル 松田昌」のEL二桁のデータは、音色の出力がバカ大きく、バランスが酷いこと酷いこと。これではEL二桁を安心してはとても使えず、謙虚さなんて沸き得ない。

EL70というモデルがあった。ここの配布データは悲惨そのもの。
明らかに手抜きばかりのデータが提供せられていた。

EL90を買わせるためにこんなふざけたデータを配布しているとしか思えない出来であった。


エレ糞使用者は、他のどの楽器使用者よりも愛着があるはず。100万円と言う大金をエレ糞にはたくのだ。大事に使いたいという思いは誰よりもあるはず。エレ糞愛好者のブログを閲覧してみよ。エレ糞が買えた、上位モデルが買えたという喜びがどれだけ溢れ、大切に使いたいという思いがどれだけあることか。そうした愛着、謙虚さをつぶしているのはヤマハ音楽振興会だ。今正に貴様が取材を受けているところの馬鹿集団だ。
茲が無闇にモデルチェンジを行うものであるから愛着なんて消失するのだ。
次第に、エレ糞使用者は、「自分は僅か数年のために100万円もの大金をはたいているのだ」という怒りの姿勢になってしまい、瑛美翁の忌み嫌うところの所謂傲慢な姿勢のエレ糞使用者ができあがるのだ。
僅か数年しか寿命の無い高額なるエレ糞に対し、「弾かせて頂きます」という姿勢を有する、有さしめる方がどうかしている。


「弾かせて頂きます」という謙虚さが無いのは、貴様達プレイヤーではないのか。
外の世界に認めてもらえないので泣く泣くエレ糞に頼りっきり。本当はエレ糞が大嫌い。
どうしてエレ糞プレイヤーと言われる人々がヤマハ内部でしか評価せられないのか考えてみよ。良い音楽を提供しているならば、たとえ機械の上にて音楽を披露していても万人に認められて然るべし。エレ糞関係者は、(外の世界の)音楽家達はエレ糞の素晴らしさを理解せず、所詮は機械だからとして偏見を抱きすぎと真剣に思い込んでいる有様。
プロに謙虚さをもたせずして、どうして一般の使用者に謙虚さが抱けようか。


エレ糞使用者は、元来は謙虚至極。プレイヤーたちに対する接し方を考えてみよ。
バカさんの取り巻き達の、執拗なるまでのバカさんに対する謙虚さには反吐が出る。
冷静に考えれば直ぐにパチモノとわかる浅はかなる打算を虚偽と見抜けず、「マサさんに見習って」「マサさんの訓えに遵って」と張り切り、自らの夢をあちらこちらの人々に語りかけ、公開プロフィールに堂々と当該夢を宣言する有様。冗談ではなく、真剣にだ。その心酔っぷりには唖然とするほか無い。
少しでも不平や批判を口にすると、途端に袋たたきにせられる。

森脇顔の取り巻き達の謙虚さはもはや常軌を逸している。真剣に「格好良い」と崇め奉り、本来臨時記号が複数ある楽曲を嫌う者が、森脇顔のそれに関しては一所懸命に立ち向かっている。これのどこに傲慢さが垣間見られようか。


「造音の手間をかけないからですかね」
まったく、どこぞの脳味噌をひねり出せばこのような頓珍漢なる回答が出るのか理解に苦しむ。
造音の手間なんて全く関係が無い。モデルチェンジの異常なる早さ、互換性の無さが全て悪いのだ。
「~ですかね」と、ここだけ丁寧語を用いているのも実に嫌味たっぷりだ。


瑛美翁は、造音の手間をかけないこと、沢山の音色が用意せられていることをエレ糞使用者の謙虚さの欠缺、行儀の悪さの原因に考えているようである。大いなる勘違い嗚呼勘違いである。


沢山の音色が用意せられているならば、エレ糞使用者は、本来謙虚さがにじみ出ていないとおかしい。沢山の音色があることをエレ糞使用者は楽しみの一つとしているはずだからだ。エレ糞の魅力を語るに当たり、音色の多さは、必ずといってよいほどに出てくる。

その沢山の音色の在り方が問題なのだ。

使えない音色ばかり用意しているだろ。>ヤマハ音楽振興会


よく、デモンストレーションにおいて、かかる発言を耳にしたことはあるまいか。曰く、
「エレクトーンは、奥が深い! ヴォイスエディット次第で、これほどまでに良い音色が出せる!」と。

実際、その場でエディットをやってみせ、良い音色を出してみせる。
出席者は、「奥が深い」とそのデモンストレーションに酔いしれてみせる。


茲でお立会い。ヴォイスエディット次第で、これほどまでに良い音色が出せると言うのであれば、初めからその音色をプリセット音色として設定すれば事足りやしまいか。どうして、その「良い音色」を出すのに、一々ヴォイスエディットというものを経ねばならないのだ。素直にプリセット音色をそのまま用いることでよい音色を提供せよと言うのだ。バカかこのデモンストレーションは。

瑛美翁の訓えに遵い、ヴォイスエディットを奨励しているのか。
本当にそうだとしたら、齋藤瑛美は死刑決定である。忌忌しき事態であり、絶対に許すまじきことである。ヤマハの愚行を肯定し、使用者の在り方をヤマハと共に否定しているのだ。100万円も平気ではたかせておきながら、堂々と否定するとは、何と言語道断たることか。


造音の手間云々を瑛美翁はのたまうのであるが、瑛美翁よ、貴様は、己の欲するエレクトーン、理想のエレクトーンとしていかなる形のエレクトーンを挙げていたのだ。

「EL10が欲しい」などとぬかしていたよな(「エレクトーンの歴史」尚美学園、平成6年8月、30頁を参照してみよバカ)。

音色は3つでよい。硬い音、柔らかい音、ボタンを押したら切れる音で事足りやしまいかと。何も考えないで音楽にのめりこめるようなエレ糞ができないものかとのたまうのだ。茲では、瑛美翁は寧ろ造音の手間を問題にしていた

この月エレの対談に於いては、己の理想としてきた造音の手間の欠缺を問題にしているのだ。何と言う自己矛盾であろうか。
結局、造音の手間は必要なんじゃねえか。ざけんじゃねえよ。
年老いてしまって持論がよく思い出せないというならば、弟子の日野正雄もくたばったことだし潔く回線切って首吊って死ね。



ヴォイスエディットの疑問に話を戻す。
兎に角、一々エディットをしないことにはどうしようもなく使えない音色が200個くらい積まれているのだ。使えない音色に対し、愛着を抱く者など誰も居ない。まして100万円もの大金をはたいているのだ。

捨て痔亜では、プリセット音色の充実を図ることを売りにしていたが、この辺りは、EL時代と何等変わっていないと言われる。何のためのモデルチェンジだったのやら。


ヴォイスエディットにて問題が解決するならばまだよい。
次のような台詞を聞いたことはあるまいか。曰く、
「音色はプリセットにとどまらない。『ヴォイスディスク』で新たなる音色を!」と。富岡ヤスヤが良くやっていよう。
そう、別売の「ヴォイスディスク」の宣伝文句だ。これを別売にすることで、エレ糞の音色に更なる世界観が広げられると錯覚せしめんと試みる。


当然、当該別売のディスクには魅力的な音色が積まれている。別売による発売だ。当然であろう。
他にも、電話のベルだの、ピストルの音だの、プリセット音色のエディットを以てしては到底出し切れない面白おかしいSEがあまたに積まれている。
ヤスヤは、デモンストレーションの折、それらのSEを駆使したままごとを演っていたであろう。


茲で、次のような疑問が沸きやしまいか。
そんなに魅力的なヴォイスディスクを別売の形にて供給するのならば、「初めからそのディスクに積まれている音色をプリセット音色にて提供してくれれば良いのに」とは思わないであろうか。

ヴォイスディスクを魅力的に聞かせる為、プリセットの音色は劣化してしまってはいなかろうか。
捨て痔亜のプリセット音色は、EL時代と何も変わっておらず、音色が増えた分、何が何だかわけがわからない状態になってしまっている。
これでは、謙虚さなんて凡そ沸かない。沸くわけが無い。
行儀が悪くなってしまうのも無理はあるまい。
大金をはたいて、使えないプリセット音色を200以上も用意せられるのであるから。

指導者も、何故か「人にちゃんとした演奏を聴かせるにはヴォイスエディットを積極的にせねば駄目だ」とのたまう有様。
プリセット音色を、プリセットの状態のままに使っては駄目だと言うのだ。
そんなにプリセットがコンクールにて受けないというならば、プリセットはなくし、全てUSERヴォイスにし、全ての音色を0からつくる構成にしてしまえばよいのだ。


EL90発売時にも、そのような傾向があった。別売ディスクとして、「コンテンポラリー・ヴォイス」「オーケストラルヴォイス」というのがあったろう。
付属のレジストデータを分析してみるに、殆どこの別売のディスクにてレジストが作成せられているのだ。
特に酷ったのがFUNKY FOX。
「USER」の音色は、殆ど「コンテンポラリー・ヴォイス」からのお流れだ。
「Scandal」にでてくるSEは、「32:SE3」という音色だ。それが主力的に用いられていあがる。

そんなに別売のディスクが需要あるならば、一層のこと、別売ディスクの音色をプリセット音色にし、後のつかえない音色200個こそ別売の形で供給すべきであろう。

何故、市販の付属レジストデータにプロテクトがかかっているのか。
「著作権の侵害」とヤマハは回答しようが、大いなる虚偽発言。

別売のボイスディスクを使いこなしている関係で、プロテクトがかかっていないと、その音色ばかり使われて別売ディスクの需要がなくなると考えているからだ


レジストデータは、酷くなってくると、外部のPC音源を用いている場合がある。
「FUNKY FOX」や、そのユニットのピンのアルバムを紐解くに、明らかにエレ糞データの音色でないUSER音色があるのだ。
その証拠に、このユニットは、どうもプリセット音色からのヴォイスエディットが下手糞な印象がある。
別売ディスクや、外部のPC音源からの音色を調達しているからプリセット音色に正面切って向き合えないのだ。


外部のPC音源を用いる方法を採るのはプレイヤー達にとどまらない。
海外の違法サイトから全くオリジナルのヴォイスディスクを調達してレジストデータを作成するケースもある。

こんな事件もあったようである。
どこぞの地区のコンクールにおいて、外部のPC音源を用いる方法を採って全くオリジナルの音色を発表した出場者が居たと言う。
審査員だったかが、「エレ糞の音でない!」と突っ込み、それが大問題となり、大層なる揉め事に発展したと言う。

こんな事態になるのも、プリセット音色が余りに不便で使えないからであろう。



ヤマハもヤマハだ。
誌面にわざわざ引っ張り出し、もっともらしい発言の真意を如何に解釈しているのであろうか。
瑛美翁の呈する問題点は、全てヤマハ音楽振興会が作り出しているように思えてならない。
誌面上にて発言させることではなく、企業内部にて発言させることではあるまいか。

ヤマハは、安心してエレ糞を嗜めない環境をつくりだしておきながら、瑛美翁にもっともらしい教育論を垂れさせ、使用者により一層の負担を押し付けようとは絶対に許せないことである。


ヤマハは、これまでにもこのような創世記の面子を集めさせては尤もらしい教育論を垂れさせていた。ヤマハは何を思ってわざわざそのような教育論を垂れさせたのだ。
使用者に一方的に礼儀作法を押し付けるのではなく、使用者が心から瑛美翁ののたまうところの謙虚さが抱ける、安心してエレ糞に嗜める環境づくりに勤しまんとする空気は無かったのだろうか。


なんだかんだ言ってヤマハは結局お金儲けにしか頭に無いように思えてならない。
それで尤もらしい教育論を、創世記の面子に垂れさせるものであるからタチが悪い。


瑛美翁や、道翁も、いいかげんヤマハの取材を受けるなと物申したい。
貴様達の格言、提言は、大切にせられているようで、一つも受け入れられては居ないではあるまいか。

いつも同じような格言、提言を繰り返し提言しているだけ。虚しく当たり一面に叫び声が響いているだけの状態ではあるまいか。


「メカに頼りすぎ」「汗を流し、筋肉を動かして」なんて、一体何年言っているのやら、EL二桁時代から言い続けているわけで、17年間は言い続けていることになる。17年もの間、何等問題は解決していないのだ。これだけ外部からうるさく言われているのに、ヤマハは何等解決の兆しを見出さなかった。

メカに頼りすぎているのは、ヤマハであり、レジストデータを供給している側。
何が「エレパソ」だ。これなんか、メカ依存の産物ではあるまいか。
初心者向けの、「アラモード」も然り。
XGなんて、調子に乗って用いているのは、プレイヤー(というか正式にはパフォーマー、スペシャリストと称せられる人々)の側ではあるまいか。プロの方が、一般者にメカに頼りすぎの風潮を与えたのではあるまいか。


瑛美翁に物申しておく。「汗を流し云々」とのたまうが、その割には、あの「Dance with Me」(昭和53年)の糞アレンジ8曲は何だ。
単に左手は八分刻みのみ。オペラ「魔王」のピアノ伴奏のつもりか。
あれじゃあ幾ら筋肉を動かしても汗なんて流せないし、後で得られるものは虚しさのみ。
こんなの点じゃ
点じゃ。



創世記の面子を呼び、使用者に所謂礼儀作法の徹底を強調しても、根本が変わらないことには、ヤマハの体質が変わらないことにはどうしようもないわけで、相変わらずのエレ糞の惨状を鑑みるとき、筆者は、瑛美翁・道翁の存在意義に果てしない疑問を感じ、「そこに居るだけで」という理由から何の有り難味も感じないわけである。そこに居られることで残る思いは、「だからなに?」という果てしない虚しさのみ。


何だか、この辺りは、「創世記から携わっている」という理由だけでちやほやせられているように思えてくるのである。
「野村克也夫人だから」という理由で注目を浴びた野村サッチー、「スカルノ大統領第3夫人」ということで大御所気取りのデヴィ夫人のようなものではあるまいか。

何故何も変わらないのか。
それはこれから挙げる者達に原因がある。

以下考察してゆきたい。

エレ糞の世界は面白く、奇妙なる構成が採られている。
そのうちの一つで挙げねばならないものが、デモンストレータの存在であろう。

この意味するものは果たして何か、筆者なりに考察してみたい。


デモンストレーション、言ってみれば店頭販売である。それを行う者がこちら、デモンストレータである。エレ糞の販売を推進し、広く一般人民にエレ糞の面白さたるものを主張せんとする趣旨のようである。


エレ糞には、演奏を生業とする者としてプレイヤーと云う存在がある。
単純に演奏を聞かせるならばこのプレイヤーにて事足りよう。それを、エレ糞の世界ときたらわざわざデモンストレータという職を配しているのである。


単純に演奏の楽しさを主張する目的ならば、プレイヤーのみにて事足りるはず。わざわざデモンストレータなどという得体の知れない役割を配置しなくても良いはずだ。それがわざわざ配置せられ、生業として堂々と成り立っているわけであり、何とも奇妙なる気分に駆られる。
趣味の世界ではなく、生業として成り立っているのが不思議だ。
何故、演奏の楽しみ、音楽の楽しみを一般人民に幅広く伝えるためにプレイヤーではなく、わざわざデモンストレータにさせるのであろうか。


筆者は、このデモンストレータをエレ糞文化凋落の原因の一つと考察する。
よく、エレ糞は機能が増えて駄目になったと言われる。
今に始まったことではない。フロッピーが発達した平成以後は幾度と無く古株のプレイヤー陣から指摘せられ続けた。今も飽くことなく指摘せられ続けている。一向にエレ糞のその多機能のもたらす害、悪影響が改善せられる兆しが見えてこないのが不思議で仕方ない。

何故かくもエレ糞文化は改善の兆しを見せんとしないのか。
エレ糞文化の凋落の原因は何か。

一つは茲のカテゴリに挙げた嫌いな人物の存在。
一つは、このデモンストレータの存在である。
このデモンストレータを、無理して生業と位置づけるところに今日の、正確に言えば、20年前から本格的に始動するエレ糞文化の凋落が在るのだ。


考えても見ていただきたい。
何故HS8やHX1はかくも多機能で、操作がやりづらくなっているのか。
もっと素直な配置に出来るはずなのに意図的に操作をやりづらくしているようである。


ELになってからのこと。
かかる名文句を耳にしたことはあるまいか。
「ボイスエディット次第にて、かくも良質の音色が提供できる」という文句を。
「別売のボイスディスクがあれば、プリセット(予め備えられている音色)よりもより良質の音色が提供できる」という宣伝文句も耳にしたことは無かったか。

EL900になってからのこと。
ホリゾンタルタッチと言う世にも奇妙なる演奏方法が確立した。
これを用いているのは一部の人種のみで、大半は700以下を用いているために、エレ糞の市販アレンジはホリゾンタルを考慮せざるものにならざるをえず、何だか宝の持ち腐れと貸してしまった感がある。意義も丸で見えてこない。偉そうなことを云っておきながら、結局既成楽器の物真似機能としてしか確立していない。


捨て字亜(ELS)になってからのこと、何故かタッチパネルとなった。
非常にやりづらくてやる気が失せる。というより完全に失せた。
何故わざわざやりづらいタッチパネルとしたのか。


全てはデモンストレータを生業と位置づけることから始まる。

HS8のことを考察してみる。
この頃、富岡ヤスヤという馬鹿が台頭してきたろう。
よく、操作自慢をしていたはずだ。
ヤマハ関係者も、その操作の巧さには舌を巻く毎日で大変だったとの事。
その操作自慢をするためにわざわざあれほどまでにややこしい機能にしたのである。
若しも、FS・FX以前のつくりならば、かくもデモンストレータは操作自慢が出来なかったろう。
操作自慢をするため、操作自慢にて金銭を頂戴するため、意図的にややこしい機能にし、一般ユーザーを失望に追い込んだと言うわけである。

何故古株のプレイヤーの意見が聞き入れられないのか。
考えてみれば、このエレ糞、ひいてはヤマハ音楽振興会、物凄く音楽家たるものを愚弄しては居なかろうか。本来ならば、ヤスヤよりも古株のプレイヤーの方を大切にすべきであろう。
他にもHS以降の操作のややこしさに辟易した者は数多に存在しているはず。現在もそのことで議論が行われている。改善の兆しは全く見られない。
それもこれも、ヤスヤを初めとするデモンストレータのせいであると筆者には思えて仕方ない。

EL以降も、ボイスエディットの操作はやりやすくはなったものの、相変わらず一般ユーザの手を煩わせており、誰もが気軽に使えるつくりにはならなかった。

それもこれも、デモンストレータの仕事を増やすためである。
操作を意図的に困難にし、操作についての相談の仕事を増やすためである。
考えても見ていただきたい。
エレ糞の操作をこれほどまでにややこしくする意義はどこにあるのだろうか。

音色に付いて考えてみよ。
エディット次第にて素晴らしい音色に変身するのであれば、
初めからその素晴らしい音色をプリセットにするものであろう。
何故わざわざ薄くて質の悪い音色をプリセットにするのだ。
何故良い音色を見つけるのに手間隙のかかる操作を強要するのだ。何故一々エディットを経ねばならないのだ。何故良い音色を見つけるのにわざわざ別売のボイスディスクを購入せねばならないのだ。

それもこれも、全てはデモンストレータの職を増やすために行われてきたものである。
わざわざ悪い音色をプリセットに当てることにより、デモンストレータはエディットに付いての相談の仕事が増えることになる。それについての操作の説明会の仕事が与えられることになる。程度の低い目立ちたがり屋、自己顕示欲の強いバカには打ってつけだ。
別売のボイスディスクの製作の仕事も増えることになる。
ヤスヤのことを考えてみよ。お笑い通を装っておきながら、その実は実に汚らしいではあるまいか。
この悪いつくりがために、ボイスエディットに付いての説明ビデオに出演すると言う仕事が与えられ、ボイスディスク製作と言う仕事が与えられ、リズムの製作と言う仕事も与えられた。

思えばELのリズムは非常に粗悪である。
何故アクセントレベルが0から8と9段階もあるのに、4までしか用いていない。
それもこれも、よりよいリズムを提供するため。
音色データに於いて、より良い音色を提供すると見せかけるためである。

そこに思いやりなどない。全ては自分の利益のことしかない。
ヤスヤは何故かくも笑いに走るのか。真面目さを見せ付けないためか。
断じて違う。かくのごときデモンストレータの裏事情を見せないようにするために笑いに走るのである。
まともな神経の持ち主ならば、ヤスヤのなすこと、洒落はどれもこれも底辺レベル、素人レベルであり、アマチュアトップにすら達していないことに気づくはず。


ヤスヤのライブにて、ボイスエディットを駆使した笑いをしてはいなかったか。
エディットにより、猫の音を出して見せたり、人の喋る声を真似して見せたり。
リズムを駆使し手目覚まし時計代わりに使えるなど、色々つまらない洒落を披露していよう。
エンターテイメントという綺麗ごとではない。全ては己の利益がために行っているだけ。

ユーザーにとって、エレ糞は目覚まし時計だろうか。動物の物真似の道具であろうか。そうした玩具として用いるためにエレ糞を購入したのではあるまい。ひとえに音楽のために購入するわけである。
多様なる機能、考えてみれば殆ど用いないものもあるはずだ。それもこれも、デモンストレータの仕事を増やすための手段に過ぎない。
かくして、普通の神経を抱きし者達はヤマハから離反してゆくわけである。


ステージアになり、何故タッチパネルになったのか。
タッチパネルの操作の自慢をするため。そうした自慢の仕事をつくるため、ただそれだけだ。
実際、ヤスヤは調子に乗ってタッチパネルの操作自慢をしているではあるまいか。
もしも、やりやすい操作にしてしまうと、デモンストレータは仕事がなくなってしまうのだ。
デモンストレータはヤスヤに限らない。数多に散らばっているはずである。
そうした人々の世話のため、今日もエレ糞は複雑なる機能を維持し続けねばならない。如何なる批難を浴びようが、複雑怪奇で多種多様なる機能を維持し続けねばならない。
そういう、非常に悲哀なる運命に立たされているのが今日のエレ糞なのである。


捨て字亜、何が変わったのだ。
複雑なる操作は相変わらず。既存のデータの依存症も一向に治らない。

プリセット音色は充実した。騙されてはいけない。
何故、70年代の音色は是、60年代のロックは是、と、一々指定せねばならないのだ。
60年代のロックはこれと言う決まりは無い。
偶々そういう風潮が在っただけであり、60年代のロックであってもシンセドラムキットを用いるのは大いに許されてしかるべき。それを、ヤマハは許さない。実に狭い感覚であり、開いた口が塞がらない。
かくのごとき狭苦しい感覚により、音色が増えるに反比例して音色のバラエティが減少するという皮肉なる現象が生まれることになる。


この、捨て字亜自慢の多様なるプリセット機能、基本レジストもデモンストレータの仕事を増やすための手段に過ぎない。ユーザに対する思いやりなど1%もない。
ここに登場するが鷹野雅史。これの仕事を増やすためだけに基本レジストは存在している。
「こんな基本レジストで、こんな演奏ができる」ただそういう紹介の仕事を増やすためだけに存在しているのみ。

思えば、ELになり、何故かL.K.が全くならない複雑怪奇なるイントロ・エンディング機能が登場した。これは、この鷹野の馬鹿の製作によるものらしい。
筆者は察知した。この馬鹿の仕事を増やすためにこれほどまでに呆れるばかりのイントロ・エンディング機能を搭載したのかと。
この機能、鷹野の馬鹿にしか扱えない。この馬鹿のためだけのもの。
何故一般ユーザーに強要する。己独りが使っていれば良いだけだろうが。

このイントロ機能をなくすと、機能自慢が出来なくなる。
イントロ機能を用いてかくのごとき表現ができると言う自慢が出来なくなる。
そのためだけにある機能と観てよかろう。

ELのお蔭で、即興演奏は非常にやりづらいものとなった。
グレード試験の即興が流行らないのは、ひとえにイントロ・エンディングのせいである。何故もっと一般ユーザのことを考えない。
驚くことに、何故か講師はイントロはL.K.のみにて演奏するものと考えているのだ。
U.K.のみにて演奏すると間違いなく注意を受ける。
UKにて演奏する所以は、イントロを用いるとL.K.が一切発音しなくなるから。その意義を講師は理解せんとしない。


鷹野のデータ、一度振り返ってみよ。
プリセット音色ばかりであろう。
音色作りに長けているのか。それは断じて違う。
プリセット音色が鷹野雅史のために存在しているからプリセット音色のみにてデータが作られるわけである。
云ってみれば、現在のエレ糞のプリセット音色、基本レジストは、全て鷹野雅史専用の音色であり、本来は、鷹野ご用達の音色にすべきなのである。全てユーザーに位置づけるものであり、本来はプリセットと言う位置づけにすべきではないのである。それをしないのは、機能自慢の仕事を維持し続けるため。筆者の案がまかり通ると、鷹野のバカは職を失うわけなのである。


他にもデモンストレータはあまたに散らばっている。
デモンストレータの層が肥大化しすぎて一般ユーザに優しい手を差し伸べられないのであろう。かくして、一般ユーザにばかり負担を強いられることになるわけである。全てはヤスヤ、鷹野を初めとするデモンストレータのせいだ。

演奏はできるわけであり、わざわざそうしたセコイ手段を用いずとも、普通に演奏家、ひいてはプレイヤーとして食っていけるようにも考えられまいか。何故まともに演奏を以て、根本的実力を以て勝負しないのだ。音楽界に戦いを挑まないのだ。機能関係の仕事を失ったところでそれほど路頭に迷うことは無いはずだ。何故だ。
まともに演奏一筋にて勝負できないからセコイ手段に頼るのだ。もっと云えば、ヤマハ以外の外の世界、普通の世界にて対抗できないためにそうした手段に頼らざるを得ないのだ。

そうした人種を一流のエレ糞・エンターテイナーと位置づけ、勘違いせしめた尚美学園はその時点にてA級戦犯に位置づけ、死刑にすべきなのである。


機能についての批難の風潮は相変わらず。
何故受け入れられないのか。茲に疑問を持ってはいけない。もう少し先の視点を持つべきである。
何故かくも不満のある機能に依存し、大御所を気取らんとするかという視点が大切である。
答えは簡単で、単に大御所を気取りたいから、多機能についての批難を展開するわけである。下記に挙げた英美翁を初めとする使い古しのポンコツ爺や達、バカさんを初めとする経歴の無駄に長い人達は。
多機能についての批難をすると、ユーザーから「流石大御所の見解は違う!」と憧れの眼差しを受け入れられよう。その打算のために批難をするわけである。正義の心など微塵も無い。そこにあるのは目立ちたい、偉く見せたい、そうした自己中心的思考、とんだ自己顕示欲のみである。
そんなこんなで巧く廻っているのがこの世界なのである。
本当に多機能についての批難をする気があるならば、どうして口先にて終わらせず、幾ばくかでも行動に表さんとしない。何故お決まりの批難を展開させるだけ展開して実際に態度にて表さんとし、受け入れんとしない。


エレ糞の機能がややこしいのは風潮如何ではない。
ただ、デモンストレータを失職させないためだけに複雑怪奇なるものとなっている。
今もヤマハに食いつくベテラン達は、大御所気取りをしたいため、機能に頼らないことで憧れの眼差しを受けたいために口先だけの批難をいい気になってしているに過ぎない。

そうした特定の内輪の身勝手さ加減のため、普通の神経を有した、もっと有能なエレ糞好きのプレイヤーが離反してしまったという現実。如何に捉えようか。
酷いと見るか、筆者のこじ付けと見るかは完全に読者の自由ではある。


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