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撲滅・検討の如何を考察、問題を提起
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エレ糞の世界は面白く、奇妙なる構成が採られている。
そのうちの一つで挙げねばならないものが、デモンストレータの存在であろう。

この意味するものは果たして何か、筆者なりに考察してみたい。


デモンストレーション、言ってみれば店頭販売である。それを行う者がこちら、デモンストレータである。エレ糞の販売を推進し、広く一般人民にエレ糞の面白さたるものを主張せんとする趣旨のようである。


エレ糞には、演奏を生業とする者としてプレイヤーと云う存在がある。
単純に演奏を聞かせるならばこのプレイヤーにて事足りよう。それを、エレ糞の世界ときたらわざわざデモンストレータという職を配しているのである。


単純に演奏の楽しさを主張する目的ならば、プレイヤーのみにて事足りるはず。わざわざデモンストレータなどという得体の知れない役割を配置しなくても良いはずだ。それがわざわざ配置せられ、生業として堂々と成り立っているわけであり、何とも奇妙なる気分に駆られる。
趣味の世界ではなく、生業として成り立っているのが不思議だ。
何故、演奏の楽しみ、音楽の楽しみを一般人民に幅広く伝えるためにプレイヤーではなく、わざわざデモンストレータにさせるのであろうか。


筆者は、このデモンストレータをエレ糞文化凋落の原因の一つと考察する。
よく、エレ糞は機能が増えて駄目になったと言われる。
今に始まったことではない。フロッピーが発達した平成以後は幾度と無く古株のプレイヤー陣から指摘せられ続けた。今も飽くことなく指摘せられ続けている。一向にエレ糞のその多機能のもたらす害、悪影響が改善せられる兆しが見えてこないのが不思議で仕方ない。

何故かくもエレ糞文化は改善の兆しを見せんとしないのか。
エレ糞文化の凋落の原因は何か。

一つは茲のカテゴリに挙げた嫌いな人物の存在。
一つは、このデモンストレータの存在である。
このデモンストレータを、無理して生業と位置づけるところに今日の、正確に言えば、20年前から本格的に始動するエレ糞文化の凋落が在るのだ。


考えても見ていただきたい。
何故HS8やHX1はかくも多機能で、操作がやりづらくなっているのか。
もっと素直な配置に出来るはずなのに意図的に操作をやりづらくしているようである。


ELになってからのこと。
かかる名文句を耳にしたことはあるまいか。
「ボイスエディット次第にて、かくも良質の音色が提供できる」という文句を。
「別売のボイスディスクがあれば、プリセット(予め備えられている音色)よりもより良質の音色が提供できる」という宣伝文句も耳にしたことは無かったか。

EL900になってからのこと。
ホリゾンタルタッチと言う世にも奇妙なる演奏方法が確立した。
これを用いているのは一部の人種のみで、大半は700以下を用いているために、エレ糞の市販アレンジはホリゾンタルを考慮せざるものにならざるをえず、何だか宝の持ち腐れと貸してしまった感がある。意義も丸で見えてこない。偉そうなことを云っておきながら、結局既成楽器の物真似機能としてしか確立していない。


捨て字亜(ELS)になってからのこと、何故かタッチパネルとなった。
非常にやりづらくてやる気が失せる。というより完全に失せた。
何故わざわざやりづらいタッチパネルとしたのか。


全てはデモンストレータを生業と位置づけることから始まる。

HS8のことを考察してみる。
この頃、富岡ヤスヤという馬鹿が台頭してきたろう。
よく、操作自慢をしていたはずだ。
ヤマハ関係者も、その操作の巧さには舌を巻く毎日で大変だったとの事。
その操作自慢をするためにわざわざあれほどまでにややこしい機能にしたのである。
若しも、FS・FX以前のつくりならば、かくもデモンストレータは操作自慢が出来なかったろう。
操作自慢をするため、操作自慢にて金銭を頂戴するため、意図的にややこしい機能にし、一般ユーザーを失望に追い込んだと言うわけである。

何故古株のプレイヤーの意見が聞き入れられないのか。
考えてみれば、このエレ糞、ひいてはヤマハ音楽振興会、物凄く音楽家たるものを愚弄しては居なかろうか。本来ならば、ヤスヤよりも古株のプレイヤーの方を大切にすべきであろう。
他にもHS以降の操作のややこしさに辟易した者は数多に存在しているはず。現在もそのことで議論が行われている。改善の兆しは全く見られない。
それもこれも、ヤスヤを初めとするデモンストレータのせいであると筆者には思えて仕方ない。

EL以降も、ボイスエディットの操作はやりやすくはなったものの、相変わらず一般ユーザの手を煩わせており、誰もが気軽に使えるつくりにはならなかった。

それもこれも、デモンストレータの仕事を増やすためである。
操作を意図的に困難にし、操作についての相談の仕事を増やすためである。
考えても見ていただきたい。
エレ糞の操作をこれほどまでにややこしくする意義はどこにあるのだろうか。

音色に付いて考えてみよ。
エディット次第にて素晴らしい音色に変身するのであれば、
初めからその素晴らしい音色をプリセットにするものであろう。
何故わざわざ薄くて質の悪い音色をプリセットにするのだ。
何故良い音色を見つけるのに手間隙のかかる操作を強要するのだ。何故一々エディットを経ねばならないのだ。何故良い音色を見つけるのにわざわざ別売のボイスディスクを購入せねばならないのだ。

それもこれも、全てはデモンストレータの職を増やすために行われてきたものである。
わざわざ悪い音色をプリセットに当てることにより、デモンストレータはエディットに付いての相談の仕事が増えることになる。それについての操作の説明会の仕事が与えられることになる。程度の低い目立ちたがり屋、自己顕示欲の強いバカには打ってつけだ。
別売のボイスディスクの製作の仕事も増えることになる。
ヤスヤのことを考えてみよ。お笑い通を装っておきながら、その実は実に汚らしいではあるまいか。
この悪いつくりがために、ボイスエディットに付いての説明ビデオに出演すると言う仕事が与えられ、ボイスディスク製作と言う仕事が与えられ、リズムの製作と言う仕事も与えられた。

思えばELのリズムは非常に粗悪である。
何故アクセントレベルが0から8と9段階もあるのに、4までしか用いていない。
それもこれも、よりよいリズムを提供するため。
音色データに於いて、より良い音色を提供すると見せかけるためである。

そこに思いやりなどない。全ては自分の利益のことしかない。
ヤスヤは何故かくも笑いに走るのか。真面目さを見せ付けないためか。
断じて違う。かくのごときデモンストレータの裏事情を見せないようにするために笑いに走るのである。
まともな神経の持ち主ならば、ヤスヤのなすこと、洒落はどれもこれも底辺レベル、素人レベルであり、アマチュアトップにすら達していないことに気づくはず。


ヤスヤのライブにて、ボイスエディットを駆使した笑いをしてはいなかったか。
エディットにより、猫の音を出して見せたり、人の喋る声を真似して見せたり。
リズムを駆使し手目覚まし時計代わりに使えるなど、色々つまらない洒落を披露していよう。
エンターテイメントという綺麗ごとではない。全ては己の利益がために行っているだけ。

ユーザーにとって、エレ糞は目覚まし時計だろうか。動物の物真似の道具であろうか。そうした玩具として用いるためにエレ糞を購入したのではあるまい。ひとえに音楽のために購入するわけである。
多様なる機能、考えてみれば殆ど用いないものもあるはずだ。それもこれも、デモンストレータの仕事を増やすための手段に過ぎない。
かくして、普通の神経を抱きし者達はヤマハから離反してゆくわけである。


ステージアになり、何故タッチパネルになったのか。
タッチパネルの操作の自慢をするため。そうした自慢の仕事をつくるため、ただそれだけだ。
実際、ヤスヤは調子に乗ってタッチパネルの操作自慢をしているではあるまいか。
もしも、やりやすい操作にしてしまうと、デモンストレータは仕事がなくなってしまうのだ。
デモンストレータはヤスヤに限らない。数多に散らばっているはずである。
そうした人々の世話のため、今日もエレ糞は複雑なる機能を維持し続けねばならない。如何なる批難を浴びようが、複雑怪奇で多種多様なる機能を維持し続けねばならない。
そういう、非常に悲哀なる運命に立たされているのが今日のエレ糞なのである。


捨て字亜、何が変わったのだ。
複雑なる操作は相変わらず。既存のデータの依存症も一向に治らない。

プリセット音色は充実した。騙されてはいけない。
何故、70年代の音色は是、60年代のロックは是、と、一々指定せねばならないのだ。
60年代のロックはこれと言う決まりは無い。
偶々そういう風潮が在っただけであり、60年代のロックであってもシンセドラムキットを用いるのは大いに許されてしかるべき。それを、ヤマハは許さない。実に狭い感覚であり、開いた口が塞がらない。
かくのごとき狭苦しい感覚により、音色が増えるに反比例して音色のバラエティが減少するという皮肉なる現象が生まれることになる。


この、捨て字亜自慢の多様なるプリセット機能、基本レジストもデモンストレータの仕事を増やすための手段に過ぎない。ユーザに対する思いやりなど1%もない。
ここに登場するが鷹野雅史。これの仕事を増やすためだけに基本レジストは存在している。
「こんな基本レジストで、こんな演奏ができる」ただそういう紹介の仕事を増やすためだけに存在しているのみ。

思えば、ELになり、何故かL.K.が全くならない複雑怪奇なるイントロ・エンディング機能が登場した。これは、この鷹野の馬鹿の製作によるものらしい。
筆者は察知した。この馬鹿の仕事を増やすためにこれほどまでに呆れるばかりのイントロ・エンディング機能を搭載したのかと。
この機能、鷹野の馬鹿にしか扱えない。この馬鹿のためだけのもの。
何故一般ユーザーに強要する。己独りが使っていれば良いだけだろうが。

このイントロ機能をなくすと、機能自慢が出来なくなる。
イントロ機能を用いてかくのごとき表現ができると言う自慢が出来なくなる。
そのためだけにある機能と観てよかろう。

ELのお蔭で、即興演奏は非常にやりづらいものとなった。
グレード試験の即興が流行らないのは、ひとえにイントロ・エンディングのせいである。何故もっと一般ユーザのことを考えない。
驚くことに、何故か講師はイントロはL.K.のみにて演奏するものと考えているのだ。
U.K.のみにて演奏すると間違いなく注意を受ける。
UKにて演奏する所以は、イントロを用いるとL.K.が一切発音しなくなるから。その意義を講師は理解せんとしない。


鷹野のデータ、一度振り返ってみよ。
プリセット音色ばかりであろう。
音色作りに長けているのか。それは断じて違う。
プリセット音色が鷹野雅史のために存在しているからプリセット音色のみにてデータが作られるわけである。
云ってみれば、現在のエレ糞のプリセット音色、基本レジストは、全て鷹野雅史専用の音色であり、本来は、鷹野ご用達の音色にすべきなのである。全てユーザーに位置づけるものであり、本来はプリセットと言う位置づけにすべきではないのである。それをしないのは、機能自慢の仕事を維持し続けるため。筆者の案がまかり通ると、鷹野のバカは職を失うわけなのである。


他にもデモンストレータはあまたに散らばっている。
デモンストレータの層が肥大化しすぎて一般ユーザに優しい手を差し伸べられないのであろう。かくして、一般ユーザにばかり負担を強いられることになるわけである。全てはヤスヤ、鷹野を初めとするデモンストレータのせいだ。

演奏はできるわけであり、わざわざそうしたセコイ手段を用いずとも、普通に演奏家、ひいてはプレイヤーとして食っていけるようにも考えられまいか。何故まともに演奏を以て、根本的実力を以て勝負しないのだ。音楽界に戦いを挑まないのだ。機能関係の仕事を失ったところでそれほど路頭に迷うことは無いはずだ。何故だ。
まともに演奏一筋にて勝負できないからセコイ手段に頼るのだ。もっと云えば、ヤマハ以外の外の世界、普通の世界にて対抗できないためにそうした手段に頼らざるを得ないのだ。

そうした人種を一流のエレ糞・エンターテイナーと位置づけ、勘違いせしめた尚美学園はその時点にてA級戦犯に位置づけ、死刑にすべきなのである。


機能についての批難の風潮は相変わらず。
何故受け入れられないのか。茲に疑問を持ってはいけない。もう少し先の視点を持つべきである。
何故かくも不満のある機能に依存し、大御所を気取らんとするかという視点が大切である。
答えは簡単で、単に大御所を気取りたいから、多機能についての批難を展開するわけである。下記に挙げた英美翁を初めとする使い古しのポンコツ爺や達、バカさんを初めとする経歴の無駄に長い人達は。
多機能についての批難をすると、ユーザーから「流石大御所の見解は違う!」と憧れの眼差しを受け入れられよう。その打算のために批難をするわけである。正義の心など微塵も無い。そこにあるのは目立ちたい、偉く見せたい、そうした自己中心的思考、とんだ自己顕示欲のみである。
そんなこんなで巧く廻っているのがこの世界なのである。
本当に多機能についての批難をする気があるならば、どうして口先にて終わらせず、幾ばくかでも行動に表さんとしない。何故お決まりの批難を展開させるだけ展開して実際に態度にて表さんとし、受け入れんとしない。


エレ糞の機能がややこしいのは風潮如何ではない。
ただ、デモンストレータを失職させないためだけに複雑怪奇なるものとなっている。
今もヤマハに食いつくベテラン達は、大御所気取りをしたいため、機能に頼らないことで憧れの眼差しを受けたいために口先だけの批難をいい気になってしているに過ぎない。

そうした特定の内輪の身勝手さ加減のため、普通の神経を有した、もっと有能なエレ糞好きのプレイヤーが離反してしまったという現実。如何に捉えようか。
酷いと見るか、筆者のこじ付けと見るかは完全に読者の自由ではある。
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ネット上では、顔が見えず、あまたの場所からの閲覧であり、皆が見ているわけであり、発言には逐一気を遣わねばと言われる。

ネット上のみならず、苦慮するのはバカの思考に対する処理如何である。


実に腹立たしく思う一件があり、未だに疑問に思えてならない憎らしき一件を取り上げ、検証・批難したく思う。


発端は、あるバカ小母Cの発言から始まる。
このCの子息Dが、音楽コンクールの予選を見事通過したらしく、喜びに暮れるC、更なる精進を目指さんと、Dを鍛え上げる意欲に燃えているという。店別大会を通過せしめ、地区、県と進ませるつもりなのであろう。
調子にのったか、このC、「鬼ママと呼んで下さい」とのたまう始末。

そこで、筆者は、「それじゃあスパルタマザーで(如何でしょう)!」といった旨の突っ込みの書き込みをしてやった。純粋にのり突っ込みである。

ところが、この発言が何故か重苦しい空気にしたらしく、このC、何故か
「別にスパルタではありません」と逆ギレする有様。

「『鬼ママ』と呼んで下さい」という意気込みはどうしたのやら。何故「鬼ママ」はよくて、「スパルタマザー」はいけないのだ。似たようなものだろ。
初めからそのようなのり突込みが不快に思うならば、軽々しく「鬼ママと呼んで下さい」などとのたまうなバカ母というのだ。
そんなことだから子供一人ろくに育てられないのだよこの穢多痴枯


周りはどうしたか?どういうわけか筆者はすっかり悪者扱いせられる有様。
「鬼ママと呼べ」というからその誠意に応えたというのに、何故者扱いせねばならないのだ。
そのことをCに物申してやると、C曰く、

「だって『Cさん悪口を言っている』とメールが来るんだよ?そういうわたしも悲しい」と。


「掲示板は皆がみるんだよ?」だとな。
だからどうしたというのだ。わからないバカはわからなくてよい、泣かないホトトギスは死あるのみというのが、筆者の信条である。


筆者は、「スパルタマザー」というのり突っ込みを「悪口」と解するその神経に途方もない怒りを感ずる。何という表面的解釈、いな、表面的解釈どころか、曲解もはなはだしい。
Cは「鬼ママと呼べ」と列記とした根多フリをしており、筆者はそれに答えただけ。

正直なところ、筆者は「悪口」と解釈するその頭脳が理解できない。


本来、
Cは悪口と解釈したバカに対して怒りの矛先を向けねばならないはずなのに、何故か「悪口」と解釈したバカの味方になって筆者を誹謗する有様。

あのさあ、初めから「スパルタ」なんていわれるのが不快に思うのならば、「鬼ママ」なんて呼ばせようなんてさせないでくれる?
バカもさることながら、このCも凄く無責任極まりない。この程度の冗談が「悪口」としか捕らえられない浅はかなる頭脳の持ち主に、軽々しくブラックユーモアなど用いるべきでない。そのあたりも、筆者はCに対して尋常でない怒りを覚える。



このお陰ですっかり筆者は悪人扱いせられ、とんでもなく悪印象をもたれたようである。
勿論、筆者はこれに媚びてたまるかと思い、結局かくして遅ればせながら、あの時の怒りの心情を綴っている有様である。


何故、Cは、バカの見解を支持したか。
答えは簡単、人脈第一だからである。

このような表面的見解すらできないバカが多数を占めていたらしい。その多数の人脈に入ることがCには幸せなことと考えたのであろう。ふざけるのも大概にしろというのだ。

Cは、ネット上にてあまたの友人を集めんと努力し、日常生活に於いても主婦仲間に囲まれているのだという。

それがどうしたというのだ。


なるほど人脈を拡げれば拡げたなりに外の世界、知られざる世界を堪能できる楽しみはあろう。

このCを見ると、明らかに不自然な見解なのに多数だからと人脈を気にして筆者の正当なる見解を否定しているような感じで、人脈の多さを満足しているようにとても思えなかったし、兎に角人脈が広ければそれでよしという浅はかさが滲み渡っており、楽しみどころか、その綱渡り的人間関係に吐き気を催してしまった。
そんなにまでして人脈を拡げ、友人を多く擁して満足で居られるのか。勿論広い人脈に快感を覚えるから人脈の拡大に固執しているのであろう。
それならばそれでよいのだが、筆者にその楽しみを押し付けないでいただきたい。


筆者は、たとえ人脈こそ狭かれ、自身の信念・信条を厚く、頑なに貫き通す者に強い憧れを覚え、強い信頼の心を抱く。

殊に、明らかに多数派のバカの見解、「スパルタマザー」発言を悪口と捉える見解を正さねばならないのに、そのような行動をとると、自身の人脈が狭まってしまうからとして筆者の正しい見解を悪と捉え、多数派に迎合してしまう姿勢、余りにカッコウ悪すぎで開いた口が塞がらない。

人脈に、友達関係に余裕があれば、多数派の間違いに迎合する必要はないし、迎合しないでフォローできるはずなのだが。

間違いを間違いと正面切って物申せず、是非が問えないままにだらだらとひたすらに都合良く肯定意見を言い合うだけの表面的関係のどこに、意義ある人脈と言える要素があろうか。


こんなバカなCが音楽教室を開き、高い月謝を取ってのんびり暮らしているというのだから、日本人の音楽教育が低く見られて当然である。


そのCは、「掲示板は、みんながみているから」ということで、如何なる節度ある態度を示しているというのだろうか。


ある日、家の修理工が訪ねて来て、その修理工が木村拓哉に似ていたらしく、浮気を考えたらしい。主人を捨てて、その修理工と再婚したいといった旨の書き込みをする始末。

これって物凄く主人に対して不愉快至極に思えるのだが、そのような解釈をしたのは筆者だけなのであろうか??


Cよ、おのれは自分の趣味の為に主人にどれだけ迷惑をかけているのか自覚しているのか。
おのれのくっだらない教室の為に、維持費はバカにならない状態のはず。ピアノの他に、エレ糞なんてものも無理して教えるとなると、楽譜の購入やら他の雑用等で、どれだけ費用がかさんでいることやら。そのようなわがままを許してくれている懐広き主人のはずなのに、「木村拓哉に似ているから」という理由だけで、主人を乗り換えんとするその姿勢。これが、悪口として捉えられず、平然とまかり通っているCの友人関係。

筆者は、これこそ不適切発言に思えてならない。何故これが不愉快に捉えられないのか。
この発言をしたCこそ、糾弾せられてしかるべきである。


木村拓哉に似ていれば、後は何をせずともよいのか。
今やっている教室だなんて、二度と続けさせてもらえない可能性がある。

何より、子供達はどうするのだ。木村拓哉に似ているからというだけで父親を変えられてはたまったものではないだろう。なんと不謹慎なる母親であろうか。子供に対する配慮がまるで欠けている。

筆者がこのCの子供の立場ならば、一瞬で非行に走ることであろう。
保険金殺人をたくらみ、Cを殺害後、八木茂死刑囚と江頭2:50と共に、埼玉県にあるスナック横浜にて明るく飲み会を開いていたことであろう。

どうりで子供がきちんと育てられなかった前科ができちまうわけだな(禿藁


筆者は、この顔を基準で男の良し悪しを決めるというベタベタな姿勢が実に不愉快に感じて仕方ない。実の所、2枚目と呼ばれる男性陣は、その特性に甘え、中身が欠如しているのが実のところではなかろうか。
この浅はかなる笑わせ方、非常に低次元に思えるし、筆者の普通の突っ込みを悪口としか捉えられない分際でブラックユーモアを吐くなというのである。


露骨な態度を見せたこともある。
このC、「好きな(エレ糞)プレイヤー」ということで、「窪田宏、富岡ヤスヤ、塚山エリコ」を指折りのお気に入りとして挙げていあがった。
「松田昌は?」というと、ポップスの頃(恐らく昭和50年代のことであろう)は好きだったが、今は癒し系に走っているから好きではないとのことであった。

ところがどっこいである、この松田昌が名古屋地区にてレッスンを開くことになった。
その途端にCは「好きなプレイヤー」に「松田昌」を書き加え、掲示板に「レッスンを受けたい」と神妙な面持ちで書き込みをするフリをする有様。

この姿勢、筆者の「スパルタマザー」よりもよほど問題行動に思える。Cよ、お前「塚山エリコ」の上に松田昌の名前を書いてたろ。その分際で「エリコ先生~~」などと媚売ってんじゃねえよヴォケが(糞



何年か経ち、何故かCのHPは閉鎖せられていた。
荒らしが来たから?

否。「良くない掲示板に貼り付けられたから」それだけ。


あのぉ~~~~、
HPってみんなに見られるものなんすけど??


たとえ、そのCののたまうところの「良くない掲示板」に貼り付けられていなくとも、当該掲示板利用者が貴様のHPを閲覧している可能性は充分にある。

何やら、Cの住所と思しき書き込みが、当該掲示板に行われたとかで、子供が誘拐せられるのではという恐怖感にさいなまれたのだという。


それじゃあどうしてそんなに大事な子供の写真をHPに掲載していたんでしょうかねぇ~~(嘲笑


全く貴様は講師失格、母親失格、家内失格、頭脳失格、勿論お笑い失格、ひいては人間失格。
ったく救いようがないね。



もうはっきり言ってしまうが、ヤマハ音楽教室の講師陣って、月謝を何と心得ているのだろうか。
実力はどうあれ、金をとっている以上、立派なプロである。

プロ気取りであれこれHPに公開していたはず。「掲示板は皆が見ているから」と豪そうにのたまっておきながら、己は「良くない掲示板に貼られたから」と、あっさり閉鎖する有様。


結局、「皆が見ている」という認識がなかったのである。
兎に角、都合のよいイエスマンがよってくれればそれで満足という、実に浅はかなホームラン級のバカだったのである。
そんな分際で、月謝10千円を平気でもぎとるヤマハ音楽教室の講師たち、
まったく開いた口が塞がらない。


話を初めの「スパルタ」発言云々に戻したい。


ブラックユーモア(ここでは「『鬼ママ』と呼んで下さい」発言)をフリで用いるならば、その返しにも敏感であるべきであり、的外れの見解に動じない姿勢を以て使用すべきである。

筆者の「スパルタ」発言には、単なる返しのほか、ブラックユーモアに対する返しに対して敏感であるべきよう、余裕ある環境を願っての意味合いが込められている。筆者ならばまだしも、いつかもっと心無き返しがやってくる可能性も十二分にある。掲示板はあまたの者が全世界からみているわけである。如何なる返しにも敏感であるべきであり、いつかどうしようもなく険悪なる状況に陥ったときに、どこまでユーモアを以て対応できるか、いや、そのような状況下に対しても笑いの心を損なうことなくユーモアを以て心無き突っ込みに対処していただきたい、そのような切実なる願い、計算が込められているわけである。


「スパルタマザー発言」を「悪口」と解釈したバカ講師達よ、どうせヤマハ講師陣だろう、そのような的外れな解釈をしていい気になっているヤマハ講師陣よ、筆者は、一つの書き込みをする際には、これだけの計算や思いを込めている。貴様らよりもよほどはるかに勉強しているだろう。

最近、ヤマハ講師陣は、一般教養の習得を義務付けられているようであるが、その前に、楽典の知識をもっと習得せしめるべきである。
ヤマハ講師陣って、プロ意識がないのかどうかわからないが、どうして音楽記号とか覚えていないのであろうか。
例:メゾスタッカート:「上にテヌートがついているから」と何とテヌートと解釈させた。
   知識なくても類推で意味が把握できるのに、それができないバカ講師。
  riten.:なんとこれを「ラテンロック」と解釈する始末。
string.:これにいたっては「ストリングス」と解釈してさあ大変。以下略。

これで指導・演奏・ピアノグレード4級?ふざけるなと物申したい。


こんな馬鹿げた人脈など、こちらからお断りであり、迷うなく、我が代表、堂々退場す。
エレ糞には名曲も幾ばくかは存在する。
中には数多の者にアレンジを施され、親しまれているものも存在する。
その一つが、これから採り上げる「海溝」。

昭和55年発表作品。塩谷哲師が、どこぞの中学校に在学中に作曲せられ、発表せられたもので、合歓(ネム)の郷にて、JOCと略される、ジュニアオリジナルコンサートにてあまりに有名な1曲である。


その後、どこぞの世界にて多用なる形にてアレンジ、改変が為され、吹奏楽の世界においても幅広く知られている。吹奏楽バージョンに関しては、久石譲師が、昭和56年に吹奏楽アレンジを発表、以後はこのアレンジが「海溝」として吹奏楽の世界に幅広く知れ渡ることになった。



「海溝」は、元はエレ糞のための曲であり、GX-1のためのアレンジが元である。

本場の世界においては、短調のテーマが広く知れ渡っている。

有名なるアレンジとしては、
三原善隆アレンジ(昭和57年発表、出典は「5セレクションズ」)、
矢口理津子アレンジ(平成4年発表、出典は「サウンドイン6ファンタスティックサウンド」)、
柏木玲子アレンジ(平成13年発表、出典は「パーソナルシリーズ 柏木玲子)。

他に、雑誌にてアンサンブルアレンジがあったり、初級者用に久石バージョンのアレンジをさらに簡単にした譜面が出回っている。


「海溝」を知る者には、しばしばかかる発言をする。曰く、
「長調の部分が抜けている」と。

実は、大層ロングランな構成の曲らしく、譜面は短調の部分のみを取り上げているにすぎないという。


平成13年、柏木師が「海溝」のアレンジを出されるということで大層なる話題になった。
原曲のサイズが期待できる、原曲に近いアレンジが期待できると騒がれたものであった。


実際にふたを開けてみると、長調らしきフレーズが見つからない。
結局長調の部分はカットせられた、従来どおりのサイズのアレンジということであった。

これまで聴いたことのないイントロのフレーズがあるのが大いなる特色であったといえようか。
そのイントロは、塩谷師本人のアレンジを引用しているとのことであった。
実際に演奏してみるに、どうも退屈で仕方なかった。
どうにも泥臭く、心地よさが生まれない。付け足しの感が強すぎるように思えた。

師は、「g mollと思わせておいてcis mollのテーマに入る、意外性に溢れた巧みなる手法」と自慢していたが、筆者にはその意義たるものがさっぱり理解できなかった。


柏木師によると、本当はcis mollであり、一般に知られているもの(c moll)よりも半音高い構成だという。黒鍵だらけで、とにかく弾きにくいという。


偶然にも、なにがしレコード店の閉店セールにて、LP「昭和55年度JOC作品集」が手に入り、「海溝」の原曲を聴く機会に恵まれた。

本人のコメントは、
「海溝の深いイメージを曲にしました」
それだけ。それだけかよ!


いざ蓋を開けてみるに、本当にcis mollで、ものすごく暗い曲想である。
イントロは、gis moll。gis Aeolianというべきか。
クールで悲しみに満ちていて、思わず心惹かれてしまいそうなフレーズである。

例の、gisと思わせておいてcis mollのテーマに入ってゆくところなど、本当に意外性溢れる展開で、その神秘性に虜にならずには居られなかった。

Gis音を伸ばしておき、静かにcis mollのテーマを発信させる。
このGisの線は非常に重要。なんという流麗なる線であろうか。

テーマに入るところ、リズムがなく、静寂に溢れており、非常に暗く、物悲しい雰囲気である。誰かの魂を弔っているかのような敬虔なる空気さえ感じ取れる。


何とも不思議に思ったのが、本家のイントロは、ものすごく神秘的で、イントロからテーマに入る間や、その意外性あるコード進行に思わず心がときめき、あっという間の出来事だったのに対し、柏木師のアレンジしたものは、同じ譜面のはずなのに、ものすごく冗長で、ものすごく眠く感じ、苦行の時間でしかなかったことである。イントロからテーマに入る間など、強引至極で、つながりのかけらなど微塵も感ぜられない。同じ譜面なのに、だ。主たる相違点は、半音高いか、ただそれだけである。

わずかそれだけの違いが、これだけの味わいの相違を生んでしまうというのか。これだけ聴き心地というものに影響を及ぼすというのか。
調というのは、それだけ重要なる役割を占めているというのか。

特にイントロは、gとgisとであまりに印象が違いすぎる。このイントロは、gisのために生まれたものなのであろう。にしても、これだけ印象が変わるのはにわかに信ぜられない。



実のところ、柏木師のアレンジには物申したい点が幾つかある。
わざわざ半音下げていることはさておき、イントロからテーマに入らんとするところである。


本家は、「G#sus4ーG#mーC#m(以下テーマが展開せられる)」のところ、
師のは、「Gsus4ーCm」になっている。
文字にて表しただけでは、G#mに相当するコードが抜け落ちているだけに思えるが、この差は相当に大きいように思う。Gsus4で終わるため、落ちたのか落ちていないのかよくわからないし、誤魔化しの空気も感ぜられ、妙なぎごちなさが漂うことになる。その状態で、「意外性溢れる展開」と強調せられても、こちらは疑問符が頭に浮かぶのみで何の感動や驚愕の念も生まれない。
sus4で終わらせるコード進行は、馬鹿か無芸なアレンジャーが格好をつけるためによく用いるやり方であり、名曲たる海溝にはふさわしくなかろう。

間も悪い。師のアレンジは、無理してリズムを入れるため、イントロからテーマに入るのに丸1小節空けているのだ。リズムを入れる以降の展開は、FD AUTOにて演奏できるように配慮した結果のことであるが、この間は感心しがたい。「海溝」を演奏するに当たり、あまりに不適切な1小節である。筆者に言わせると、ここからリズムを入れるという魂胆が気に喰わない。

本家は、イントロの終わった後、ほぼ直行の形でテーマに入っていた。
落ちたと思しき展開から、新たなるcis mollのテーマが流れ込んでくるわけである。その意外性に感動するとともに、gis Aeolianスケールからは、cis mollのドミナントがごとき働きが透けて見え、流麗なる流れにまた違った感動を覚えることになる。


本家のこの部分、本当に黒鍵だらけで、手も思い切り伸ばさねばならない、難関至極な箇所であるが、妥協は禁物である。ここは原曲の調で行かないことには、何の感動も生まれない。


サビのところ、E durが透けて見える、やや明るい色彩の展開となる。リズムはこのあたりから入る。
本家は、Piu Mossoを見せていた。ロングランの展開のため、原曲どおりのサイズの場合は、Piu Mossoすべきなのやもしれない。
暫くしてテーマに戻る。戻るところ、ドミナントの代理コードを用いているのが心地よい。

そのテーマの部分が終わり、3拍子になる。奇妙なコード進行を見せ、D durとなる。
このD durというのが、失われた長調の部分である。快活なるテンポの3拍子で、可愛らしいメロディ。海にて遊ぶ魚たちが目に浮かぶ。そこには、母親とすごした楽しき毎日が透けて見えると評する者も居る。
3拍子の部分、ドミナントコードのあとにフラットの6度のコードをぶち込むという進行にはただただ驚愕するのみ。尋常でない努力の姿勢が感じ取れる。

3拍子の部分にもいろいろあり、大まかにはD durとF durの部分があることになる。Fの部分は、テーマ→アド・リブという展開がある。アド・リブは、明らかにGXならではの音色であろう。他の楽器では出ないように思われる。海洋にて遊ぶ海水生物たちの生き生きとした姿が目に浮かぶ。

ブリッジの部分は、C durになったりEs durになったり、一言では表せない展開をみせる。ドミナントペダルが良き緊張感を生み出している。

そうこうしているうちに、c mollを思わせる展開となり、ドミナントコードがやってきて、有名な短調のメロディに舞い戻ることになる。

茲でまた不思議で意外性ある発見をすることになる。
短調のテーマに戻るとき、単純に「D.S.」と言いたい所であるが、これは間違い。
なんと、c mollになっているのだ。
c mollにて短調のメロディ、初めはcis mollにて奏でていたメロディを、c mollにて奏でるのだ。

これにはやられた。普通は、素直に「D.S.」するであろうところを、本家は敢えての形を以てか、c mollにて奏でる。これにより、どこか落ち着きある雰囲気をかもし出すことになる。

母親の魂を、楽しい思い出の日々を海底に鎮める決心がついたかのような落ち着きが感ぜられるのだ。


c mollにて演奏となると、「原曲は世間に知られている調より半音高い」という見解は虚偽ということになる。大枠はこの見解で十分なのであるが、言葉足らずではある。


市販のアレンジを半音上に上げて演奏しても一緒。海溝は、それでことが済む様な拙作ではない。
現に、広く知られているc mollのメロディが原曲の中に組み込まれているのだ。

サビはEs dur。市販のアレンジをそのまま半音上に転調させると、このあたりにおいて不具合が発生する。無駄に明るくなり、海溝の有する悲しみが打ち消されてしまう。

Codaは、同主調へ転調となる。
イントロのフレーズをes mollへ転調させた形となっている。


柏木師のアレンジの不満は、このCodaの処理。
原曲とはまったく異なっており、その書き換えがとにかく下手糞。如何にも無理してくっつけたのが丸わかりで、ここで筆者は強靭なる睡魔に襲われることになる。

原曲のCodaをそのまま引用するのはどうも腑に落ちないとの判断があったのだろうが、このCodaの処理はひどい。

やはり原曲のCodaが一番であり、このCodaを生かしたいとなると、原曲サイズにて演奏する必要が出てくる。



ヤマハ関係者は、この本家のアレンジを、「JOC臭が漂う」として忌み嫌い、馬鹿にしている心意気すら感じ取れる。とんでもなく忌忌しき事態であり、筆者に言わせれば、本家のアレンジが一番。
文句なしの満点。ここで言う満点とは、「作曲の意図が完全に感じ取れる」という意味合いに受け取っていただきたい。

この海溝のメロディは、塩谷師本人の意図したアレンジにより生きてくるものであり、その他の構成にした場合、あちらこちらで不具合が発生し、大事には至らずとも、塩谷師の意図はまったく生きてこない。


ヤマハ関係者の馬鹿にした見解を重んじてか、あまりにも弾きづらい構成を改善せんとする思いやりの表れからかどうかは知らないが、この「海溝」の発表から2年後に登場したのが、三原善隆アレンジである。茲では、イントロとエンディングのフレーズはまったく単調なるものに書き換えられ、テーマはいわゆる半音下げられた格好になり、単純なる「テーマ→アド・リブ→テーマ」といった構成のジャズロック調のアレンジとなってしまった。

原曲は黒鍵だらけで非常に弾きづらい。半音下げると、白鍵だらけで弾きやすいものとなる。ヤマハ関係者には弾き易く、親しみやすいものに映って当然か。「JOC臭い」と馬鹿にする土壌では、ますます三原アレンジの評価は高まろう。かくして、三原アレンジが「海溝」として広く知れ渡ることになってしまった。このアレンジの発表は57年、翌年にはグレードの課題曲としてJOC曲が課せられることになった。「海溝」は、三原アレンジが知れ渡っているからといことで、原曲は課題曲からはずされてしまったのである。何と忌忌しき展開であろうか。


実のところ、三原アレンジは、「海溝」の名を用いるべきではない。これはアレンジではなく、「変奏曲」である。「モチーフ即興」というべきか。

三原は、原曲におけるc mollのフレーズをテーマとして用い、サビはEs durのメロディを用いる。アド・リブはそのコード進行をスケールとしたものである。ここは、グレード試験の即興演奏にていうところの2コーラス目の位置に相当しよう。
c moll→Es durのメロディを用いた変奏曲であり、本来の意味における「海溝」ではない。海溝はこのメロディがすべてではない。上記にて示したとおり、三原が操っているc mollの部分はほんの一部分に過ぎない。これが「海溝」として知れ渡るとはなんとも嘆かわしい。

親しみやすいといわれるが、筆者は非常に親しみにくい。同じ展開が続くため、意外性など生まれないし、どこか無理を感じてしまう。原曲を知らない者にとってはこれで満足できようが、原曲を知ってしまうとどうも要領の良さ、ずる賢さばかり感じ取れてしまう。
この曲は、テーマ→アドリブ→テーマという、いわゆるジャズ・ロックの展開にはふさわしくない。もしもその形がふさわしいならば、塩谷師は初めからジャズロック調のアレンジにしていたはずである。どうしてあのような弾きづらく、大河調の展開にしたのか。それが一番ふさわしい曲想だからそうしたのである。もっと曲の根底に流れる意図たるものを察知すべきである。


曲は、個人の思いのままに操るのが最も素晴らしい。「ああせよ、こうせよ」とは一切言わない、というのがヤマハ音楽教育ではなかったのか。


三原アレンジの不満は、テーマに入る前のドミナントコードの処理。
G7ミクソリディアンスケールと、同Hpm5↓を2拍ずつ配置している。G7の次にくるのはCmだ。ミクソリディアンスケールを置く必要がどこにある。素直にHpm5↓1つで事足りよう。
おそらく、「ミ(ナチュラル)ーミ(♭)ー/レ」というカウンターラインを聞かせたくてそのような無理ある配置にしたのであろう。なんだか、アレンジ初心者がテンションというものに固執しすぎてやらかす失敗状態ではあるまいか。


柏木師のアレンジも、長調になる部分は剥ぎ取られ、単調なるアド・リブパートになっている。原曲どおりの譜面に一部なっているため、冗長な感じのする三原アレンジという印象になってしまっている。
どれもこれも半端で、あまり普及していない。



矢口理津子アレンジは、無難ではあるものの、EDの処理はやはり腑に落ちない。どこか違和感を感じてしまう。



全体的傾向を見ると、アレンジは三原で、音色は矢口で、といった具合である。
筆者は、原曲にかなうアレンジはないと思えて仕方ない。

点数を付すとなると、上記に挙げた有名なアレンジについては、上から0.5点、3点、0点である。


柏木師のアレンジには尋常でないくらい辛口評価になっている。
厳密には、これは柏木アレンジではない。リズム・プログラミングには日下奨太郎が加わっており、音色もどうも日下臭く、本来ならば日下奨太郎アレンジとすべきである。


柏木師の意向はほとんど通っていないのではなかろうか。柏木師にとって、調というのは絶対の存在であったはずだ。
筆者のような参加賞どまりの平民ですら、「海溝」の調の重要性をいたく痛感するし、半音下げて演奏し、長調その他をみすみす抜き取られた半端なアレンジに怒りを覚える。柏木師ならばどれだけ不満がたまっていたことかと思うと、なんだかいてもたってもいられない思いに駆られる。

柏木師はグレード1級。1級というのは認定級で、ヤマハが認めた者に送られる、異端の地位にある級で、試験を受けて取得できるものではない。ヤマハが貢献度他を判断することで与えられる。ヤマハが認めた者の意向を通さないでどうする。



本家のサイズにて演奏せんとなると、7分強、場合によっては8分20秒は覚悟せねばならない。コンクール出場は絶望的となるのであろうが、今は、フリーのサークルがはびこっており、コンクール以外にて発表する機会はあまたにあるはず。そこで存分に「海溝」の有する神秘性を発揮すればよい。




久石譲のアレンジを忘れてはなるまい。
こちらは1点。
なんといっても、イントロをg mollにしているのが最大に気に入らない点。

長調の部分を再現してくれているのはありがたいものの、Des durにて統一しては居なかったか。
なんだか、塩谷師の変化に富んだ転調を統一してしまっているのだ。

「子供っぽい」「JOC臭い」と考えたのだろうか。
とんでもない、その変化に富んだ転調こそが「海溝」の命である。

その命がほとんど剥ぎ取られ、実に平凡なる展開になってしまっている。

どうして原曲の根底に流れる悲しみたるものを理解せんとしないのか。
hideseek.jpgCDアルバム扱いになっているものの、実質的には無駄にサイズの大きいシングルCD。
掲載曲は、たったの2曲。以下に示そう。

1.HIDE&SEEK~もういいかい・・・~
2.Let It Bloom~all over the ASIA~


それだけ。

まず1曲目。
のろまなテンポで非常に冗長。ものすごく疲れた。

許せないのは、「もういいかい、まあだだよ」を台詞にして表現しているところ。

実際の人間の子供の声を充ててしゃべらせているのだ。
なんと芸のない表現であろうか。
芸術も糞もあるまい。

なるほど、「この曲はかくれんぼをモチーフにした曲なんだな」とすぐにわかるが、音楽を以って表現する意義を思うとき、途方もない虚しさが押し寄せる。


原曲、正確にはエレ糞アレンジというべきか、そこではちゃんと音符をもって「もういいかい、まあだだよ」と表現していたのに。

「CDだから」ということで、無理しておまけを加えた結果、無芸の作品に転落した典型例と言える。



2曲目は、「あ~~、、あ~~、、、」と叫ぶだけ。これを8分も聴かねばならない。
付き合っていられるかというのだ。

言わされている方は非常に退屈な空気を運んでくれる。
「あ~~、、、あ~~~、、、(早くレコーディングが終わってほしい)」という心の叫びが聞こえる。
こちらも、「早く演奏が終わってほしい」と思い、ボーカルに合わせて「あ~~、、、ああ~~(どうしてこんなものを買ってしまったの~~)」と復唱し、激しい自己嫌悪に陥ることとなる。


思えば、「エレクトーン」と名のつくCDとは、かくも工夫なきものなのか。
どうも芸を感じないアルバムばかり粗悪濫造せられている気がしてならない。

とりあえず、ここでは「錯覚」「思い過ごし」としておこう。

エレ糞関係者は、CDだからと、特典めいた要素を無理に付すのはやめよ。
それは単に自らの芸を貶めているに過ぎないから。少しもプラスに作用していない。


このCDアルバムに関しては、文句なしの0点
フォローのし甲斐ぞ全く無き。
elekuso40years.jpg平成11年発売作品。

発売とは雖も、ヤマハという小さな世界で短期間の間発売せられていただけである。
店頭に置いてあり、怖いもの聴きたさで買ってみることに。
当時の最新モデルであったEL900を用いた、次代を担うアルバムということらしい。
人気のある曲目を抽出したとのこと。



点数は、0点。

これを耳にしていると、如何にエレクトーンというものが一人前に大成できない代用品であるかがよくわかる。本職のプレイヤー陣が、「作曲家としての一面を見てもらいたい」と言ったり、他楽器とのアンサンブルを意識しすぎるなどし、エレクトーン音楽をCDに発表したがらない理由がよくわかるというものである。


兎に角音が薄っぺらい!!

期間限定だからということで思い切り手を抜いたのか。そうとしか思えない。

エレクトーンは、独りで何もかもこなさねばならない一面がある。
演奏からリズムまで、1つのスピーカーから鳴る。900になると、XGサポートという奇妙な機能がつき、自分で演奏する以外のフレーズが加わり、それすらも1つのスピーカーから鳴る。
結果的に、何を言っているのかわからない音楽になるのは明らかであろう。

これは、エレクトーンのそうした悪態を見事に表しているといってよかろう。
何の工夫もせず、普通にLINE端子から録音したような状態ではあるまいか。


にしても、これだけ薄っぺらく、何の特徴も無い音を筆者は知らない。
もう少し何とかならないのだろうか。
これ以上何ともならないとなると、大問題では済まされまい。


一所懸命オーケストラを意識したアレンジがある。
本物のオーケストラと間違えそう・・・・・・・・・か?!

単に内容の薄いオーケストラを聴かされているような気分で物足りないことこの上ない。



こんな薄っぺらく、芸術性、音楽性のかけらも感じられない代用音楽に対し、若松正司師は、
「次代を担うパイオニア。EL900は未来を担う」などと実に仰々しく、1ページにわたり褒めちぎっている。

この爺い頭大丈夫か???

普通の音楽家ならばこれを「パイオニア」などとは幾ら金をつぎこんでも言ってくれまい。



それとこのCDアルバム、出血大サービスのつもりか、1つのケースに二つのCDを入れている。

物凄く取り出しにくい。

CDケースがガラス製のため、ちょっとした衝撃を与えるとひびが入ってしまい、かなり取り扱いづらい。

兎に角エレクトーンという機材の限界を痛感した1つである。
こんな安物で薄っぺらい音色の機材を100万円以上で買わされるだなんてと思うとぞっとする。
これでは外部の音楽家など見向きもしまい。


収録曲目??
んなもん、各自で調べとくれ。


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