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撲滅・検討の如何を考察、問題を提起
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エレ糞には名曲も幾ばくかは存在する。
中には数多の者にアレンジを施され、親しまれているものも存在する。
その一つが、これから採り上げる「海溝」。

昭和55年発表作品。塩谷哲師が、どこぞの中学校に在学中に作曲せられ、発表せられたもので、合歓(ネム)の郷にて、JOCと略される、ジュニアオリジナルコンサートにてあまりに有名な1曲である。


その後、どこぞの世界にて多用なる形にてアレンジ、改変が為され、吹奏楽の世界においても幅広く知られている。吹奏楽バージョンに関しては、久石譲師が、昭和56年に吹奏楽アレンジを発表、以後はこのアレンジが「海溝」として吹奏楽の世界に幅広く知れ渡ることになった。



「海溝」は、元はエレ糞のための曲であり、GX-1のためのアレンジが元である。

本場の世界においては、短調のテーマが広く知れ渡っている。

有名なるアレンジとしては、
三原善隆アレンジ(昭和57年発表、出典は「5セレクションズ」)、
矢口理津子アレンジ(平成4年発表、出典は「サウンドイン6ファンタスティックサウンド」)、
柏木玲子アレンジ(平成13年発表、出典は「パーソナルシリーズ 柏木玲子)。

他に、雑誌にてアンサンブルアレンジがあったり、初級者用に久石バージョンのアレンジをさらに簡単にした譜面が出回っている。


「海溝」を知る者には、しばしばかかる発言をする。曰く、
「長調の部分が抜けている」と。

実は、大層ロングランな構成の曲らしく、譜面は短調の部分のみを取り上げているにすぎないという。


平成13年、柏木師が「海溝」のアレンジを出されるということで大層なる話題になった。
原曲のサイズが期待できる、原曲に近いアレンジが期待できると騒がれたものであった。


実際にふたを開けてみると、長調らしきフレーズが見つからない。
結局長調の部分はカットせられた、従来どおりのサイズのアレンジということであった。

これまで聴いたことのないイントロのフレーズがあるのが大いなる特色であったといえようか。
そのイントロは、塩谷師本人のアレンジを引用しているとのことであった。
実際に演奏してみるに、どうも退屈で仕方なかった。
どうにも泥臭く、心地よさが生まれない。付け足しの感が強すぎるように思えた。

師は、「g mollと思わせておいてcis mollのテーマに入る、意外性に溢れた巧みなる手法」と自慢していたが、筆者にはその意義たるものがさっぱり理解できなかった。


柏木師によると、本当はcis mollであり、一般に知られているもの(c moll)よりも半音高い構成だという。黒鍵だらけで、とにかく弾きにくいという。


偶然にも、なにがしレコード店の閉店セールにて、LP「昭和55年度JOC作品集」が手に入り、「海溝」の原曲を聴く機会に恵まれた。

本人のコメントは、
「海溝の深いイメージを曲にしました」
それだけ。それだけかよ!


いざ蓋を開けてみるに、本当にcis mollで、ものすごく暗い曲想である。
イントロは、gis moll。gis Aeolianというべきか。
クールで悲しみに満ちていて、思わず心惹かれてしまいそうなフレーズである。

例の、gisと思わせておいてcis mollのテーマに入ってゆくところなど、本当に意外性溢れる展開で、その神秘性に虜にならずには居られなかった。

Gis音を伸ばしておき、静かにcis mollのテーマを発信させる。
このGisの線は非常に重要。なんという流麗なる線であろうか。

テーマに入るところ、リズムがなく、静寂に溢れており、非常に暗く、物悲しい雰囲気である。誰かの魂を弔っているかのような敬虔なる空気さえ感じ取れる。


何とも不思議に思ったのが、本家のイントロは、ものすごく神秘的で、イントロからテーマに入る間や、その意外性あるコード進行に思わず心がときめき、あっという間の出来事だったのに対し、柏木師のアレンジしたものは、同じ譜面のはずなのに、ものすごく冗長で、ものすごく眠く感じ、苦行の時間でしかなかったことである。イントロからテーマに入る間など、強引至極で、つながりのかけらなど微塵も感ぜられない。同じ譜面なのに、だ。主たる相違点は、半音高いか、ただそれだけである。

わずかそれだけの違いが、これだけの味わいの相違を生んでしまうというのか。これだけ聴き心地というものに影響を及ぼすというのか。
調というのは、それだけ重要なる役割を占めているというのか。

特にイントロは、gとgisとであまりに印象が違いすぎる。このイントロは、gisのために生まれたものなのであろう。にしても、これだけ印象が変わるのはにわかに信ぜられない。



実のところ、柏木師のアレンジには物申したい点が幾つかある。
わざわざ半音下げていることはさておき、イントロからテーマに入らんとするところである。


本家は、「G#sus4ーG#mーC#m(以下テーマが展開せられる)」のところ、
師のは、「Gsus4ーCm」になっている。
文字にて表しただけでは、G#mに相当するコードが抜け落ちているだけに思えるが、この差は相当に大きいように思う。Gsus4で終わるため、落ちたのか落ちていないのかよくわからないし、誤魔化しの空気も感ぜられ、妙なぎごちなさが漂うことになる。その状態で、「意外性溢れる展開」と強調せられても、こちらは疑問符が頭に浮かぶのみで何の感動や驚愕の念も生まれない。
sus4で終わらせるコード進行は、馬鹿か無芸なアレンジャーが格好をつけるためによく用いるやり方であり、名曲たる海溝にはふさわしくなかろう。

間も悪い。師のアレンジは、無理してリズムを入れるため、イントロからテーマに入るのに丸1小節空けているのだ。リズムを入れる以降の展開は、FD AUTOにて演奏できるように配慮した結果のことであるが、この間は感心しがたい。「海溝」を演奏するに当たり、あまりに不適切な1小節である。筆者に言わせると、ここからリズムを入れるという魂胆が気に喰わない。

本家は、イントロの終わった後、ほぼ直行の形でテーマに入っていた。
落ちたと思しき展開から、新たなるcis mollのテーマが流れ込んでくるわけである。その意外性に感動するとともに、gis Aeolianスケールからは、cis mollのドミナントがごとき働きが透けて見え、流麗なる流れにまた違った感動を覚えることになる。


本家のこの部分、本当に黒鍵だらけで、手も思い切り伸ばさねばならない、難関至極な箇所であるが、妥協は禁物である。ここは原曲の調で行かないことには、何の感動も生まれない。


サビのところ、E durが透けて見える、やや明るい色彩の展開となる。リズムはこのあたりから入る。
本家は、Piu Mossoを見せていた。ロングランの展開のため、原曲どおりのサイズの場合は、Piu Mossoすべきなのやもしれない。
暫くしてテーマに戻る。戻るところ、ドミナントの代理コードを用いているのが心地よい。

そのテーマの部分が終わり、3拍子になる。奇妙なコード進行を見せ、D durとなる。
このD durというのが、失われた長調の部分である。快活なるテンポの3拍子で、可愛らしいメロディ。海にて遊ぶ魚たちが目に浮かぶ。そこには、母親とすごした楽しき毎日が透けて見えると評する者も居る。
3拍子の部分、ドミナントコードのあとにフラットの6度のコードをぶち込むという進行にはただただ驚愕するのみ。尋常でない努力の姿勢が感じ取れる。

3拍子の部分にもいろいろあり、大まかにはD durとF durの部分があることになる。Fの部分は、テーマ→アド・リブという展開がある。アド・リブは、明らかにGXならではの音色であろう。他の楽器では出ないように思われる。海洋にて遊ぶ海水生物たちの生き生きとした姿が目に浮かぶ。

ブリッジの部分は、C durになったりEs durになったり、一言では表せない展開をみせる。ドミナントペダルが良き緊張感を生み出している。

そうこうしているうちに、c mollを思わせる展開となり、ドミナントコードがやってきて、有名な短調のメロディに舞い戻ることになる。

茲でまた不思議で意外性ある発見をすることになる。
短調のテーマに戻るとき、単純に「D.S.」と言いたい所であるが、これは間違い。
なんと、c mollになっているのだ。
c mollにて短調のメロディ、初めはcis mollにて奏でていたメロディを、c mollにて奏でるのだ。

これにはやられた。普通は、素直に「D.S.」するであろうところを、本家は敢えての形を以てか、c mollにて奏でる。これにより、どこか落ち着きある雰囲気をかもし出すことになる。

母親の魂を、楽しい思い出の日々を海底に鎮める決心がついたかのような落ち着きが感ぜられるのだ。


c mollにて演奏となると、「原曲は世間に知られている調より半音高い」という見解は虚偽ということになる。大枠はこの見解で十分なのであるが、言葉足らずではある。


市販のアレンジを半音上に上げて演奏しても一緒。海溝は、それでことが済む様な拙作ではない。
現に、広く知られているc mollのメロディが原曲の中に組み込まれているのだ。

サビはEs dur。市販のアレンジをそのまま半音上に転調させると、このあたりにおいて不具合が発生する。無駄に明るくなり、海溝の有する悲しみが打ち消されてしまう。

Codaは、同主調へ転調となる。
イントロのフレーズをes mollへ転調させた形となっている。


柏木師のアレンジの不満は、このCodaの処理。
原曲とはまったく異なっており、その書き換えがとにかく下手糞。如何にも無理してくっつけたのが丸わかりで、ここで筆者は強靭なる睡魔に襲われることになる。

原曲のCodaをそのまま引用するのはどうも腑に落ちないとの判断があったのだろうが、このCodaの処理はひどい。

やはり原曲のCodaが一番であり、このCodaを生かしたいとなると、原曲サイズにて演奏する必要が出てくる。



ヤマハ関係者は、この本家のアレンジを、「JOC臭が漂う」として忌み嫌い、馬鹿にしている心意気すら感じ取れる。とんでもなく忌忌しき事態であり、筆者に言わせれば、本家のアレンジが一番。
文句なしの満点。ここで言う満点とは、「作曲の意図が完全に感じ取れる」という意味合いに受け取っていただきたい。

この海溝のメロディは、塩谷師本人の意図したアレンジにより生きてくるものであり、その他の構成にした場合、あちらこちらで不具合が発生し、大事には至らずとも、塩谷師の意図はまったく生きてこない。


ヤマハ関係者の馬鹿にした見解を重んじてか、あまりにも弾きづらい構成を改善せんとする思いやりの表れからかどうかは知らないが、この「海溝」の発表から2年後に登場したのが、三原善隆アレンジである。茲では、イントロとエンディングのフレーズはまったく単調なるものに書き換えられ、テーマはいわゆる半音下げられた格好になり、単純なる「テーマ→アド・リブ→テーマ」といった構成のジャズロック調のアレンジとなってしまった。

原曲は黒鍵だらけで非常に弾きづらい。半音下げると、白鍵だらけで弾きやすいものとなる。ヤマハ関係者には弾き易く、親しみやすいものに映って当然か。「JOC臭い」と馬鹿にする土壌では、ますます三原アレンジの評価は高まろう。かくして、三原アレンジが「海溝」として広く知れ渡ることになってしまった。このアレンジの発表は57年、翌年にはグレードの課題曲としてJOC曲が課せられることになった。「海溝」は、三原アレンジが知れ渡っているからといことで、原曲は課題曲からはずされてしまったのである。何と忌忌しき展開であろうか。


実のところ、三原アレンジは、「海溝」の名を用いるべきではない。これはアレンジではなく、「変奏曲」である。「モチーフ即興」というべきか。

三原は、原曲におけるc mollのフレーズをテーマとして用い、サビはEs durのメロディを用いる。アド・リブはそのコード進行をスケールとしたものである。ここは、グレード試験の即興演奏にていうところの2コーラス目の位置に相当しよう。
c moll→Es durのメロディを用いた変奏曲であり、本来の意味における「海溝」ではない。海溝はこのメロディがすべてではない。上記にて示したとおり、三原が操っているc mollの部分はほんの一部分に過ぎない。これが「海溝」として知れ渡るとはなんとも嘆かわしい。

親しみやすいといわれるが、筆者は非常に親しみにくい。同じ展開が続くため、意外性など生まれないし、どこか無理を感じてしまう。原曲を知らない者にとってはこれで満足できようが、原曲を知ってしまうとどうも要領の良さ、ずる賢さばかり感じ取れてしまう。
この曲は、テーマ→アドリブ→テーマという、いわゆるジャズ・ロックの展開にはふさわしくない。もしもその形がふさわしいならば、塩谷師は初めからジャズロック調のアレンジにしていたはずである。どうしてあのような弾きづらく、大河調の展開にしたのか。それが一番ふさわしい曲想だからそうしたのである。もっと曲の根底に流れる意図たるものを察知すべきである。


曲は、個人の思いのままに操るのが最も素晴らしい。「ああせよ、こうせよ」とは一切言わない、というのがヤマハ音楽教育ではなかったのか。


三原アレンジの不満は、テーマに入る前のドミナントコードの処理。
G7ミクソリディアンスケールと、同Hpm5↓を2拍ずつ配置している。G7の次にくるのはCmだ。ミクソリディアンスケールを置く必要がどこにある。素直にHpm5↓1つで事足りよう。
おそらく、「ミ(ナチュラル)ーミ(♭)ー/レ」というカウンターラインを聞かせたくてそのような無理ある配置にしたのであろう。なんだか、アレンジ初心者がテンションというものに固執しすぎてやらかす失敗状態ではあるまいか。


柏木師のアレンジも、長調になる部分は剥ぎ取られ、単調なるアド・リブパートになっている。原曲どおりの譜面に一部なっているため、冗長な感じのする三原アレンジという印象になってしまっている。
どれもこれも半端で、あまり普及していない。



矢口理津子アレンジは、無難ではあるものの、EDの処理はやはり腑に落ちない。どこか違和感を感じてしまう。



全体的傾向を見ると、アレンジは三原で、音色は矢口で、といった具合である。
筆者は、原曲にかなうアレンジはないと思えて仕方ない。

点数を付すとなると、上記に挙げた有名なアレンジについては、上から0.5点、3点、0点である。


柏木師のアレンジには尋常でないくらい辛口評価になっている。
厳密には、これは柏木アレンジではない。リズム・プログラミングには日下奨太郎が加わっており、音色もどうも日下臭く、本来ならば日下奨太郎アレンジとすべきである。


柏木師の意向はほとんど通っていないのではなかろうか。柏木師にとって、調というのは絶対の存在であったはずだ。
筆者のような参加賞どまりの平民ですら、「海溝」の調の重要性をいたく痛感するし、半音下げて演奏し、長調その他をみすみす抜き取られた半端なアレンジに怒りを覚える。柏木師ならばどれだけ不満がたまっていたことかと思うと、なんだかいてもたってもいられない思いに駆られる。

柏木師はグレード1級。1級というのは認定級で、ヤマハが認めた者に送られる、異端の地位にある級で、試験を受けて取得できるものではない。ヤマハが貢献度他を判断することで与えられる。ヤマハが認めた者の意向を通さないでどうする。



本家のサイズにて演奏せんとなると、7分強、場合によっては8分20秒は覚悟せねばならない。コンクール出場は絶望的となるのであろうが、今は、フリーのサークルがはびこっており、コンクール以外にて発表する機会はあまたにあるはず。そこで存分に「海溝」の有する神秘性を発揮すればよい。




久石譲のアレンジを忘れてはなるまい。
こちらは1点。
なんといっても、イントロをg mollにしているのが最大に気に入らない点。

長調の部分を再現してくれているのはありがたいものの、Des durにて統一しては居なかったか。
なんだか、塩谷師の変化に富んだ転調を統一してしまっているのだ。

「子供っぽい」「JOC臭い」と考えたのだろうか。
とんでもない、その変化に富んだ転調こそが「海溝」の命である。

その命がほとんど剥ぎ取られ、実に平凡なる展開になってしまっている。

どうして原曲の根底に流れる悲しみたるものを理解せんとしないのか。
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hideseek.jpgCDアルバム扱いになっているものの、実質的には無駄にサイズの大きいシングルCD。
掲載曲は、たったの2曲。以下に示そう。

1.HIDE&SEEK~もういいかい・・・~
2.Let It Bloom~all over the ASIA~


それだけ。

まず1曲目。
のろまなテンポで非常に冗長。ものすごく疲れた。

許せないのは、「もういいかい、まあだだよ」を台詞にして表現しているところ。

実際の人間の子供の声を充ててしゃべらせているのだ。
なんと芸のない表現であろうか。
芸術も糞もあるまい。

なるほど、「この曲はかくれんぼをモチーフにした曲なんだな」とすぐにわかるが、音楽を以って表現する意義を思うとき、途方もない虚しさが押し寄せる。


原曲、正確にはエレ糞アレンジというべきか、そこではちゃんと音符をもって「もういいかい、まあだだよ」と表現していたのに。

「CDだから」ということで、無理しておまけを加えた結果、無芸の作品に転落した典型例と言える。



2曲目は、「あ~~、、あ~~、、、」と叫ぶだけ。これを8分も聴かねばならない。
付き合っていられるかというのだ。

言わされている方は非常に退屈な空気を運んでくれる。
「あ~~、、、あ~~~、、、(早くレコーディングが終わってほしい)」という心の叫びが聞こえる。
こちらも、「早く演奏が終わってほしい」と思い、ボーカルに合わせて「あ~~、、、ああ~~(どうしてこんなものを買ってしまったの~~)」と復唱し、激しい自己嫌悪に陥ることとなる。


思えば、「エレクトーン」と名のつくCDとは、かくも工夫なきものなのか。
どうも芸を感じないアルバムばかり粗悪濫造せられている気がしてならない。

とりあえず、ここでは「錯覚」「思い過ごし」としておこう。

エレ糞関係者は、CDだからと、特典めいた要素を無理に付すのはやめよ。
それは単に自らの芸を貶めているに過ぎないから。少しもプラスに作用していない。


このCDアルバムに関しては、文句なしの0点
フォローのし甲斐ぞ全く無き。
elekuso40years.jpg平成11年発売作品。

発売とは雖も、ヤマハという小さな世界で短期間の間発売せられていただけである。
店頭に置いてあり、怖いもの聴きたさで買ってみることに。
当時の最新モデルであったEL900を用いた、次代を担うアルバムということらしい。
人気のある曲目を抽出したとのこと。



点数は、0点。

これを耳にしていると、如何にエレクトーンというものが一人前に大成できない代用品であるかがよくわかる。本職のプレイヤー陣が、「作曲家としての一面を見てもらいたい」と言ったり、他楽器とのアンサンブルを意識しすぎるなどし、エレクトーン音楽をCDに発表したがらない理由がよくわかるというものである。


兎に角音が薄っぺらい!!

期間限定だからということで思い切り手を抜いたのか。そうとしか思えない。

エレクトーンは、独りで何もかもこなさねばならない一面がある。
演奏からリズムまで、1つのスピーカーから鳴る。900になると、XGサポートという奇妙な機能がつき、自分で演奏する以外のフレーズが加わり、それすらも1つのスピーカーから鳴る。
結果的に、何を言っているのかわからない音楽になるのは明らかであろう。

これは、エレクトーンのそうした悪態を見事に表しているといってよかろう。
何の工夫もせず、普通にLINE端子から録音したような状態ではあるまいか。


にしても、これだけ薄っぺらく、何の特徴も無い音を筆者は知らない。
もう少し何とかならないのだろうか。
これ以上何ともならないとなると、大問題では済まされまい。


一所懸命オーケストラを意識したアレンジがある。
本物のオーケストラと間違えそう・・・・・・・・・か?!

単に内容の薄いオーケストラを聴かされているような気分で物足りないことこの上ない。



こんな薄っぺらく、芸術性、音楽性のかけらも感じられない代用音楽に対し、若松正司師は、
「次代を担うパイオニア。EL900は未来を担う」などと実に仰々しく、1ページにわたり褒めちぎっている。

この爺い頭大丈夫か???

普通の音楽家ならばこれを「パイオニア」などとは幾ら金をつぎこんでも言ってくれまい。



それとこのCDアルバム、出血大サービスのつもりか、1つのケースに二つのCDを入れている。

物凄く取り出しにくい。

CDケースがガラス製のため、ちょっとした衝撃を与えるとひびが入ってしまい、かなり取り扱いづらい。

兎に角エレクトーンという機材の限界を痛感した1つである。
こんな安物で薄っぺらい音色の機材を100万円以上で買わされるだなんてと思うとぞっとする。
これでは外部の音楽家など見向きもしまい。


収録曲目??
んなもん、各自で調べとくれ。
yumewooikakete.jpg平成9年、YMMから出版せられた随筆である。

批評については、「電子風琴」のカテゴリーにて散々しており、わざわざ茲で紹介するまでもないが、一応こちらにて「夢を追いかけて」自身の紹介をしておく。


けだし、これは「そっくりショー」であり、「ままごと」なのではなかろうか。

一流を気取り、なるほどエレ糞界ではトップであることに疑いはないのだが、スター感覚にて人生観や生い立ちを書き上げた、「ままごと」と捉えるべきであろう。


ヤマハが出版しており、なんだかんだいって結局ヤマハ関係者にしか購入してもらえず、ヤマハ関係者にしか知れ渡らない。著者は、それを察知の上、好き勝手なことが書ける。通用するのはヤマハ内部だけ。きわめて狭い世界。


本自体の不満を挙げておくと、まず、
「第3項 つれづれなるままに」

所謂非鉄に鉄道ファンを気取られるのは非常にむずがゆく、気分が悪いことである。

国鉄時代は態度の悪い職員であったが、JRになってからは、態度が良くなっただの、そんなこと今更言われてもこちらはどうすればよいのであろうか。
そんな過去のことを持ち出されても困るし、中途半端に鉄道の知識を披露する感じがして非常に気持ちが悪い。


「鉄道を語るのは鉄道ファンに限る」というのは、余りに偏狭じみた考えではあろう。が、少なくとも筆者はこの「つれづれなるままに」のような鉄道知識の披露には途方も無い違和感・ぎごちなさ、むずがゆさ、不快感を感じてしまう。

同じ鉄道を語られるにしても、向谷実師ならば素直に受け入れられ、「エレクトーン界出身の鉄道ファン」ということで益々愛着が沸くというのに、不思議なものだ。


「座るならば窓側か?通路側か?」
そんなものどちらでも良いではあるまいか。一々紙面を捌いて書き連ねることではあるまい。



「JRの音楽について」というコンテンツがある。
幾つか違和感の感ずる音があるというのだが、残念ながら筆者はこちらに掲載せられている間違いや不手際の感ぜられる音楽には出会ったことが無い。どれもこれも、JR東日本の発車メロディはよくできていて洒落が効いているように思う。JR東日本ほど発車メロディというものに力を注いでいるところを筆者は知らない。

バカさんは、JR山手線「渋谷駅」の発車メロディに苦言を呈せられているが、「鉄道マニア倶楽部#3」(平成18年放送、MONDO21)では少しもそのような話題は出ず、「発車メロディは素晴らしい」という結論に達していた。向谷師は、現場の発車メロディの作成を担当していることもあり、余り他人の作成した発車メロディに対してあれこれ物申したくない心境なのやもしれない。


そんなに発車メロディに不満があるならば、己が発車メロディを作成せよというのだ。
「音楽公害」だとして、裁判に訴える気のようだ。

そんなことするよりも、JR東日本に不手際なる点を述べ、自らが発車メロディの手直しをするのが筋ではあるまいか。貴様はそれほどまでに世間に音楽家として認知せられていないというのか。


最後に、かく続ける。曰く、
「最近(平成8年)、阪急電車の梅田駅も発車音楽を始めた。~ 変なとこで東京の真似するなよぉ!」と。

返答しておいてやろうか。
一切不手際はありません!

それよりも、筆者はおのれのCDアルバム「蜃気楼、道、オーロラに乗って」のアレンジ・録音・音色等について強い不手際を感じ、強い抵抗を覚える。

こんな駄作を「作曲家の一面を」と偉そうな面をさげてヤマハ関係者のみに発売させる方がよほど音楽公害だと思う。



もう一つ気に入らないのは、
大阪の味方をしているところ。
何様のつもりなのだろうか。さきほどの阪急電車云々にしても、「我が大阪の阪急電車」などと記している。如何にも大阪で生まれ育ったかのような振る舞いだ。
大阪の庶民性を主張するためか、あるコンテンツのみ関西弁にて記している。筆者の最も忌み嫌う表現方法だ。
「ワテ」「~でんなぁ」を多用して大阪の味方を気取っているのだが、まず、こんな喋り方をする大阪人は一人も居ない。

大体よぉ、
貴様兵庫県民だろがこの野郎!!
大阪と兵庫県はまったくとはいえなくとも、基本的に別物だと捉えられている。
本場の大阪人からしたらバカさんの姿勢は袋たたきの第一の対象となろう。


住居??基本的に活動拠点は東京だったはず。
今では名古屋に変わっているし、大阪の味方をせられる筋合いなどどこにもない。「我が大阪」とは是如何。

大阪の笑いについて、「なんかおもろいことやろうや」という性格が顕著に現れているというのだが、それは残念ながらむしろ東京の方が強い。
大阪は、ある一定の笑いに固執しすぎている傾向がある。感覚が狭すぎるのだ。実力ある大阪の芸人が東京に旅立ってしまうのも、東京の方が「なんかおもろいことやろうや」という姿勢があるからであろう。たとえば、明石家さんまが上京したのは、絶対に藤本義一と共演したくないという意思があったからである。

バカさんは、「東京の笑いは林家三平に代表せられるように、無理に客の笑いをとろうとする面がある」とし、「観ていて恥ずかしくなってくる」と東京の笑いを非難三昧。

林家三平は、たしかに筆者の嫌いなタイプの笑いではあるが、あれは東京でも異端の存在であり、これを東京の笑いの基本とするバカさんの見解は余りに不適切で、強引にもほどがある。三平は全国区であり、全国的に色物の異端だった。代表にするのは笑いを語るにあたって余りに不適切。

東京の笑いは、どちらかというと立川談志に代表せられるように、他人に対して攻撃的なのではなかろうか。「歌丸→ハゲ、小円遊→変な顔」という根多もあったか。


対して大阪の笑いは自分を卑下する笑いが主流といったところか。
この分け方は余り正確ではないが、少なくともバカさんの見解よりは優れていよう。


好きな芸人として、鶴瓶!
「鶴瓶」ってのが好みの芸人だという。面白いのだそうだ。



何だか、ものすごく不適切な表現ではなかろうか。

「鶴瓶」って言われてもすぐには思いつかないのではなかろうか。
ここは、正確に「笑福亭鶴瓶師」と記述すべきである。それが執筆者として当然の在り方であろう。

好きな番組は「パペポTV」(読売テレビ)。

「どうして東京でやらないのかわからない」と疑問を呈するのであるが、この頃は全国ネット化していたはずだ。バカさんは東京在住が主流のはずであり、とうして関西ローカルをこれほどまでに熱く語れるのか、そちらに疑問と怒りを覚える。


バカさんは、「ボクはテレビタレントの殆どを知らない」としている。テレビは殆ど見ない生活なのだそうだ。それが「笑っていいとも」や「パペポ」を是ほどまでに語れるのはどうかしているし、芸人像について何がわかるのかと物申したい。


バカさんの配慮の欠缺はここでも垣間見られる。

その「鶴瓶」って名の芸人が、新大阪駅のエスカレータにて自分の1m前に居たという。
「鶴瓶さん!ぼく、大ファンです。握手してください!」と言いたかったが、50を前にした男(当時)がそんなこと言えるわけが無いことと、「パペポ」の根多にせられてしまうことが嫌で言わずじまいだったという。


これって謙遜のつもり?? おかしくないかい??
バカさんは、トップ・エレクトーンプレイヤー。EL90のCMに出演していたし、知名度は他のプレイヤーよりも上。松田昌の名をいえば凡そは理解してもらえる。テレビ番組のBGMにも用いられている。その「鶴瓶」って名の芸人にもそのあたりの事情は話せば理解してもらえるやもしれない。
「パペポ」の根多にせられ、笑われておしまいというのだが、本当にそうだとしたら、エレクトーンプレイヤーと言うのはその程度の知名度しかないわけで、ヤマハにしか知られていない矮小なる存在であることを露呈しては居まいか。
「エレクトーンプレイヤーの松田昌です!」と、その「鶴瓶」ってのに言えば理解してもらえるはずであり、「パペポ」の根多にせられて笑われるなんてことはなかろう。
なぜ笑いの根多にせねばならない。ここでの笑いは「失笑」の意味だろ。
「鶴瓶」っての・・・・・いい加減、きちんと呼称しようか、鶴瓶師はエレクトーンというものにそれほどまでに負の偏見を抱かれていようか。
本当だとしたら大問題であり、「エレクトーンと言うのはその程度の認知度しかありません」「エレクトーンの理解はまだまだ低く、芸能界にはまったく理解せられていません」と言っているようなものではあるまいか。何を考えているのだ。勘違いにもほどがある。

プロのプレイヤーがそんな低姿勢でどうするのだ。ここは謙遜すべき場面ではなく、「エレクトーンプレイヤーです!」と堂々名乗るべきであろう。貴様はトッププレイヤーだろ。


鶴瓶師のほか、上岡龍太郎師に対しても、「上岡」と呼び捨て。
それだけでも失礼千万であるが、何の説明もなく、突然「上岡!」と書かれたのでは誰のことなのか直ぐには判別できない。
レールウェイライターの上岡(うえおか)直見先生かと勘違いしてしまうではないか。



「拝啓 大御所先生様」

そんなに大御所先生様に物申したければ、
ヤマハの助けを借りるなよと物申したい。
ヤマハ関係者にしか発売せられない書物にて幾ら物申しても、自己満足にしか終わるまい。
外の世界にて同じことを言うべきであろう。


色々言いたい放題に記されているが、結局ヤマハの手中をさまよっているだけ。本人はそうとは知らずにすっかり一流気取りで、人一倍庶民の味方をしているふりをして綺麗ごとを並べ立てる。

まさに、エレクトーン界の孫悟空ってわけだな。嘲笑


タクシーに乗ったとき、運転手と話をすると、
「楽譜が読めないから音楽はぜんぜんわからない」「才能がないからねー」と言われると言う。
是に対し、バカさんは、
「本来ならば、楽譜が読めなくても音楽はできるはず」とし、
「音楽を崇高なる芸術に高めてしまった」と締めくくる。

一見、正論に思える発言の数々を展開するが、そんなに誰でもできる音楽を目指すならば、
レッスンの折にオーディションするなよと物申したい。
貴様自らが初心者向けのレッスンを開催すれば良いではあるまいか。どうせ自分のレッスンはプロ向けだからと言い訳することであろう。この時点で楽譜が読めない人に音楽を勧めるのは言語道断となる。よくぞこれだけ中身の無い善意を披露していられるものだ。矛盾点に気づかないのだろうか。

初心者向けのレッスンとなると、料金はそんなに稼げない。貴様の開講しているオーディションつきのレッスンならば45分で15,000円を稼げよう。金にならないので初心者向けのレッスンは引き受けたくないわけだ。そうした考えが、音楽を(この著書が強調するように)高尚めいた、敷居のきわめて高い存在にしてきたのではなかろうか。


バカさんの「素晴らしい音楽教育」と位置づけるところのヤマハは、なるほど大人のためのレッスンを開講している。筆者は、ここの大人たちが大嫌い。大人からレッスンを始めた輩は態度が妙に尊大で、「大人からはじめたエレクトーン好き」ということを強調し、それを偉大なる行為であるかのごとく錯覚している。何か苦言を呈すると、「あなたは小さい頃から始めているからそこまでできるんだ。」「私は大人から始めた。子供のように直ぐに一つのことを吸収できない」とご立腹、果てには「そういうあなたは何か賞を獲得したことがあるのですか?!」と嫌味を存分に吐かれる。
最も歯がゆいのは、人生の先輩を気取るところ。音楽はできないが、人生ならば誰よりも先輩だとしてあれこれ薀蓄垂れたり、説教を垂れたり、扱いにくい、やり辛いと言ったらありゃしない。もっと鬱陶しきは、説教を垂れたり、小言を吐くことで、憎まれ役を買っている振る舞いをする点だ。
「あなたのために、わざわざ憎まれ役を買ってあげているのよ?その意気にちょっとは感謝しなさい」とも言わんばかり。その手の輩に限って己は基礎的モラルがまるでなっていないことに驚かされる。
人の秘密は、「友達だから」と言わんばかりに平気で全員の前でばらす分際で、己の秘密は、少しでも口に出されると直ぐに逆上するのだ。どれだけうんざりしたことか。
もう一つ、気に喰わないのは、言うまでもなく、バカさんの欺瞞と打算に気づかないことである。プレイヤーに対してはどんなにモラルが崩れていても良いのだそうだ。どれだけ嫌な思いをしたことか。プレイヤーに対しては、何も思い入れがないから欺瞞や打算に小言を吐かないのか、説教を垂れないのか。筆者は、思い入れがあるから小言を吐き、説教を垂れてわざわざ憎まれ役を買うのか。自分の危機は自分の手や頭を以て察知するものだ。バカさんの欺瞞と打算を良しとするならば、思い入れがないから物申さないと言うならば、二度とバカさんのファンを気取るな。

(茲でやっている断罪は、筆者のやりたいようにしているだけで、「あなたのためを思って」「敢えて憎まれ役を云々」といった裏の思いやりの念は一切ない)

大人から簡単にレッスンを始められるようにという名目の元、エレ糞には自動伴奏機能だのサポート機能だの、常識では考えられない機能がつき、肝心の音楽文化そのものを低下させてきた。
サポート演奏が充実しすぎたおかげで、昨今は、譜面を目にしただけではどんな音楽かわからない状態になっている。記譜者は、曲目を全て記譜しないのだ。譜面は真っ白になり、ピアノの世界とは益々落差が大きくなり、愚弄せられてゆく。

あんなに真っ白な譜面ならば、当該タクシーの運転手たちも簡単に音楽を始められよう。
かくのごとく、プロとアマの境界をなくすことで、エレ糞文化は凋落してきたのである。馬鹿はいつまでも馬鹿なまま、有能なる者は凋落したレベルに物足りなさを感じ、いつの間にかそのレベルに甘えて自らの能力を貶めるか、ヤマハからは巣立ち、外の音楽界に身を投ずるか。前者が、「エレクトーン・プレイヤー」と言われる人たちといえまいか。嘲笑
その原因をつくったのは、このバカさんに他ならない。昭和48年というものがいかにエレ糞文化凋落のターニングポイントであったか、お分かりいただけよう。ヤマハの中でもバカさんくらいしかかくのごとき、所謂誰にでもできる音楽、格差の無い音楽を強調している者を筆者は知らない。
処理の仕方如何によってはうまい音楽教育が提供できたのやもしれないが、残念ながらヤマハは所詮営利企業、営業成績、金銭儲けの方向に走ってしまった。

学力低下の問題と同じく、学習指導要領を、馬鹿にでもわかるようにと簡単なものにし、学習量を減らし、平等社会を試みた。馬鹿は馬鹿なまま、有能なる者は低下した指導要領に物足りなさを感じ、いつのまにかそれに甘えてしまい、今日の学力低下が起きたわけである。


バカさんは、「クラッシックの先生方の一部が、ポピュラーを自分達のやる音楽より一段低いものと考える風潮に疑問を持っている」とする(217頁)。

残念ながら、この風潮が最もはびこっているのは、ヤマハ講師。
ヤマハ音楽教室の講師陣が最もこの考えを有している。

酷い講師になると、たとえば、富岡ヤスヤを馬鹿にし、鷹野雅史を崇め奉る。理由は簡単、前者はロックが主流で後者はクラッシックが主流だからだ。その露骨さたるや凄まじい。

講師のみならず、エレ糞界においては、どうも「クラッシックを弾ける」というのは一つのステータスに捉えられ、クラッシックをたしなむプレイヤーは一段高い位置にあるように思えてならない。

渡辺睦樹のCDアルバムなど、ヤマハ内外に於いて、評価は180度異なっている。
180度だ。

コンクールにて、クラッシックの出場が多いのも、そうした考えの講師が多いからであろう。
世の中に物申す前に、ヤマハのそうした体質を自らの手を以て直せと言うのだ。ヤマハから独立している場合ではなかろう。


バカさんは、クラッシックよりも森進一の演歌に感動したという。余りに強引な展開で、森進一自身に失礼千万ではなかろうか。ヤマハ関係者にしか読んでもらわないつもりだからとは雖も、余りに不適切で強引過ぎで、森進一本人は得体の知れない冷たい脂汗を握ることになろう。


クラッシックがなぜ崇め奉られるのか、それはクラッシックが何百年にも亘ってその輝きを保ち続けているからだ。

これをみると、音楽は皆平等の水準にあり、格差付けを忌み嫌う姿が思い起こされるが、バカさんの忌み嫌うところの「水準」というのは、理論的なものであり、イメージではない。
クラッシックは永年の輝きを失わないのは事実であり、現代曲、殊にJ-POPSはクラッシックとは比べて一段落ちるのは絶対的なものであり、偏見ではない。

水準の高低は、理論的であり、絶対的なもので、好き嫌いとは無関係であるし、水準が低いからとあれこれ貶めているというのではない。
そんなにクラッシックを一段上に捉えるのが嫌ならば、絶対にクラッシックには手を出すべきではないし、音楽療法を完全否定してもらわねば困る。
クラッシックが嫌ならば、音楽理論は絶対に用いてはなるまい。
音楽理論というのは、ジャズから生まれでた独自の理論もあるにはあるが、根底はクラッシック音楽からの派生だ。根底たるクラッシックが崇め奉られるのは仕方ない。

「人それぞれ」というのは、水準の高低とはまったく関係が無い。
高い水準にあっても、「嫌い」と言われればそれまでのこと。逆も亦然り。


あるコンサートにて、「クラッシックは芸術であり、ポップスは娯楽である」という見解を下されたことにご立腹の様子であるが、娯楽ならば娯楽なりに思い切り遊び倒せばよいこと。
たとえ、人間性が高められずともそれで十分であろう。おのれは、ポップスを長年やってきたかのような記述をしているが、何か人間性が高まったとでも言うのか。


バカさんはインドネシアのガムラン音楽というものにいたく感銘を受けたと言う。ガムランは、そこでは芸術ではなく、生活であって遊びだと言う。人々全てが平等に音楽を楽しんでいる雰囲気だったと言う。

そいつらって、道端に転がっているハーモニカ奏者みたいなもんだろ。
日本では、路上でライブを行っている迷惑この上ないバンドだ。それをバカさんは「生活であって遊びだ」として崇め奉っているのである。何と言う勘違いであろうか。


「あるパイプオルガン奏者の奢り」として、バカさんは、パイプオルガンの奏者に対し、「松田さん」と呼ばれるのを至極不快に思ったと言う。後に、「松田先生」と呼ばれるようになったことを光栄至極に思ったようだ。

普段、掲示板に於いては「師はやめません?」「先生なんて呼ばれるよりも、ボクは『昌さん』くらいが丁度いいです」と発言しておきながら、本場の音楽家たちには「松田先生」と呼ばれたいのか。

これを傲慢、矛盾と言わずしてなんと形容できようぞ。



「バッハやフランクなどの、敬虔なるクリスチャンである作曲家が、自己を無にし、神を賛美するために作った、人間の心の温かさや、素直さや、豊かさをテーマにした宗教曲を毎日演奏しているパイプオルガンの演奏家の中に、とんでもなく心の偏狭な人がいるのはなぜか、ぼくには理解できない。彼らは、自分の演奏している音楽を果たして本当に理解しているのだろうか」と苦言を呈せられる(216頁)。

そう言う本人は、母親の喪中の手紙の裏に、結婚式の知らせを載せている。
わかりにくいが、これって、静かなコントだよな。






真面目に物申させていただくと、筆者は、このような疑問を一番感じたのはバカさん本人。
ファンサービスのがさつさからそれを察知せずには居られなかった。


ふと疑問に思ったのだが、その敬虔なる云々って、日野正雄師のこと??誤爆・・・


けだし、この一文、主語と述語、ムチャクチャじゃねえか。
何が主語で、誰が偏狭なのだとか、誰のどこの中になのかさっぱりわかんない。

敬虔なるクリスチャンである作曲家が偏狭なる心の持ち主だと言うのか。


これ、まずいだろーーーー。
学校出てねぇだろコイツーー!!


どこの頭をひねればこんな支離滅裂な構成の文章を書けるのかさっぱり不明。
小学校の卒業アルバムだよ、これ。

大川興業の、中卒で保護観察中の身の、「総裁」を「総菜」と変換する新人の方がまだまともな文章を書くぞなもし。


こんな知的障害本、買うなああぁぁぁぁぁぁ!!!
0点じゃ、0点!!!

はさみでカット、カット!!!!!
文句なしに、整理ポスト決定。

思うに、茲に記されていることって、殆どが陳腐化しているように思えてならないのであるが、筆者だけ??
巻末には、「昨今は、歌手やお笑いタレントが適当にしゃべったものをゴースト・ライターが文章にまとめたものがエッセイとしてまかり通り、何十万部も売れているという考えられない時代。こんな時代だからこそ、変なの書けないぞ、という気がよけいにした」というのだが、この本が一番「変なの」だ。
くれぐれも買うなよ。



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