撲滅・検討の如何を考察、問題を提起
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世紀末であったか、ノストラダムスの大予言があたるか、2000年問題が如何と世が騒いでいた頃と思う。どこからともなく「癒し系音楽」というものが登場した。
それは「ヒーリング」と呼ばれ、ジャンルはというと、「癒し系」という。 筆者の嫌悪感は一気に沸いた。 オマエ何様だよと物申したい。 癒し系とジャンル分けせられている音楽は、簡単に言えば、「しっとり、ゆったり」で良かろう。それが、いつの間にやら「癒し系」としてまとめられることになり、混沌とした世の中に迷える人々の心を実際それなりに癒しているようではある。 この「癒し系」で鬱陶しく感ずるのが、初めから「癒してやる」という前提が入っていることである。 「さあさあ、この何が起こるかわからない世の中で、皆さん何かと迷われていることでしょう。わたくしが、さあ癒してあげましょう。こちらへいらっしゃい」という汚い心のうちが読み取れてどうも付き合う意欲が失せてしまう。 何ともわざとらしい猿芝居ではあるまいか。 演奏技術が不十分だから、テンポのゆったりした癒し系といわれるものならば楽して専門家の称号が獲得できようからという甘い思考が垣間見られる。 「癒し系」との決め付け方、己は今までどれだけの者を癒してきたと言うのか、然る実績はあるのかと問い詰めたくなり、その時点に於いて既に自身の心はかき乱されることになる。 たとい然る実績が備わっていたとしても、それをいたく自慢している姿勢が垣間見られて至極げんなりしてしまう。 「癒し系」だなんて、どの面をさげていえるというのか。その神経が理解できない。 そんなに自らを「癒し系」と称したい、称せられたいというならば、 世界各国の者どもを全て癒してみよというのである。 所詮は、自らの取り巻きを癒しているだけに過ぎないのに、何という勘違いの酷さであろうか。 「癒し系」と決め付けているのが不愉快至極であるといえば良いのか。 人々にとって、「癒し」の形は種々に上るはずである。「癒し系」と決められている所謂ゆったり、しっとりした音楽により心が癒されるとは限るまい。 そうした音楽により心が高揚し、気が狂ってしまう人も中には考えられよう。 ジャズを聴くことで心が癒されるという人も居よう。 とあるバーで、ジャズバンドのBGMを聴きながらゆったり夕食を嗜むことで、一日の疲れをとらんとする者も考えられよう。当該ジャズバンドは決して「あなたの心を癒してあげましょう」というわざとらしい心意気で演奏はしていまい。 「聴きたきゃどうぞご勝手に。義務教育じゃないんだから」と開放感に満ち満ちていよう。 熱きロックライブに通うことで心が癒されるという者も居るはずである。体を目一杯動かし、ロックの世界に住み込むことで心のもやをとり、結果的に心が癒されたというケースも考えられなくはあるまい。 筆者に言わせれば、 音楽は皆癒し系なのだ。 別にわざわざゆったり、しっとりしていただかなくても、癒しの要素はあまたに転がっているものだと物申したい。 音楽は、皆癒し系であると同時に、時にはこの上なき騒音と化すことも忘れてはならない。 人の心に入るまでは、如何に素晴らしい超一流の奏でる音であろうとも、「単なる騒音」に過ぎないのだ。これは音楽の有する弱点とも言えよう。 都会の路上で、「私は街行く人を癒しています!」とばかりに、張り切って騒音を垂れ流すアマチュアバンドを時々見かけよう。迷惑至極だというのだ。更に募金箱を置いて恵んでもらわんとしているバカバンド。何様のつもりであろうか。 アコギを持ち込んで癒し系風味の音楽を奏でようが所詮は雑音、猿芝居。 聴き手側にセンスが無く(例えば「ゲーム感覚」を言い訳にした犯罪を起こす愚者達が如く)、何をやっても雑音にしか聞こえないというケースもあろう。然る者にとってはたとえ癒し系音楽を用意せんとも永久に癒し系ではあり得ない。 音楽は、時には癒しになり、時には害になり、時には凶器と化すというのが筆者の思考である。 かかる広い視点でなく、兎に角ゆったり、しっとりすれば癒し系だとするその狭苦しい感覚に堪らない不快感を覚えるのやも知れない。 狭い感覚といえば、時折科学者の綿密なる分析に依るという「音楽療法」、あれも大嫌いである。 こんなクラッシックが健康に良い、このクラッシックを聴けば寿命が縮まる、、、など時折得意げに語っている科学者気取りが居る。 筆者に言わせれば、音楽療法には全てのクラッシックが相当する。 クラッシックは、何百年に亘りその輝きを失うことなく、未だ人々に新鮮味を分け与えている。演奏者も、700回演奏しても飽き足らないどころか、常に温故知新の連続だという。然る兵達に、なんじょう科学的分析を行う必要やあらむ。 たとい科学的に音楽療法に適している音楽があったとしても、音楽には「好き嫌い」という非科学的要素が存在する。如何に科学的に良いとしても、聴き手に「嫌い」という意識があれば、その素晴らしさは永久に伝わらない。音楽は単に科学的に分析せられた音楽療法で人々の心が癒されるわけではないというのが筆者の持論だ。 逆に、科学的に悪い音楽であっても(コード進行がありえないくらいに滅茶苦茶に設定せられている等)、聴き手が「好き」というならば、当該聴き手にとっては科学的に悪い音楽が療法には適した音楽となってしまう。実際それが原因で取り返しの付かない事態に遭遇したり、横道にそれたりといった事態に遭遇するやもしれない。その辺りの危機は自分自身で察知する他あるまい。 音楽のジャンルは近年摩訶不思議なものが続々登場している感がある。 「スムース・ジャズ」がそれだ。アメリカから降って沸いたジャンルのようであるが、どうも「ジャズの形式を踏襲しているといえばしているが、かといって純粋にジャズとは呼べない」という負け犬の香りがしてどうも適切なジャンル分けとは言いがたい。鉄道の世界で言えば、JR東日本にある「新特急」が如き卑しい臭いがする。 かかる音楽は、従来どおり「フュージョン」と称するべきである。 「フュージョン」というジャンル分けは、中々的を得ている印象があったのであるが、いつの間にやら死語と化してしまっているのは何とも遺憾である。 PR エレクトーン、(以下「エレ糞」と称する)、これが誕生して今年50周年を迎えることとなった。
まず、こちらが採り上げるA級戦犯はこちら。
「松田 昌」・・・これこそが、エレ糞界崩壊の所以をつくったA級戦犯というのが当白書の考えである。 かく記載すると、読者はまず卒倒することであろう。 「あれほどエレクトーン音楽の独自性を追い求めてきた人が?!」 「他のどのプレイヤーよりもエレクトーンの独自性を追い求めてきたじゃないか!!」 「CMにも一杯出てたじゃない?」 などなど、 抗議の通知や不幸の手紙等がどんどん筆者のもとに押し寄せてくる光景が目に浮かぶ。 それがA級戦犯だなんて、どこの脳をひねり出せれば然る発想が浮かんでくるかと思われよう。 筆者の神経はこの上なくひね曲がっているやもしれない。 具体的にそのA級戦犯たる真意を説明せよとなると、こちらも戸惑ってしまうのであるが、先ず言えることは、エレクトーン界の限界、ひいてはエレクトーン、面倒になってきたので以下「エレ糞」と称しよう、そのエレ糞の機能の限界を露呈せし真犯人とでも言おうか。 エレ糞界の衰退の所以についてはあまたの論議がなされている。 値段が法外に高い。 モデルチェンジの早さ。 機能の難しさ。 教室がモデルチェンジに対応してくれない。 などなど。 筆者の考える衰退の主要素は是如何。それはこれから採り上げる人物。これこそがエレ糞界の愚かさを、その庶民派キャラクターとやらで世間に露呈してくれたように思えてならないのである。 世間は、「エレ糞の世界ってそんなにもつまらない、馬鹿げた世界なのか」「それしきの甘ったれた心意気で天下の取れる世界なのか」と引くに引くことで、現在の惨状が導き出されたやうに思えてならない。素人の目はごまかせても、外の音楽家達の目はごまかせないといったところか。 茲では、氏の拙作である著書「夢を追いかけて」の書評では突っ込みきれなかった箇所につき、いかに愚かしき存在であるか、いかにして然るべく感じたかということをまとめ、特に怒りのこみ上げる疑問点を挙げ、悉く突っ込んでてみたく思う。 この小父、庶民派たることを印象付けたいためか、ファンや取り巻きに執拗に「マサさん」と呼ばせたがる。最近の雑誌の何とかという特集には自らを「マサさんはね」などと称し、わざとらしきことこの上ない。あるときは、「オイラは」、更には「ワテは」など、日常ではまず遣われない言い回しを用いることで、無駄に庶民派に固執せんとする。 「私は大物ですが、おさまってはいません。いつ何時も関西人らしく、いつまでも庶民派のままです。大物ぶっていないところをどうぞ皆様、見てください」とでも言いたげ。 そのような余りのわざとらしい演出に、こちらは、「こんなバカ、見たくもない!!」と呆れ、ただ引くばかりなのであるが、ファンは何の疑問もなく、「マサさん」などと称し、それが親しみの敬称などと勘違いしている有様。全く以て見苦しく、その頭脳の浅はかさに呆れてしまうばかりである。 何だか「マサさん」という表記は、要介護7億の禁治産者を髣髴とさせてならない。 「昌さん」ならばまだしも、なぜわざわざ「マサ」と片仮名表記にせしめるのだろうか。初めから「松田マサ」で行けばよいものを。 「昌さん」というのは、変換が面倒至極である。「まさ」なんて名のバカは居ないとでも言わんばかり。「まさる」ならば一発変換が効くが、「まさ」という名のために一発変換が効かず、いちいち文節調整をせねばならない。 それほどまでに大物ぶりたくないというのならば、その意気に応え、「バカさん」と称することにしよう。己を「まだまだ大物と扱われるほどではない。まだ自分の音楽が完成しきっていない。まだ愚人也」というその意気込みに大いに敬意を表してのことである。何も突っ込まれることはあるまい。 本題に入る。生い立ち如何については、その拙作を立ち読みしていただくことにし、第一の疑問としてこれを挙げる。 ~「無欲の賞」、是最大の傲慢の証し也。~ 拙作にも堂々と書かれていることであり、ライブのMCに於いてコンクールのエピソードを語る折に度々登場する文言としておなじみの台詞たる「無欲の賞」。これについて物申してみたく思う。 バカさんは、「無欲の賞」についてかかる見解をば述べられる。 「コンクールでは、『自分はこれをやりたい!』ということをはっきり見つけて追求することが大切。それがないと説得力のある音楽にはならない」とし、括弧書きで「コンクールで賞をもらうにはどんな曲がいいのか?というよくある発想は何とかならないだろうか?エレ糞の世界の非常に悲しい現実だ」と、嫌味たっぷりに締めくくる。ここで、ヤマハ関係者は「自分のやりたい音楽をせねば!」という、実に具体性無き、ある種意味不明なる目標をもってコンクールに励むことになる。 「そんな、『無欲の賞』だなんて。。。中学生からコンクールの頂点を目指して日夜練習に励んでいるものたちはどうなるの?」と思われる読者も居よう。 心配ご無用、当該中学生達は、「無欲の賞」を合言葉に、日夜コンクールに励むことになるのだ。我々一般の素人の目線からすれば、何とも気味の悪い光景であるが、ヤマハ関係者の間では、「無欲の賞」が美学とせられている。 考えてみれば、「無欲の賞」って、最大の傲慢の証しではなかろうか。実に嫌味たっぷりで、目にするだけ、耳にするだけで反吐が出るのだが、これにつき、ヤマハ関係者に疑問点を述べると、「理解力がない!」「賞狙いの出場者!何と下劣な!」として追い出されるがオチである。 そもそも、「賞が要らない」というのであれば、 どうしてコンクールに出場したのであろうか。 「成績はどうでもいい」「沢山の人に聞いてもらいたい」ならば、普通に発表会に出場するだけで事足りようし、自らの手を以てコンサートを主催するという手もあるわけである。コンクールへわざわざ出向く意義などどこにもない。 「コンクールに出場する」というだけで、「賞がほしい」ひいては、「グランプリが欲しい」という意欲が丸分かりである。「無欲の賞」「賞なんてどうでもよい」だなんてどうしたことか。 コンクールの出場者には、当然グランプリ狙いの者が居よう。否、それが当然の姿であり、何も非難せられるものではない。かかる場においては、目標は高き方が力が発揮できようから。その姿勢は全員悪いと言うのか。 バカさんは謂う。曰く、「『自分はやりたいことを、やりたいようにできた。いろんな人がきいてくれた。これで充分。賞なんてどうでもよい』と思った。それなのにグランプリ。このことは、ある暗示をしていると思う」と(以上、84頁)。 その暗示とは何か。 たまたま貴様の出場曲が審査員のツボにはまっただけだよ!! やりたいことをやればグランプリがとれる?とんでもない勘違い、嗚呼勘違いである。 このバカは本当にそのようなことを思っていたと言うのか。 そもそもやりたいことをやればグランプリがとれるとなると、グランプリなんて何の価値も見出さないではあるまいか。やりたいことをやり、その中からのグランプリである。やりたいことをやればグランプリがとれるだんて先ず無いし、あってはならないこととも言える。 やりたいことをやったのにグランプリがとれなかった。その手の者は、なるほど音楽の世界から手を引くべきなのやもしれないのは事実であろう。 反対に、やりたくないことをやってグランプリがとれた。これをバカさんは快く思わないようであるが、そうした場合に於いてもインパクトがでれば勝ちといわざるをえない場面だってある。 楽器店によると、傾向に合致した出場曲を以て出場せしめんとする。酷くなると、既成曲が上位の大会へコマを進めやすい所もある。事実、既成曲が受けに受けており、バカさんのいうように、オリジナル曲や、自分のやりたい曲を以てしては99%太刀打ちできない。筆者の能力が著しく低いという事情もあろうが、受けやすい既成曲を以て出場すれば、簡単に勝ち取れる仕組みのところもある。グランプリ取得は不可能やも知れないが。 コンクール出場歴を鑑みるに、バカさんは、洒落半分の姿勢の出場だったのであろう。dim.スケールのオリジナルということからして洒落の出場であることがよく判るというものである。 賞なんてどうでもよい=しゃれの出場、それなのにグランプリ。 バカさんは、洒落半分の出場を以て、グランプリを獲得した。これがすなわち「無欲の賞」である。 何だか物凄く嫌味な言い方ではなかろうか。 「コンクールって、こんな俺でも賞が取れるほど、甘っちょろいんだ!」という奢り高ぶりが、行間から読み取れる。中学生から頂点目指してコンクールに出場した者はどう生きてゆけばよいのか。 「無欲の賞を目指して!」と頑張っている場合ではないと思うのであるが。 筆者は、この昭和48年という時期が、エレ糞文化低落の一時点に思えてならない。一種のターニング・ポイントと言うべきものである。殊に、コンクール凋落の兆しが見えてきたように思えて仕方ないのである。洒落の出場者に対し、その姿勢に載せられてグランプリを頂戴した審査員の罪は甚大とは言えまいか。それは過言とすべきか。極論すれば、「欽ちゃんの仮装大賞」にて洒落半分にて出場した者の、くだらない一発芸や駄洒落に対し、「面白い」「観たことがない」として満点を授けるようなものである。そうした悪ふざけが、この年から始まった。凋落の兆しはこの時点から始まり、プロの質のターニングポイントもこの辺りから開始したように思えて仕方ない。「そういえば」という怪しい点が思い浮かぶはずである。 バカさんは、どうもコンクールによくある傾向を忌み嫌うようである。 雑誌「月エレ」の対談からもわかるように、クラッシックに偏りがちな風潮を嫌う。 残念ながら、コンクールに風潮は憑き物である。それが嫌ならば、コンクールというもの自体を廃止するしかない。 一時、「オリジナル部門の創設を」と唱えていた時期があるが、これは最も厄介な部門になろう。実際、作曲活動が賞狙いのものになり、後の作曲活動に大いに支障をきたそうし、コンクールを進めてゆくうちにその内部にてパターン化が起ころう。 拙作に於ける記述を鑑みるに、バカさんは現代音楽で出場するということを非常に斬新で、オリジナルのように考えていたようである。とんでもない勘違いである。 この当時は、現代音楽、もっと正確に言えば、変拍子調の曲が審査員に受ける傾向にあったことがよくわかる。 ボビーライルの出場曲然り、芝原くるみの「イラプション」(Focus)然り、 他にも道内講師中河 紀美江「Catch in Alice」(セキトオ・シゲオ)は3拍子と思わせておいてスウィングになるなど完全に現代音楽調であるし、マリテス・サリエンテス「パッサカリアc moll」(ヨハン・セバスチャン・バッハ)も変拍子のアレンジであったし、ヘンドラ・ウィジャヤ「酒とバラの日々」(ヘンリー・マンシーニ)も静や動を大袈裟に見せつける形態の、やたらとテンポが変わるアレンジであった。 変拍子で、現代音楽調の出場曲がグランプリ、入賞と上位に上がっており、何らかの傾向があることは容易に判別できる。 翌年も、グランプリ曲から鑑みるに、その傾向は続いていたと考えられる。翌年に限らず、コンクールは変拍子や現代音楽調の曲が出回っていた時期が続いていたはずだ。 「自分はやりたい音楽をやった。それだけ」・・・傾向など一切気にしていないような口調であるが、傾向を気にしていまいが傾向を振り払うことはできない。傾向を本当に気にしていないのであれば、賞を貰うべきではない。賞を貰ったと言う以上、傾向に合致していたのである。 「運も実力のうち」と言われるが、音楽コンクールの場合は特にそれが強く働くように考えられまいか。 バカさんには、どうも「やりたい音楽をやる=傾向にとらわれない」と考えがちの場面がよく見られるのだが、そのやりたい音楽が傾向に合っていたら下劣だと言うのか。 「異次元」は、現代音楽・変拍子調の曲をグランプリにとるという傾向に見事に合致していたからグランプリが取れたのである。傾向を気にしていないと言えども、傾向に合致していたのは事実。 よく批難する「クラッシックの出場」だって、やりたいからやるという思いの者が大半のはずである。まして頂点を狙わんとする者の場合は。 己は、思い切り傾向に合致した曲を披露しておきながら、何が「コンクールで賞をもらうにはどんな曲がいいか云々」だというのだ。 その思いは、コンクール出場にあたってある種の夢の計画が如きものである。一回きりの出場、周りは厳しい目の審査員が居るし、観客の注目度も発表会よりも高い。普段とは違うことをしてみたい、普段とは違う大曲を時間をかけてじっくり取り組みたいと考えるのは当然のことであり、むしろ尊ぶべき姿勢でもある。 フーテンだか何だか知らないが、要するに、(拙作を紐解くに)人にはとても自慢できないみずぼらしい生活を送っておきながら、数年の稽古でグランプリをとれた。しかも「無欲の賞」。 洒落でも傾向とやりたいことが合致すればグランプリがとれる。バカさんは、そうしたコンクールの虚構たるものを示したA級戦犯とは解釈できまいか。 「無欲の賞」は謙遜の姿勢ではない。洒落でもグランプリはとれるくらいにコンクールは馬鹿げた催しごとであることを示し、自らの演奏は単なるおふざけであるという嫌味のこもった最大に傲慢なる姿勢の表れなのである。これに気づけないバカさんの浅はかなる頭脳に、筆者は途方も無い怒りを覚え、この言葉の真意に気づけないエレ糞の世界に途方も無い悲しみを覚える。 かかる突込みをすると、次のような反論が押し寄せよう。曰く、 「勝負は、勝とうとすると負けるものだ」と。 スポーツの世界に於ける格言である。なるほどそれは一理ある。バカさんの「無欲の賞」は、それを表した言い回しのつもりなのであろう。筆者は、コンクールに傾向は憑かざるを得ないこと、賞に対して無欲ならば初めからコンクールに出場せず、自らコンサートを開けば事足りるし、発表会で十分ではないかという疑問が沸いて来て、どうしても傲慢の表れとしか解釈できない。 ピアニストのロナルド=カヴァイエは、「無欲の賞」の一環として、コンクールと呼ばれる催しごとには一切出場していないとのことである。そもそも賞に何の意味をも見出さないから出ない。 スポーツならば、コンクール、勝負事に出ないことには選手の価値は見出せないように思うし、附せられる点数にはルールに基づきある種の絶対性があり、運を頼りにしていられない。 どうせそのような意味合いを込めたいのならば、本宮ひろし師が如く、次のような発言だとまだ可愛げがある。曰く、 「人気の傾向を気にして漫画を描き、それが人気を得たとしても少しも嬉しくない。自分のやりたい漫画を描き、それが人気を得たというのであれば、自分の思いが伝わったということであり、嬉しいことである」と。 本宮師の場合、取得する賞は後からついてきたもののはずである。初めから、なにがしかのコンクールに出品することで得た賞ではなかろう。世に自分の漫画を発表し、読者から本当に心ある支持を受け、後でついてきた賞である。それだけに本宮師の「勝とうとすれば負ける」といった意味合いのその格言には一層の説得力が生まれる。 バカさんの場合は、賞は後からついてきたものか。コンクールに出場することでその場で得た賞であり、後から付いてきた賞ではない。ここではむしろ、「勝とうとして得た賞」と素直に認める方が可愛げがあるし、努力の甲斐もより伝えられまいか。 拙作を読み直すに、矛盾点があちらこちらに散らばっている。 まず、「全国大会までは行きたいなあ」(82頁最終行)という気持ちからして欲があるのを示しているようなものであるし、甘えた心意気に反吐が出る。素直に「グランプリを目指して」と断言すべきではあるまいか。 バカさんにグランプリに対する欲があるのは次の一文にて明らかになる。84頁3行目、 「沖(浩一)先生に、当時の音列即興の課題に対するアイディアとテープ(佐藤允彦さんの演奏。フリーの中に同音連打を「タッタッタン」と入れて自由な即興を展開していた)をいただいたおかげで、なんとグランプリになってしまった」 の箇所。 あのですね、 本当に「無欲」というならば、当該「いただいたアイディアとテープ」はゴミ箱に捨てると思うのですが。嘲笑 己の恥丸出しの経歴を「謙遜の姿勢」とも言わんばかりに見せ付けられ、偶然のグランプリ獲得に対して「無欲の賞」とのたまわれたのではたまったものではない。「グランプリってそんなに価値のないものなの?そんな馬鹿げた催しごとに中学生から(小学生からというケースもすこぶる多い)懸命になっていた自分って一体・・・」と虚しさを味わうのが本来のあり方の筈。 (因みに筆者は参加賞止まりですが何か。) コンクールにおける姿勢について散々物申してきた。曲自体は是如何。グランプリの価値は無きものだったか。それについて感想でも述べておこうか。 出場曲「異次元」、これ自体について。インパクトは十二分に伝わった。特にお気に入りの部分を挙げておくと、テーマに入るところのL.M.(現・L.K.)の伴奏。キメが終わり、アドリブパートに入る間もスリルと快活感に溢れていて心地よい。リズムをかけない中、あそこまでリズムをタイトに伝えられる演奏体系を披露したのは流石。下手にリズムに頼ると、リズムの無機的なる音質が故に、音楽性が台無しになってしまう。これは、リズムがなくてもリズム感は十二分に伝えられることを示したことで評価は受けてしかるべきであろう。 イントロのストリングスのフレーズも不気味で、dim.スケールのテンションを面白く使用しており、勉強にはなる。中間部の即興アドリブはデモ臭くてあまり好きではないが。 他のグランプリ曲、芝原くるみやボビー・ライルのも、インパクトが違い、一線を画している感じではあった。 あの姿勢は、洒落半分か。洒落ではあそこまでリズムなしでリズミカルな空気は出せまい。素直に「グランプリを取得したかった」で事足りるはず。そこまでして謙遜にこだわりたいのか。 謙遜は、使いようによっては却って尊大に感ぜられ、逆効果になりうる。そうしたデリカシーというもののなさが「無欲の賞」という言葉には秘められているように思える。 バカさんの疑問はこれにとどまらない。次に挙げる事項は、筆者が最も疑問に思い、不満至極なる姿勢である。次項にて検討しよう。
次の問題点はこちら。
~「作曲家の一面」とは??~ バカさんは、自身のオリジナル曲を発表するのに妙に面白い真似をしたがる。 パーソナルアルバム2・3・5・6では、あるテーマをもとに、オリジナル曲を幾つか集めたアルバムを、CDという形にて販売せしめ、その1年後にエレ糞曲集を発売していた。 パーソナルアルバム2は、正確にはLPであるが、茲ではCDと看做していただきたい。 CDは、楽譜(パーソナルアルバム2・3・5・6)のマッチング曲集という構成にはなっていない。全く違う構成のアレンジ・音色になっている。これにつき、「作曲家の一面を見てもらいたい」としている。 曲集は、エレクトーンプレイヤーとしての一面を見せ、CDアルバムは作曲家としての一面を見せるという狙いがあるらしい。 何だか多面性が期待できる狙いであり、言い回しであるが、これが アレンジ・音色・録音全然駄目!! ていうか、 誰も買うな!!! 「エィガ一刀両断」ならば「ライラの冒険」と共に0点確実。 普通にパーソナルアルバムの、そのバカさんののたまうところの「エレクトーンプレイヤーの一面をみてもらいたい」とする曲集のアレンジ・音色の方が明らかに秀でているように思えて仕方ない。筆者だけなのだろうか。普通に考えてこのCDは丸で聴き所の無い、バス酔いならぬCD酔いがしてしまう世紀の駄作に思えて仕方ないのであるが。よくぞこんな工夫の丸で見られないCDを平気で発売していられるものである。気持ち悪すぎだ。 これで本当に「作曲家の一面を」と確信しているのならば、バカさんのそのプロ意識を疑う。 特にCD「彼方へ」なんか、「お前やる気あんのか?!」と何度折り曲げようと思ったことか。 例えば「ノエル」、マサ・ストリングスなんて大々的に自慢していたストリングスサウンドであるが、薄っぺら過ぎて迫力も糞もない。温かみ?あれしきで感ずるわけが無い。 ピアノサウンドが兎に角平凡で、個性も糞もない。 エレクトーン・アレンジの方はこれ如何。 うーむ、、、9.6点(CDの方は整理ポスト決定)。 「パーソナルアルバム4ストリングスバラード」にて魅せつけた温かみあるストリングスサウンドを更に発展せしめたかのような心地よいストリングスの元に、母を思わせるオーボエ・ソロの絡み合いが心地よくて思わずスルメが如き存在と化している指折りのお気に入り作品である。一つ一つのパートにも存在意義が見出され、3パートしか使えないというエレ糞の制約をふんだんに利用した名アレンジと素直に納得行く構成なのだ。エレクトーン音楽というものに加担に挑戦するその姿勢が垣間見られる。間に挿入せられる「ジングルベル」のメロディも洒落が利いている。 CDはというと、やる気の無いピアノ・ソロがだらだらとメロディを弾かされている感じで温かみなどどこにもなく、あるのは「虚しさ」それだけ。 「一応本場のストリンスグを聞かせてやろうか」というわざとらしい魂胆のもとに、薄っぺらいストリングスがテキトーに入り込んで何が何だかわからないままにおしまい。 エレ糞アレンジで、どうしても再現音楽になりがちなエレ糞を用い、あれほどまでに素直に人の心を動かせる名アレンジを提供できる者が、どうして「作曲家としての一面を」という尤もらしい理由の元、これほどまでに特徴の無い雑音しか表せないのか途方に暮れる他ない 。 「彼方へ」、母親のレクイエムとのたまっておきながら、当該母親が没の前に作曲していたと言う矛盾が失笑できる曲である。「カメラはやめてください」と警告しておきながら、その風景を思い切り映している熊井映画「深い河」のカメラのようなものだ。一応「当初は『オーロラよさようなら』という意味合いにするつもりだった」と言う言い訳は為されているが。それはさておき、これなど、冬景色とオーロラの景色がオルガンサウンドに凝縮せられている感じで、本当に彼方への祈りをしたくなる構成。リバーブを「Church」に設定しているのが巧いと感じた。南極の寒い空気がここからにじみ出ているのである。敬虔なるパイプオルガンのあと、うねりがいっぱいのストリンスグサウンドという構成は絶妙と言う他ない。 これが、CDだと、やる気の無い、特徴など微塵も感ぜられないピアノサウンドがだらだら弾かされ、糞の迫力も感じさせないストリングスが適当に配置せられ、「出血大サービス」ということで、ミネハハの「あーあー」というボーカルサウンドが挿入せられる。このミネハハがこの上なくうざったい。 何だか母の死をバカにしているような安っぽさがありやしまいか。敬虔なる祈りどころか、パナホームのCMを見せ付けられているような感じで、感動も糞もない。これが「母へのレクイエム」だなんて笑止千万。エレ糞バージョンに於いて感ぜられた寒さを感じさせる空気などどこにもない。 ミネハハは、ひょっとして、母親の死に様に対し、「あ~あ」と呆れ果てているとでも言いたげ。 いかりや長介「だめだこりゃ」ってか。 元祖西遊記スーパーモンキー大冒険のゲームオーバー「ああ、しんじゃった」ってか。 絶対にバカさんの仕事の足は引っ張りたくないとでも言うかのように母は逝ったんだろ(47頁を見よ、47頁を!!)。それに感動している暇があるならこの糞アレンジを何とかしろってんだよ?! 他にも突っ込みどころ、怒りどころはあまたにあるのだが、筆者の思いをまとめるに、 何故素直にエレ糞プレイヤーの一面を主張しないのかということである。 作曲家の一面を見てもらいたいとして、エレ糞プレイヤーとの差別化を意識しすぎているのか、音色が楽譜のものと違っている。夫々の一面につき、音色が素晴らしいものであれば、こちらはここまで怒りに達しない。素晴らしくない、もっと正確に物申すと、作曲家の一面としての音色が、プレイヤーの一面としての音色に余りに劣ってばかりいることに激しい怒りを覚え、その姿勢に途方も無い疑問を抱かずにはいられない。 筆者の好きな人物、江頭2:50にも「1クールのレギュラーよりも一回の伝説」という姿勢に対して批判がある。「pppするぞ」というレギュラーをもっているではないかという。 筆者は何の怒りも感じないし、エガちゃんに新たなる伝説を期待するばかりである。まず、テレビのレギュラーではないし(同じレギュラーでもテレビとインターネットではまったく勝手が違うと筆者は確信する)、「伝説は単発出演のことか」と批判する者に物申したい。エガちゃんのその姿勢は、「1クールのレギュラー欲しさに堅実に仕事をこなすよりも、身が潰れても良いからとにかく何か伝説を残したい」という意味合いがこめられているわけであり、単発出演をモットーとしているのではない。批判する者、特に然るべく考えるファンには、その感覚の狭さに怒りを覚える。 実際、エガちゃんは、新たなる伝説を目指して様々なる試みを「pppするぞ」にて提供している。 バカさんの場合、余りにエレ糞プレイヤーの一面と作曲家の一面とで出来栄えが違いすぎ、その勘違いの姿勢に怒りを覚えるのだ。ヤマハ関係者の間では、あれほどまでにエレ糞を褒め称え、「エレクトーン音楽を極めたい」と公言しておきながら、何が作曲家の姿勢だとなってしまう。 作曲家としての一面を主張するにしても、あれほどみずぼらしい音色に変えるならば、楽譜どおりの音の方がよほど気が利いている。無理して音色を変えることで劣らせてしまうとは一体どういう神経だと言うのか。 「作曲家の一面」とのたまっておきながら、「お母さんから聞いたさんご礁のお話」の音色など、初心者モデルのエレ糞みたいな音ではあるまいか。あそこは普通は生身の琉球三味線に胡弓を用いるであろう。あの琉球スケールのメロディは胡弓を意識したもののはずだ。それが、何故かエレ糞臭い安っぽいバイオリンの音色を延々と聞かされるわけである。不快この上ない。 普通にエレ糞アレンジのままの形でCDアルバムを発表せよと物申したい。 何故、それをせんとしないのか。 バカさんは、雑誌の対談などで、かかる発言をしていた。曰く、 「エレ糞の人は、エレ糞音楽しか聴かない。もっと他の楽器の音楽に耳を傾けるべきである」と。 エレ糞関係者のそうした傾向を踏まえ、作曲家の一面とやらを提示したCDアルバムを発売してあげていると言うのか。そのような傲慢とも取れる思いやりに反吐が出、拒絶反応を起こしてしまう。 おそらくバカさんに直接この姿勢に対して疑問を投げかけると、上記のような意味合いの返答をすることであろう。 蓋を開けてみると、凡そ作曲家とは思えないふしだらなアレンジ・音色・録音が続いて実にうんざりしてしまう。数あるエレ糞関係のCDの中で最も劣悪。 どうしてエレ糞アレンジを素直に主張しないのか。 エレ糞の音は、CDにて発表するには余りに劣悪で聞いていられないからである。 バカさんは、エレ糞という機械の限界をかかる形で露呈しているのだ。作曲家の一面云々、別の顔を見せたいという主張は、自分を偉く見せるための演出に過ぎない。 「自分はエレ糞バカではない。エレ糞以外の音楽にも精通している。それを主張せねば」という焦りも感ぜられる。エレ糞音楽しか知らないならばそれでよいではないか。実際、エレ糞音楽、エレ糞にしかできない音楽を極めたいのであろう。素直に極めればよいではあるまいか。 ピアノ音楽しか知らない、できないピアニストは愚かか。ジャズピアノに精通しているピアニストはこれ如何。バイオリニストの場合はこれ如何。 何故エレ糞プレイヤーとしての一面にとどまることを拒むのだ。 エレ糞プレイヤーは、音楽界において負け犬の印だからである。非常に偏見をもたれるからである。そうした市民権のなさを、「作曲家の一面」を無理して有さんとする姿勢から読み取れるわけである。 プロデューサーの質の悪さを指摘する声があるが、実のところ、大野雄二プロデュース「サイレントダイアローグ」も最悪の出来に思えてならない。これはエレ糞だから許せるポンコツフュージョン曲集であり、CDにて1つのフュージョンとして聴くには余りに不甲斐無すぎやしまいか。 選曲が大いに気に入らない。「うみねこ」といった、CDのみに収録せられている曲目など、本来掲載したかった曲が掲載できなくて、やっつけでつくったとしか思えない不愉快なる曲である。インパクトも糞もない。 何故「NYパッションストリート」が入っていないのか。これには、ウェザーリポート「バートランド」にくりそつで、本家から訴えられないように、外の世界から2番煎じと見られないようにCDには掲載しなかったと解釈せられている。この「バートランド」を耳にして、筆者はがっくりきた。茲まで汚い打算家とは思いもよらなかった。面白いのは、エレ糞アレンジの「バートランド」は、「NYパッション~」により酷似したアレンジになっていることである。 音色も最悪。「パルピニヨン」のパイプオルガンの音色など、ものすごく安っぽくて少しも敬虔さが伝わってこず、ピアノも薄っぺらい。 筆者の感想を述べると、 「サイレントダイアローグ」→音色、選曲が最悪。インパクトが薄すぎ。 「蜃気楼」→録音が最悪、こもりすぎ。 「道」→音色が気持ち悪すぎ。 「オーロラに乗って」→何もかも最悪。 「蜃気楼」は何とか2点。もう少し録音状態を良くすればもっと広く好まれようにという無念さはある。 申し訳ないが「打」は最低の曲。エレ糞らしさを追求しているかなんだか知らないが、これはデモ演奏のための曲であろう。CDにして聴いてみると、マリンバがただ暴れているだけで、何を伝えたいかさっぱりわからない。録音状態が悪く、ますますその感は強まる。 バカさんは、無類のエレ糞好きと錯覚しているヤマハ関係者は多かろう。とんでもない誤解であり、むしろバカさんは無類のエレ糞嫌いなのである。エレ糞が好きならば、大人しくエレ糞に固執していろというのだ。それがどうして都合の悪いことなのだ。エレ糞に固執することはそんなにいけないことか。都合悪しきことか。1つのものを極める事は素晴らしくないことなのか。貴様の目的はエレ糞音楽を極めることではなかったのか。 バカさんはトップ・プレイヤーの位置にある。トップだ。バカさんのとる行動は尋常よりも多大なる影響を及ぼすことになる。トップがこれほどまでにエレ糞から抜け出す機会をうかがっているのだ。 トップのそうした焦りとも言える姿勢から、「本当ならばエレ糞の世界から抜け出したいが、エレ糞以外の音楽では自立できないから仕方なくエレ糞を続けている」という、エレ糞プレイヤー達の哀しき現実の事情も併せて読み取れてしまう。ヤマハ関係者は、そんなエレ糞の世界に対し、何百万、何億もの金銭を投資するわけである。無駄遣いも甚だしい。どうりでエレ糞が楽器として認知せられないわけだ。 作曲家云々の姿勢には次のような疑問も生ず。「作曲家の一面を見せたい」というのであれば、どうしてヤマハ特約店にしか自身のCDを出まわせない。エレ糞に頼らない音楽を目指すというのであれば、ヤマハの助けを借りる必要はなく、寧ろ借りるべきではなかろう。もっと多くの者に作曲家としての一面を見せるべきではないのか。作曲家だとか違った一面だとか、雑誌のインタビューにて偉そうにのたまっておきながら、結局ヤマハの助けがなければ自立できない、何とも矮小なる存在と言うわけだ。世間になど、モノホンの音楽界になど見向きもせられないわけだ。 そんな分際で、 「目指せ!日本のベートーベン」?! アフォかというのだ。 バカさん曰く、 「エレ糞は企業依存の楽器。これからは企業から自立せねばならない」と。 大いなる勘違いであり、人間が企業依存しているのである。自ら手足をもって行動できないエレ糞自身は、企業依存の人間により動かされるわけで、結果的に企業依存の楽器になっているように見えるわけであり、使用する人間が悪いのだ。 茲で、ヤマハ関係者からは次の突込みが押し寄せよう。 「マサさん(←嗚呼、めんどくせぇ)の音楽は番組のBGMにて良く用いられている」 「広く世間に認知せられている!」 などなど。 なるほど、バカさんのオリジナルは、CDアレンジの形で、殊にテレビ東京がBGMに用いている感がある。関係者にとっては、「マサさん」の楽曲が世間に広く知られる善き機会と解釈しよう。 一見、ヤマハ関係者の突っ込みは正当に思えるのだが、バカさんは致命的間違いを犯している。 あの~~~~~~~、 BGMほどウルサイ音楽はなかったんじゃありませんでしたっけ??(拙作の140頁を参照せよ馬鹿) 貴様洋服屋の「シャリシャリBGM」が嫌いだから洋服屋に行きたくないんだろ(同142頁)。 他人のBGMならば不愉快に感じるが、己の曲がBGMに用いられているのならばそれで良いのか。満足が行くのか。洋服屋が好きになれるのか。 今の我々日本人にとって邦楽はもはや自分達の音楽ではない。一部の愛好家の人々以外にとっては、年に1回お正月に聞く、お目出度いBGMでしかなくなってしまっている。 自分でCDをかけるのではなく、テレビや商店が客のお正月気分を盛り上げるためにBGMとして流す。こんな国は世界広しといえ、この小さな島国だけ、それをいたく嘆いているではあるまいか(同218頁)。 今、己の曲は、テレビ番組のバラエティ気分を盛り上げるためにBGMとして流すのだ。自分でCDを購入し、自分でかけるのではなく、テレビ番組にてBGMとして流されているのだ。 貴様の音楽は、その程度の使い捨て音楽に過ぎないのだ。それが世間の認識。 邦楽がBGMとして流すのは許せないが、自らの音楽はどんどんBGMとして使ってほしいというのか。 それで謙遜しているつもりなのか。全くこれほどまでに打算に満ちた人間を筆者は知らない。 関係者や自身が発するであろう突っ込みは、自らの音楽論をも崩壊せしめるわけである。 そもそも邦楽をBGMとして流すことのどこに悪意が感ぜられると言うのか。 正月に流すのは、正月気分を演出するためであり、それはそれで気の利いた使い方であろう。己のくっだらない二面性という計算の方がよほど低俗で悪意に満ちている。 こんな低俗な勘違いがエレ糞界のトップを走ってきたわけである。 どうりで世間がエレ糞を見下すわけである。 エレ糞の駄目さ加減をこのように露呈せられたのではたまったものではない。ヤマハ関係者は気づかずとも、世間や、ヤマハ外の音楽家は全て気づいているものであり、筆者の怒りは外の世界に於いては当然の事項と考えられていることであろう。そんな当然のことが非常識になり、時には「虐待」「諸悪の根源」として逆に虐げられてしまう世界、それが「ヤマハ」というものである。 エレ糞の地位が低下したのは断じて値段云々ではない。若しも質が高ければそれなりに人はついてくるものである。 エレ糞は、「高値」である。質と値段が合致していないのである。 「高値」というのは、そうした不満であり、数字の大きさではない。 プレイヤーといった、エレ糞のいわばトップをひた走る者達は、バカさんの愚かしい打算をみればわかるとおり、エレ糞から離れたくて必死なのである。必死じゃないと言うならば、エレ糞音楽と言うものにもっと正面から向き合えというのだ。ヤマハの助けを借りず、積極的にエレ糞ライブを開くべきであろう。それをしない、正面から向き合わないと言うことは、エレ糞が嫌いであると態度を以て示しているようなものである。 抜け出したくても抜け出せない負け犬が寄り添っている奇妙な世界を外の世界の人間は如何に捉えるか。見下して当然である。 これが、ヤマハは「まだわかってもらえていない!」「エレ糞の素晴らしさをもっと知らしめねば」と燃えるものであるからまったく始末が悪い。身近にエレ糞の限界を露呈している者が居るというのに、それに気づけないとは。そればかりか、気づいた者を徹底して虐げるものであるからいつまでも改善の兆しが見られない。アニメに例えれば、神魔・千里をいつまでも友人と思い続けている吸血姫・美夕のようなものだ。千里が松田昌、関係者が美夕、友情のイコンが(月エレにある)森松慶子の拙文、大げさなる宣伝文といったところか。 その喩えがわかりにくいというならば、映画「深い河」のインドに於ける1シーンを挙げよう。 カメラマンの三條が筆者、「やめてください!」と止めに入るインドのガイド役がこのバカさん、ガイドの注意を無視し、写真撮影に勤しむ三條に対して怒り、立ち向かう(インド人の)遺族たちがヤマハ関係者、その場面を思い切り撮影している(映画の撮影)カメラがかの不細工な似非・マネージャー「●●●●●」な。 ヤマハ関係者のその頭脳は外からみれば甚だ以上で失笑ものである。そのような浅はかな頭脳を持ち合わせているのも納得がゆかないわけではない。何しろエレ糞のモデルチェンジは凄まじく早い。数年毎に百万単位が平気で動く。みんな「機種がよくなった」と思い込んで購入しているのである。単純に騙されやすい馬鹿集団というわけだ。 そのような馬鹿集団において、徹底した打算を以てトップに君臨してきた愚者、それが松田昌・・・筆者はそのように捉えている。ヤマハの愚かしい、異常なる環境に甘えてきて、音楽家の道を失ったホームラン級のバカといったところか。 「ヤマハというのは、これしきの浅はかなる打算をもってこれだけ人に好かれるのですよ。ヤマハ関係者というのは、これほどまでに単純でボクの打算を見抜けないのですよ。ものすごく甘っちょろい世界ですよ。音大・芸大を出て作曲家として大成できなかった皆さん、少しの打算で人を騙せるヤマハ音楽振興会はお買い得ならぬ働き得ですよぉ~」と外部に宣伝しているようなものだ。 音色についてであるが、バカさんのモットーは、「エレクトーンで泥んこ遊び」。未知の音色との鮮烈なる出逢いを通じ、曲作りに励む、とのことである。その割には音色作りに関してもう一つインパクトが伝わってこない。LP「BigArtistSeries」では、「5セレ2」の曲目を収録しているが、他のファンがこしらえたレジストの方が聴き応えがあるという皮肉な事態になっている。 バカさんは、論文「エレクトーンで泥んこ遊び」(平成6年発表)において、かくのごとく苦言を呈される。曰く、 ~(ボクの作曲の姿勢から鑑みるに、)今のエレクトーンを習う人の殆どが、付録のレジストレーション・データを使って、他人がアレンジした楽譜をそのまま弾いて満足しているのが不思議で仕方ないし、一部の作曲家の方が音色の細部を奏者に任せてしまっているのも不思議で仕方ない~ と。 (註:括弧書きの部分は筆者が要約) 一見、深い考察の入った文章に思えるが、筆者にはいかなる疑問を伝えたいのかさっぱりわからない。小学校の卒業アルバムレベルだ。 音色を通じて曲作りに励んだというならば、付録のレジストデータをそのままの形で演奏するのが適切とはなりやしまいか。レジストを変更するのは、音色と曲想が一致していないと考えるからである。作曲者にしてみれば、本来、無闇にレジストを変更せられるのは腹立たしいはずである。そのように考えるからレジストデータを楽譜に付属させるのであろう。 音楽は弾く者によってなにがしかの違いは出よう。EL以降では、タッチトーンもしっかりしており、レジスト変更以外にも色々個性を出す手段はあるはず。何もレジストデータそのままの形で弾くことは非難せられるべきことではあるまい。 これは一部の関係者からも批判せられているが、「松田昌Best」や「エレクトーン・スタイル」のような形のアルバムは、本来おかしいとなる。自らが呈していた、「音色の細部を奏者に任せてしまっている」「一部の作曲家」状態に陥っているからだ。 その「エレクトーン・スタイル」であるが、「普遍的な仕事」かなんだか知らないが、譜面をひもとけば、所謂スピネット・タイプのエレ糞では一生演奏できないということになる。D800などを有する者には死刑宣告を下されたようなものだ。巻末にはCDがある。本人に言わせると、「最後に聴くもの」となるのだろうが、どうもしっくりこない企画である。レジストデータ付き譜面と変わらない印象がある。このタイプの譜面は、5冊くらいしか出ていなかったのではあるまいか。出版初期こそ張り切っていたものの、いつの間にかEL時代と変わらない、レジストに頼りっきりのスタイルに舞い戻っている。 今は、レジストデータは別売になっており、必ずついてまわるデータではなくなっている。全ての譜面を「エレクトーン・スタイル」形式にしてしまえばよいのだ。 掲載曲が、今まで散々アレンジせられてきた定石のものばかりなのもどうかしている。「エレクトーン・スタイル」でしかできない曲目の掲載に勤しむべきである。 バカさんの許せない点といえば、これも挙げられよう。 夢は本当に人に告げれば叶うのか?? EL900登場時、しきりに口にしていた教訓である。 どうも、自分の夢を叶えたいとき、その夢を、人に向かって告げればよいというのだ。そうすれば、おのずと道は開けてくる。有言実行の精神というわけだ。 言われた側は早速自分の夢をあちらこちらの人に告げていた。真剣にバカさんの教訓を遵守していた。熱き松田昌フリークである。当該フリークは、かれこれ20年来に亘ってファン活動を行っている。バカさんのHPの掲示板に合わせてわざわざ自身のHPの掲示板を変えたほどである。その心意気に反吐が出るほか無い。20年来もファン活動をしていれば絶対にバカさんの瑕疵に気づくはずなのだが。 周りも煽る、煽る。教育者気取りの主婦が曰く、 「君も何か夢があったらすすんで人に告げないと」と。 バカさんは、如何なる夢を周りに告げていたのか。 これぞエレクトーン、という演奏法を開発したい。 もっと多くの人に愛される曲を作りたい! オペラやミュージカルの作曲をしたい! エレクトーンとオーケストラのためにも作曲したい! 60歳までにはジャズ・ピアニストとしてデビューしたい! 死ぬまでに、キース・ジャレットのようなすべて即興のコンサートを1回はしたい! (以上、同252頁) これらの夢は、如何なる形をもってかなえられたか。 一つ目、全然その音沙汰が無い。 バカさん奏法といえば、クラスター奏法が挙げられる。よくわからないし、習得する気などさらさらないのであるが、不評のために用いられなくなったとのこと。そもそも、左足を鍵盤に乗せてそれがどうしたと物申したい。我々聴衆は、良い音を聴きたいのであり、そんな曲芸などには微塵の期待も無い。 是について一言、いい加減、「昔々クラスター奏法をやって大顰蹙を買いました云々」というエピソード話を披露するのはやめよ。拙作を紐解けばわかることであるし、恐らく貴様の取り巻きなど何十年とくっついている己の瑕疵のわからない浅はかなる盲信者であろうから一々公開する意義など無い。30年来に亘りこの根多をしてはいまいか。ヤマハ関係者にしても、いい加減飽きるべきである。このような、きわめて知能指数の低い取り巻きに囲まれて勘違いぶりが形成せられていったのであろう。 もう1つ、「くねくね奏法」があったが、結局2曲のみ(「打」「マリンバ合奏団」)。それで「エレクトーン奏法」とはいいがたいし、普及の音沙汰など微塵も無い。 バカさんにとっては、「ホリゾンタルタッチ」が、エレ糞奏法というのか。これは、開発者による奏法で、バカさんの開発せし奏法ではない。これは、エレ糞独自の奏法とはいいがたく、単にビブラートやピッチの変化を生に近づける、模倣の一環でしかなく、エレ糞音楽としては頗る独自性に欠ける。 オペラ、ミュージカルだなんてのたまっておきながら、実際にやったのは道端に溢れ転がっているような程度のピアニカ楽曲ではあるまいか。それも、結局ヤマハ関係者にしか認知せられていない。まるでヤマハを抜けた意味が無い。 60歳までには云々とのたまっているが、実際になったのは大学教授ではあるまいか。 演奏とは全く正反対のこと。 筆者は、大学教授への就任は否定しない。向谷師だって大学にて教鞭をとられているし、土居、もとい、松居慶子師も、どこぞの大学の客員教授に就任したようである。他、沖浩一・齋藤英美・日野正雄・岡田敬二などなど、大学にて教鞭をとられるケースはあまたにある。 疑問なのが、「どうして名古屋なの?」ということ。まず、あれほど大阪を褒め称えておきながら、名古屋にあっさり引っ越すのは納得行かない。まして、そのような姿勢で大阪の味方をせられてはたまったものではない。今度は「名古屋のいいところ」などをつらつらと挙げてゆくのであろうか。大阪はこれからどんどん貶められてゆくのであろうか。 名古屋音大教授に就任の話が出て間もなくして、住所が「名古屋(愛知県?)」となっていた。ぶったまげた。 かかるバカさんの姿勢を鑑みるに、「わたしは音楽家として大成できていません」と宣言しているようなものではあるまいか。教鞭をとらせてくれる大学など、兵庫県ならばあまたにあろうに。何と格好の悪いトップ・プレイヤーであろうか。何が「好きな音楽の演奏で喰って行ける自分を幸せに思う」だ。 演奏で喰っていけると断言するならば、教授職に頼る必要はあるまい。 バカさんにとって、「人に教える」というのは最も嫌いな分野であったはず。 ヤマハ関係者は、バカさんが震災に遭ったから名古屋に引っ越したと考えていることであろう。バカさんは、震災当時、兵庫県には居らず、震災の被害など無縁だったのである。その打算に騙されるなかれ。ヤマハから独立した途端、大学教授に就任しているところからして怪しさ満点だ。 「即興のコンサート」だなんて、MCの根多も即興できないバカに、どうして即興のコンサートだなんて開催できようか。教授に就任しては、こんな摩訶不思議なコンサートなど、永久に開催できまい。 実際、バカさんの演奏曲目は一定で、即興の要素など微塵もない。 バカさんの夢は、何一つ叶えられていない。 それに気づかずに、ファン活動を相変わらず続ける者に途方も無い怒りと呆れを覚える。 「60歳でグランプリ!」と堂々宣言できるその神経、筆者には到底理解できない。 (そんなバカなファンを「未来のOyaji」として善人と崇める者たちはもっと理解できない。) 本家は何一つ叶えられていないのに。 全く宣言していなかったヤマハ独立、ピアニカ転向、大学教授といったことが叶えられる有様である。 それでいてコンサートの名前が「夢を追いかけて」。 これしきのからくりを見抜けない世界に身を投じていては、勘違いするも当然やも知れない。 ファンはバカさんに同じく単細胞で、配慮の欠缺が凄まじい。 ある掲示板の書き込みに対し、「音楽はコンクールが全てではない!!心だ!!」と怒りの発言をしておきながら、おのれの夢はというと、「60歳でグランプリ!」 ・・・コンクールが全てではないならば、グランプリなんて目標を目指してんじゃねえよっての。 何だかバカさんが被害者に思えてくるが、油断する無かれ。 バカさんは立派にホームラン級のおバカさんである。 「目指せ日本のベートーヴェン」というならば、そのようなファンのイエローボイスに毒されるべきではない。その時点で、ベートーヴェンを持ち出すだなんて、おこがましきにも程がある。 TVを観ていると、近年、ベートーヴェンの墓の前でピアニカ演奏を披露したとのこと。 「憧れのベートーヴェンの下についにたどり着けた」とずいぶんご満悦の様子。 お金があれば誰でも墓場には訪れられるものではないでしょうか??嘲笑 バカさんの不満につき、他にも色々あるが、かかるテーマにしてまとめてみる。 ~バカさんの善意と欺瞞~ バカさんは庶民派、善人というイメージがはびこっている。 バカさんの発言には、いつも人をいつくしみたいという思いに溢れている。 その一端を紹介する。 ボクはよく思うことがある。教室に通わず、旧機種にて練習する者たちが本当のエレクトーン愛好者ではと云々。 よくぞこんな間の抜けた発言を平気で、しかもいい気になって発言していられるものだ。 それならば、己のレッスンに通っている者はどうなるのか。プレイヤーのレッスンとなると、旧機種では絶対に練習できない環境に追いやられることになる。そうした者はホームラン級のバカか。バカさんは、見ず知らずの来訪者のレスをするに際し、いかにも来訪者の味方をするフリをしておきながら、教室に通う者、自らのレッスンを受ける者を多大に貶し倒しているのである。そんな基本的な気遣いができない単細胞、それが松田昌という人間である。 バカさんは、機種依存を嫌うフリをする。それは一理あるのだが、バカさんは、日本一ホリゾンタルタッチを多用する馬鹿である。必然的にEL900といった上位機種でないとバカさんのレッスン、世界観についてゆくことができないのだ。ホリゾンタルタッチに固執する時点で充分機種に依存していると思うのだが。これに気づかないバカさんは本当に「どうかしている」。 旧機種ならば、ホリゾンタルは不要なのか。貴様にとってホリゾンタルの意義はそれほどまでに矮小なるものだったのか。教室に通わない者は貴様のレッスンに通う者よりも尊ぶべき存在なのか。 自分は大学教授だから、大学にて貴様のレッスンを受けに通っている者は尊ぶべき存在か。ヤマハ音楽教室に通う者よりもか。 バカさんは、自著にてかくのごとき発言をしている。曰く、 「ヤマハの教育システムは問題の部分もあるが、日本の音楽界で素晴らしい役割を果たしていると思う。ヤマハの先生方、がんばりましょう!」(220頁)と。 教室に通っていない者は、その「素晴らしい役割を果たしている」音楽教育を受けていないのであるが、それは良いことなのか。 話が違うじゃねえかゴルァ!! そもそも、この発言の4年後にヤマハから独立というのがどうかしている。ヤマハが素晴らしい役割を果たしているならば、独立する理由がないし、その素晴らしさを伝えんとするのが正当であろう。 「問題の部分もあるが」というのが憎い表現であるが、この一文は、基本的にヤマハを賞賛していると解釈すべきであろう。ヤマハ関係者は、独立の際、「格好いい」「新たなるマサさんを期待して」と賞賛しきっていたが、この人たちは、バカさんのヤマハ賞賛を如何に捉えていたのであろうか。 たとえ読者が一人でも僕は「月エレ」の連載を続ける。 だったらどうして「月エレ」にて連載をするのだよ馬鹿。 多くの人に読んでもらいたいというエゴが働いているから連載するのだろうが。 もしも本当に読者がひとりでも構わないというならば、ブログにて無料にて己の連載を公開せよというのだ。 ネット環境に恵まれていない者が貴様の連載を読んでいる可能性は大いにある。その人たちはどう慰めてあげるつもりなのだ。 言われた側も言われた側で、そのマネをするものだから本当にたちが悪く、不愉快至極である。 マネをする前にバカさんの配慮の無さに気づけというのだ。 これに気づかずして心理学専攻だとか理系専攻だとか、笑わせるなというのだ。 バカさんは、自分の連載に付き、このようなトンチンカンなコメントをくだしていあがる。 これは、エレクトーンに限ったことではなく、全ての楽器に共通している論理である。サックス奏者にも読んでもらいたい。 本気でそう思うならばどうしてヤマハでしか通用しない「月エレ」にて自分の連載をするのだろうか。 もうヤマハを辞めて10年が経たんとしているのに、どうしてヤマハに固執する。どうして月エレの連載に頼りっきりなのだ。貴様の実力がその程度のものだからだろ。 実際、内容は「ポピュラーアレンジの基礎知識」をそのまま転載したような内容の薄いものだしな。というか、普通に音楽を勉強していれば自然に理解できるもので、あのような形の勉強法は非効率以外の何者でもない。 実際、次のようなコード進行のからくりを見抜けない。 「F#m7(-5)→B7→Dm7→G7」 「E7→C」 我々一般人の目線からすれば、ドミナントモーションが成り立っていないことに強い抵抗と不快感を感ずるのであるが、ヤマハ関係者の手にかかると、「斬新!」となってしまうのだ。 「人それぞれ!理論が全てではない!」と逆切れせられる。 そんな単細胞が、月エレの連載を読みこなし、勉強に励んでいるというのだ。意義が何も無くはあるまいか。 ヤマハは、殊にエレ糞は、コード進行に敏感な者を育てられるのが売りだった筈なのに、話が違いすぎるではあるまいか。 マスコミに登場する折は、必ずといってよいほどにピアニカ奏者として登場する。ヤマハにて活動するときは、なにがしかのエレ糞好きの振る舞いをする。エレ糞プレイヤーを振舞っているのはヤマハ内部だけではあるまいか。そのような姿勢では一生エレ糞は日の目を見ないだろう。 バカさんの連載愛読者に対するやり取りを思い出すうちに疑問に思ったことがある。 この人、ファンサービスがとにかく駄目すぎ! 「駄目」と否定しては流石に品のない誹謗にしかなり得まい。 「ファンサービスが下手糞」としておこう。数ある音楽家のコンサートの中、最もぎごちない対応に感じたのがこのバカさんである。 何が不満なのかというと、けだし、ファンであることを公言したときと何も公言せずじまいのときと余りに対応が違いすぎやしまいか。 20年来のファンには、年賀状を送りつけたり、夫婦で友達付き合いをしたり、オフ会に顔を見せんとしたり、とにかく庶民派の顔を売りつける。それ以外、単にコンサートを楽しみに来ただけの者はこれ如何ということだ。 具体的には、(HPの)掲示板にて書き込みをしている旨を告げたとき(そこで用いているHNを告げたとき)と、告げなかったときとで対応が余りに違いすぎ。 告げたときの喜びようと、告げなかったときの無表情さに余りに対応の落差が見られる。その一瞬の隙が余りにありすぎ。明らかにファンであることを告げたり、HNを告げる前後で態度が変わっているのだ。 「掲示板にて書き込みを怠らない人ならば、絶対に良い顔をせねば」という打算がその隙から垣間見られるのだ。 ファンというのは、掲示板に書き込まねばならないものか。ファンとは、自身の作った音楽を熱心に聴き、熱心に演奏する者だと思うのだが。一々HPにて「ファンです!」と宣言せねばならないというのか。 同業者に於いて対応の良かった者を挙げるとすると、岩内佐織師が然り。相愛大にて沖浩一門下生でもあった。師は、サイン会の折、少しでも自らの著した譜面が少しでも汚れていると、「使い込んでいますねぇ」と大いに喜び、励ましてくださる。それは、自らの著した譜面に対し、責任感があるからであろう。技術屋からも好評で、荷物運びの手伝いは欠かせないという。 思えば技術屋から男性プレイヤー(特に若手・中堅)に関する良い話を聞きませんなぁ~~・・・こちらの錯覚か。 バカさんは、楽譜が汚れていようがいまいが無表情、無反応。 兎に角HNを告げるなりし、ファンであることを公言しないと駄目。 逆に言えば、それさえすれば、汚れていようがいまいが手厚すぎる対応をしてくださる。 どうも譜面や自著に対する責任感が備わっていないように思えてくるのだ。 実際、君子豹変が著しいことは事実であろう。「ヤマハは素晴らしい」と断言しておきながら4年後に独立することなど。 掲示板では日本一良い対応をしている。筆者のみるところ日本一。お気に入りの持ち根多を告げれば大喜びで、手厚い褒め言葉が返ってくる。 それも、妙な打算が働いてのことではあるまいか。掲示板は世界中に観られるわけであるし。 その発言は、自著と照らし合わせると、その場限りの褒め言葉で、持論など自在に豹変しすぎている。 自作曲「I Can See~」という長ったらしい題名の曲にて、バカさんはライブのとき、XG音源を用いまくったアレンジを披露した。是に対し、20年来の厚きファンが、XGを用いることに対する反論をした。 バカさん曰く、「あなたの前ではこのアレンジを披露したくなかった」と。 をいをいをい~~、チミチミ、んじゃあ当該厚きファン以外の前だったら堂々と公表するつもりだったのかよぉぉぉ~~。普段XGを散々否定している割には随分と好都合な言動ではないかい?? 「えぇ~~~、マサさんて、コンサートはすんごく楽しいじゃない?!」 おっしゃるとおり。正に日本随一と言わんばかりのエンターテイナーだ。即興演奏のときは、観客の氏名を用いた即興演奏を展開し、そのFDデータを本人に贈呈。ピアニカ演奏では手拍子をたたかせて観客と演奏者が一体のコンサートとなるようにあまたの工夫を重ねているのが伝わってくるし、合間のトークも面白くせんとする工夫が感ぜられる。 打算がいっぱいのコンサートに疲れ、その後のサインや握手贈呈のとき、粗末な態度になっては居まいか。都合の良い盲信者に良い顔をしすぎてはいないか。 かかる姿勢、結局ヤマハ関係者しか立ち寄れないコンサートつくりになってはいまいか。外部の一般の聴衆は寄り付けまい。 けだし、バンド「ベアーズ」にて活躍していた折は、舞台裏にては自分は何もせず、他人任せの運営で、表舞台に於いてはバンドリーダーとして人一倍張り切っていた姿が思い浮かぶ。そうした打算まみれの行動をしてきて、本人の意図しないままに周りを傷心状態に陥らせているのではなかろうか。本人に言わせれば、「不満ならばボクについてこなければよいだけの話」となるのだろうが。 自著には、「当時のフュージョンバンドをコピーする以上のことはできなかった」と記されている。その詳細如何についてはさておき、このような目立ちたがりの打算屋にはどだいバンド活動は務まるまい。 最近は、子供を対象としたコンサートを精力的に行うようになった。子供を相手にするは芸人として終わりの証しと断言するつもりはないが、バカさんの場合、次のような打算が垣間見られる。 子供時代に植えつけられた印象というものは、大人になっても残ろう。筆者は、未だに「欽どこ」の萩本(真屋)順子に対しては「鬼百合」というイメージがある。わらべの「もしも明日が」の演奏の終了後、トークのコーナーがあるのだが、いつも欽ちゃんにそのように弄られていたからである。子供時代に植えつけられた印象は甚大で、簡単に取り崩せない。 バカさんの子供に対する接し方は、これまでとは比較にならないくらいに丁重で、思わず頭が下がる。これまでのファンサービスのがさつさを改めたのか。 否、子供に良いおじさんであるという印象を植え付けるための打算による行動である。子供に「良いおじさん」という印象を受け付けておけば、当該子供が成長した折、いつまでも「良いおじさん、マサさん」と慕ってくれよう。そのような打算があるからあれほどまでに良いおじさんでありつづけようとし続けるのだ。それだけに、非常に気色が悪く、わざとらしい接し方で観ていて反吐がでるのだが、当該子供は打算の産物とは一生気づくまい。今コンサートにて接している子供達が成長すると、バカさんはますます子供に好感をもたれ、筆者のようなアンチに敵対心を抱くことであろう。バカさんは矛盾だらけの打算の行動を誰にも咎められずに済むことになり、益々世知辛い世の中になろう。 バカさんの子供に対する親切心には、このような薄汚れた打算が垣間見られ、筆者は「子供を相手にすることは、芸人として終了の証」と断言できる。この薄汚れた打算の姿勢が何よりもの証拠だ。 バカさんは、嘗てはこれほどまでに子供相手のコンサートはやらず、むしろ至って消極的だったはずだ。本性がばれるのを恐れてか、子供相手のコンサートを精力的に行っているとしか、少なくとも筆者には考えられない。 曲目の解説にしても、平成12年発売の「パーソナル 松田昌」は善人さを強調しすぎ。「春待人」においては、「阪神大震災。木枯らし吹きすさぶ中、春を待ち望みながら人々は助け合った云々」と、震災の風景を目にして衝動に駆られたことを延々と書き綴り、如何に悲惨に思ったかを強調する。それは音楽にて強調するに十分ではあるまいか。「完成までに4年かかった」というのだが、筆者はこれは言い訳、演出(謂わば方便の嘘?)に思えて仕方ない。自著には、震災のことなど一つも記されていないし、当時のライブではそのようなMCはまったくと言ってよいほど無かったように思えるからだ。 「マサの子守唄」の曲目解説にしても、昭和55年当時は、「優しさと暖かさを感じて弾いて下さい。(中略) 愛する人に、語りかけるような気分で弾いて下さい」と至って単純なものだった(「パーソナルアルバム2松田昌 サイレントダイアローグ」より引用)。これが、平成12年になると、次のようになる。曰く、 「人間の愛には恋愛、友情、師弟愛・・・色々な愛の形があるが、母の愛ほど純粋で無私な愛はないと思う。私達は誰でも、温かい母のぬくもりと、優しい子守唄の記憶を心の奥深くに抱いて生きている・・・。そのことに想いを寄せると私達の心も優しくなれる云々」と、これほどまでに説教臭くなってしまうのだ。殊に母親の愛を人一倍理解していることを強調しすぎで、余りの善人さ溢れるふるまいに引いてしまう。そうした解釈の詳細は、曲想に委ねてしかるべきであり、それで事足りよう。解説を以てここまで愛たるものを延々と強調する意義があろうか。 バカさんは、「コンクールで賞をもらうにはどんな曲がいいか?という考えはなんとかならないだろうか」と嘆く。筆者は、「多くの人に好かれるには、好感度を上げるにはどんな行動をとるべきか」と日夜打算に励むその姿勢にすこぶる疑問を抱き、嘆きたくなる。バカさんのやっている打算は、コンクール云々の行動、考えに同一の気がして仕方ない。バカさんの打算の方がはるかに問題ではあるまいか。冷静なる考察を願いたい。 これは、「二重人格的生き方」といえばいいのか。音楽家としてはもちろんのこと、一人の人間としても最低な生き方であるし、こんなに必死に打算に励んで人に好かれても少しも嬉しくない。バカさんはそれが心地よいというのだ。兎にも角にも人に好かれたい、好感度は常にトップの位置に在りたいというのだ。 上記に掲げた本宮師の格言、再度引用してみようか。曰く、「人気の傾向を気にして漫画を描き、それが人気を得たとしても少しも嬉しくない。自分のやりたい漫画を描き、それが人気を得たというのであれば、自分の思いが伝わったということであり、嬉しいことである」と。 バカさんに当てはめると、「人気の傾向を気にして善人の振る舞いをし、そうすることで人気を得たとしても少しも嬉しくない。自分の信念のもとで行動をし、それが人気を得た、好感度を高める要因につながったというのであれば、自分の思い、信条が伝わったということであり、嬉しいことである」となりはしまいか。バカさんは、人に好かれるために、最も忌み嫌っているはずの「コンクールで賞をもらうにはどんな曲がよいか」ならぬ「多くの人に好かれるにはどんな振る舞いをするのがよいか」という生き方を実践しているのだ。そんな愚者にコンクールの出場の指南を幾ら強調せられても少しも説得力が沸かないし、ヤマハ・コンクールの体質は少しも変えられていない。 バカさんは、ピアニキストを公言する。 「ピアニカ」ってヤマハの登録商標だろ。 この時点でヤマハに依存しているのが丸わかり。独立の折は「ヤマハから離れて独自の音楽世界を」と格好つけていたが、結局ヤマハに居づらくなって独立したのではあるまいか。 「ピアニキスト」という肩書きからそうした裏事情が読み取れてしまう。 ここに記していることは、機密事項ではなく、まして暴露話なんかではない。 筆者は、拙作「夢をおいかけて」(YMM出版)を中心とし、定価にて購入した拙作を中心とし、月エレやコンサートにて強く公言していたことを中心に、そこから導き出される疑問点、矛盾点を考察しているに過ぎない。これは純然たる表事情であり、普通に考察すれば簡単に導き出されることなのであり、誹謗中傷だなんてとんでもない。 ヤマハ関係者は、こうした疑問をこれっぽっちも考察するなく、盲信し続けているのである。 ファンだけの話ではない。 ヤマハ関係者全員が「マサさん」と慕い、その善意を盲信し、根底にある欺瞞と打算に気づかないのだ。 部外者やアンチには到底太刀打ちできず、エレ糞の世界から立ち去るしかない。 エレ糞は、そうして益々内輪でしか通用しない機械に成り下がってゆく。 とにもかくにもこの松田昌ほど勘違いの甚だしい打算に満ち溢れた偽善者を筆者は知らない。戦後史上、否、日本史上最凶の(最も凶悪なる)勘違いエセ・ミュージシャンではなかろうか。よくぞ30年来に亘ってエレ糞界のトップをひた走ってこられたものだ。 バカさんは謂う。曰く、 「50を前にしてこれだけの夢を抱き続けられるなんて、まさに幸せ者だと思う」と(最終頁)。 こちらは実に羨ましい限りである。大いに賛同する。 これだけかなわない夢を言いたい放題に公言しておきながら、その欺瞞と打算に気づかず、あれほどまでの盲信者に囲まれるのだ。 ヤマハ関係者は、盲信者をはじめとし、かなわない夢に対し、「これだけ沢山の夢を抱くマサさんは素晴らしい!」と感動する始末。 夢というのは抱くものではなく、叶えるものだ。 抱くだけならば誰でもできる。 一貫性のない、格好悪い態度を露呈して恥ずかしくないのか。 関係者が「素晴らしい」と解釈してくださるからそれだけ一貫性のない人生を歩んでいけるわけだ。 中には、ピアニキストを気取るバカさんに対し、「エレクトーン一筋!素晴らしい!」と賞賛する者もいる。冗談ではなく、真剣にだ。その心酔ぶりは丸で見ていられない。 60を過ぎてこんな浅はかなる頭脳の関係者に囲まれていい顔をできるバカさんは本当に幸せ者だと思う。 それが倫理的に格好いいかは別として。 エレ糞界に於ける勘違い野郎は、松田昌に留まらない。
これから挙げる、窪田宏とやらも、大いなる勘違いエセ・ミュージシャンであり、ヤマハエレ糞界に於けるA級戦犯の一人と堂々掲げられよう。 いつも疑問に思えてならないのが、「窪田宏=かっこいい」と真剣に口に出来る人々。 冗談ではない。本当に心の底から「かっこいい」と言っているのだ。 一体これのどこが「かっこいい」のかさっぱりわからない。 更に酷くなると、「窪田宏似の鶴橋君、かっこいい」とし、「窪田似だから応援したい」とみんなの観ている前で堂々と発言するバカな取り巻きも存在する。 鶴橋君?? 今、JOCの注目株らしい。2枚目肌で、窪田宏似がチャームポイントとのこと。 唖然とする他無かった。 演奏のことなどどうでもよい。 顔が似ているから応援したいという。 あの気色の悪い森脇顔で。 ひょっとすると、この鶴橋君とやらを応援せんと意気揚々の香具師、窪田宏似の修理工と不倫して離婚に至らせる虞もある。あなくわばらくわばら。 取り巻きに問いたい。 この顔のどこをどのように解釈すれば「かっこいい」と解釈できるのだろうか。 筆者は真剣にわからないし、一人取り残された気分になり、非常に居心地が悪かった。 どうみても森脇健児顔そのものであり、「かっこいい」と定義するにはあまりにおこがましくはあるまいか。幾ら「趣味は千差万別」とは雖も、その神経・感覚のずれ様に途方も無い気色の悪さを痛感せずには居られない。 森脇健児自身を否定するつもりは無い。 森脇自身の場合は、あの顔でよいし、頑張ってKBS京都の仕事に励んでもらいたく思う。 芸人志望で、はなからこの取り巻きの言うところの「かっこいい」路線を目指しているわけではあるまいし、不自然さは感じない。 窪田宏の2枚目気取りはどうにも不快感と強い抵抗感がよぎって仕方ない。 如何に解釈しても、如何に期待のハードルを地獄の果てにまで下げても、どうしても「かっこいい」と思えない。 窪田自身も、無理して2枚目を気取らんとしていて気味が悪いことこの上ない。 昭和60年ごろよくあったニヤケ笑いの写真は気色悪いと評する他無い。 その後、サングラスをかけたりブランドものを着こなしたりと、2枚目気取りに益々拍車をかけているような気がする。初期の頃に比べるとやや格好良くなった感じはなくもないが、基本は森脇顔そのものであり、不快感が漂うにはかわりない。 ヤマハはどうしてこの森脇顔を2枚目路線に置きたがるのだろうか。 他に人材は居ないのか。 取り巻きにしても、他に「かっこいい」と思える人は居ないのか。 モデルの世界に目を向ければ、これを超越する「かっこいい」人々は幾らでもいように、どうしてこんな格好の悪い森脇顔に固執するのか、理解に苦しむ。 窪田宏は、顔だけでここまでスター街道をひた走ってきたのか。 取り巻き達の憧れのもとを探ってみると、別に顔だけで惚れているわけでもなさそうなのだ。 取り巻き達は、口をそろえてかく賞賛する。曰く、 「かっこいい演奏」と。 ここでも筆者は唖然とせざるを得ない。 筆者の周りにも、嘗て熱烈なる取り巻きは居た。 兎に角窪田宏の話になると人が変わったかのように歴史を語ってくれたり、その気の狂いようには到底付いて行けなかった。 余りに当該取り巻きが「かっこいい」といって聞かず、 「そこまでいうならば」として何本かCDを聴いてみた。 ぐっっっすり眠れたね! 不眠症の一夜には最高の睡眠薬。 一体どうしたことか、格好良さのかけらも感じない。 筆者は、真剣に自分の神経を疑ってしまった。 格好良いとは思わないし、面白さなんて微塵も無い。 良い曲だなんてとてもとても。 何故「かっこいい」と思えないのか。 何故窪田宏の音楽に格好良さのかけらも感じないのか。 正確に言うと、取り巻きがしつこく強調する「かっこいい」パフォーマンスが見出せる箇所がないわけでない。 筆者は、その箇所を聞くたびに、 「他で代用が利かないの??」と疑問に思えて仕方ないのだ。 「これは窪田宏ならでは!」という、所謂「Something」を感じさせる要素が無いのが原因か。 「窪田宏」を思わせるフレーズ、音色が無いといえばよいのか。 ジャズバラード仕込のオリジナルは、普通にジャズ・ライブに通えば必ず聴けるお決まりの形だし、フュージョンだのロックだの、窪田宏を感じさせてくれない。そうした空気を運んできてくれない。 どれもこれも他所で聞いたかのような、あるいは他所で簡単に聞けるものばかりの気がして仕方ないのだ。窪田宏に執拗にこだわる理由がまるでわからない。 窪田宏の取り巻きは、所謂エレ糞音楽しか知らない偏狭の感覚の持ち主か。 否、当該取り巻き達は大いに音楽に詳しい。 筆者に嘗て付いていた取り巻きは、筆者以上に音楽に詳しかった。 キャリアも凄まじく、筆者の倍を超越する者も居たり、音大出身であったり、然る面子における音楽知識は計り知れない。 特にフュージョンに関して。 あれこれ格好良いフュージョンをひたすら聞かせてくれるわけである。 その格好良いとするフュージョンの行き着く先が「窪田宏」というわけである。 筆者は、その結論を聞く度に、「加トちゃーん、ヘックション!」とずっこける。 CD「窪田宏Best」は本当に酷い。特徴のかけらが微塵も感じられない。 その後、段々と格好良さげな音色を出すようにはなったものの、代用が簡単に利きそうなものばかりで面白いとは思わず、取り巻きのテンポには到底付いてゆけない。 CDに対する印象は、筆者にはさっぱりで、どれもこれも整理ポスト逝き決定なのであるが、エレ糞演奏はどうなのか。 初期の譜面であるが、本当に真っ黒でご苦労さんなことである。 窪田宏の取り巻きは、演奏を聴かせてやると、必ず「生の姿を見たい」と言い出す。 突っ込むと、恐らく「エレクトーンは、生の現場が素晴らしい!」 「聴くのもよいが、やはり生のライブでの臨場感は叶わない!」と返してくることであろう。 「生のライブは素晴らしい」というのだ。おかしくなかろうか。 エレ糞の場合、生のライブの音も演奏データも同じなのだ。 ライブで聴こうが自宅で聴こうが変わりは何も無い。 「気持ちが違う!」と言うのだが、それしきでそこまで変わろうか。 筆者は気づいた。 取り巻きは演奏を楽しんでいるのではない。 演奏する姿を楽しんでいるのだ。 もっといえば、 曲芸を楽しんでいるのだ。 窪田宏の根多は、曲芸無しには楽しめないのである。 もしも、音楽のみで勝負できる構成ならば、執拗に演奏姿とセットで見たいとは言うまい。 音楽だけで楽しめないから演奏する姿を観たいのである。 取り巻き達は、真っ黒の譜面により繰り広げられる窪田宏の曲芸、「かっこいい」と思わせるパフォーマンスに酔いしれた人達なのである。 肝心の音楽などどうでもよいわけだ。 エレ糞の世界に於いては、森脇顔だけ演奏ビデオがあったように思う。 ともすれば、スター扱いだからと思いがちであるが、窪田宏の音楽は曲芸とセットでないと楽しめないために、無理して演奏ビデオを制作させたのではなかろうか。 バカさんは、この森脇顔を「日本一のエレクトーン・プレイヤー」と賞する。 その一番の所以となる所は、「コイツは、ベーシストを用いず、自らの足をもってベースパートを巧みに操る所」という。 アフォかというのだ。 ベーシストを用いるのは阿漕なることか。ベースは自らの足を以て演奏せねばならないものか。 ベーシストに頼るのは、機種依存に同じ阿漕なることと言うのか。 ベースパートを自らの足を以て演奏するならば、初めから一人でよいわけであり、バンドを組む意義などどこにもあるまい。 このバカさんの褒め所は、音楽を褒めているようで、森脇顔の曲芸を褒めているに過ぎまいか。 これで本気でにこやかなる表情を浮かべている森脇顔には失笑のほか無い。 調子に乗って森脇顔曰く、「ぼくはテンポ200で足を縦横無尽に動かすことに生き甲斐を感ずる」と。 それがどうしたというのだ。 我々聴衆にとって大事なのは、足を動かされることか。 聴衆にとって大事であり、大切なことは、いい音を出すことである。性格には、「固有の音」やもしれない。窪田の音である。その奇妙奇天烈なる曲芸を以ていい音・固有の音が作り出せると言うならば話は別だが、所詮は普通にベーシストに任せればよいところを、曲芸を披露したいがためにベーシストを用意せず、自らの足を持って表現せんとしているだけであり、音楽的に意義は何も無い。実際、森脇顔の繰り出す音は、他で簡単に代用が効きそうなものばかりで固有には程遠い。 真っ黒な譜面だけに、練習し甲斐が全く無いわけではない。 最初は物凄く斬新に感ず。真っ黒な譜面を弾きこなせるようになったというだけあり、ついつい調子に乗ってしまいがち。 が、その高揚とした気分をぐっとこらえ、演奏に耳を傾ける。 やっぱりぐっすり眠れちゃうんだよねー。 少なくとも、「いつまでも弾きたい」と思わせる曲たちではない。 窪田宏の真っ黒な譜面は難しくない。 自転車の練習に同じく、一定時期を過ぎればすぐに弾きこなせる。 単なる運動だ。エレ糞の運動効果など高が知れている。 窪田宏は、ベースワークを売りとしているようである。 エレ糞の世界では格好良いことでも、所詮外の世界では到底かなうまい。 思えば、窪田宏は元はデモンストレータである。 それが、昭和59年の「ElectricFuture」がバカ売れし、ヤマハは「これしきでここまで受けるならば!」としてプレイヤーに無理やり昇格させた経緯がある。 デモンストレータの第一使命は何か。 演奏を聴かせることか。それはプレイヤーの第一使命である。 デモの使命は、エレ糞を買わせることである。 包丁の店頭販売員は、包丁を買わせる為に格好良い包丁捌きを披露する。 エレ糞デモンストレータは、エレ糞を買わせる為に格好良い演奏捌きを披露せねばならない。 音楽性は2の次、ひょっとすると5の次で足りるやも知れない。 窪田宏は、格好良いパフォーマンスをすることで惹き付け、それを「プレイすること」と勘違いしてしまったホームラン級のバカというわけだ。 どうりで外の世界に受けるわけがないのであり、CDが面白く感ぜられないわけである。 アレンジなんてどだいできるタマではないわけだ。 何だあの「NYパッションストリート」の糞アレンジは。 何が「究極のアレンジ」だ。「最低のアレンジ」ではあるまいか。 あれが「格好いい」だなんて世も末だ。元々カヴァー曲だったアレンジが更に悪質になっている。 「格好良く見せたい」という、店頭販売根性が丸見えで気分が悪い。 これにしても、取り巻きたちは、ライブに於いて、譜面とは違うベースワークをいたく評価しており、肝心の音楽など少しも評価していない(取り巻きたちのブログを凝視してみよ)。 全体的評価は、三原善隆アレンジ「Sun Country」を最低とするが、筆者はむしろこの窪田宏アレンジが最低と考える。どこにも音楽性、窪田宏を思わせる音が感じられないのだ。 エレ糞の場合、「今までやってこなかったこと」がオリジナルになるという危険をはらんではいまいか。 どうしても古のスタンダードナンバーやジャズナンバーがアレンジせられがちで、ロックやフュージョンはアレンジせられにくい。 そのアレンジせられていない隙間隙間を縫い合わせて曲作りをしているだけなのではなかろうか。非常に悪い意味の「ニッチ戦略」だ。 きちんとした作曲に見せる為に、尚美にて学んだ音楽理論を生かしているのであろう。なんとも要領良き生き様だと失笑せずには居られない。 もう1つ、エレ糞関係者は、「誰かを意識した」といわれると高揚する一面がありやしまいか。 「ハービー・ハンコックを意識してつくった」「チック・コリアを意識して作った」というと、「メジャーに一歩近づいた」などと本人と共に勘違いしては居なかろうか。 意識してつくったどころか、そっくりそのまま頂戴しただけではなかろうか。そうでないと、ここまで面白みの無い音楽はできまい。 こんな調子だから外の世界に受けないのは大いに納得が行く。 エレ糞で天下を取った者は、概して外では天下はとれない。その典型例を態度で示しているといってよい。ヤマハの目はごまかせても、外のプロ達の目はごまかせまい。 ヤマハ関係者は、よく言う。曰く、「窪田宏はエレクトーンの世界を変えた」「何らかの人が何らかの形で窪田宏の影響を受けた」と。 「窪田宏の下で(尚美)の授業が受けられただなんて、授業料はただ同然」と発言する者まで居る。 これらが真実だとすると、ヤマハはとんでもない勘違いをしでかしていることになる。 こんなデモとプレイの境界線を曖昧にせしめた者が何らかの改革を起こさせたとなると、「勘違い」どころでは済まされない。 思うに、これがプレイヤーデビューをした昭和59年から、またその後のエレ糞の世界の歯車が狂いだしてきては居なかろうか。筆者の考える第二のターニングポイントである。 こんなデモ上がりに遠方から45分で15千円もの月謝をどぶに捨てていた受講生があまたに居ると思うとぞっとする。こんな勘違いから何が学べたというのだろうか。 デモ出身であるだけに、機械いじりの巧さを感ずることはある。 FXにてよくやっていた、カスタムABCとベースワークの融合などが然り。凄くはあるが、外の世界に於いては(あるいはCDの形で聴いてみると)単なるベースと変わりが無く、音楽的に革新的なものとは言いがたい。 音色は、格好よさげに錯覚せられがちであるが、実際は、ELにて同じ音色を2つ重ねるという禁じ手を用いている。ヤマハ指導部は、「同じ音色を二つ用いるのは良くない」として禁じ手にしているが、窪田宏の手にかかると「格好良い」となってしまうのだ。 一度発表せられた曲のアレンジがあろう。新たなる曲集に出すとき、以前とは違う形のアレンジを出す者も居る。それに対し、「やめてほしい」と真剣に唱えた者が居る。窪田宏が同じことをやると、「格好いい!!」「新たなる世界が繰り広げられた!!」と喜ぶ始末。 「ニューヨークパッション~」など、「オリジナルとは調が違うので気をつけましょう」。。。 シャープ5つ、フラット6つの調号を忌み嫌う者が、窪田宏ならば「格好いい」と喜ぶ始末。 生粋のフュージョン通で、窪田宏大好きの者など、窪田宏のバラードのみ「格好いい」と喜ぶ始末。 その他のバラードは完全否定。 ファンというのは、そこまでのめりこんでしまうものなのか。 文章だけでは、単なる痛々しきファンという印象にしか映らないであろう。窪田宏ファンの場合、窪田本人に対する接し方とその他の者のそれに差がありすぎる。 そんな窪田も、新たなファンは軒並み減らしている模様である。 捨て時亜は、「リアルタイム演奏が売り」と散々強調していた。窪田は、キーボーディストを気取るためか、打ち込みだらけの演奏を発表。 リアルタイム演奏を披露する場で、どうして打ち込みだらけのサポートデータを公開するのか。 貴様にはリアルタイム演奏の自信が無いのか。 そんなにエレ糞が嫌いならば、とっととやめよというのだ。 何だか、エレ糞は本当は嫌いだが、かといってエレ糞を捨てるとヤマハの甘い汁が吸えないと弱腰になっているのが丸分かりで、「かっこいい」だなんて勘違いもはなはだしい。 サポートだらけのデータに固執するのは、「自分はパフォーマンスだけが売りではない」と強調しているように思え、失笑するのみである。サポートだらけのデータを演奏する姿をみると、堅気のキーボーディストに最適のプレイヤーに思えてしまおう。外部のメジャーどころのコネクションもプレイヤー中最多で(ポンタさん、幾見さんといった面々他多数)、最も外部にその人気・実力を認められていそうに錯覚しがち。 一歩立ち止まり、よくよく考察するに、窪田宏は若しやしてもっとも堅気のそれには不向きなデモンストレーターとは言えまいか。 メジャーとのコネクションを人一倍深めるのも、メジャーと同列に扱われたいと思うからではなかろうか。一流どころ、超一流どころを「並び」で語られたいのだ。実際、取り巻き達は並びで語ろうとし、本気であまたのメジャーに認められているスターと確信している。 窪田宏本人と取り巻きの勘違いには唖然とする他無い。 アンチ窪田を誇る者も、「昔は好きだった」として好きだった曲100曲を挙げる始末。 ファンとやっていることが変わらない。 新たなるファンは獲得できずとも、デビューからのファンはまだまだ多い。 これらは、そろそろ中堅からベテランに達する世代だ。 強靭なるファンがヤマハを引導することになる。エレ糞文化の凋落、勘違いはこれからも続くことであろう。 こんな安物のデモ演奏を垂れ流しておいて、全米デビュー? バカは休み休みに言うべきである。
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